石川河主
石川 河主(いしかわ の かわぬし)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。中納言・石川豊成の十男。官位は正四位上・武蔵守。
時代 | 奈良時代 - 平安時代初期 |
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生誕 | 天平勝宝6年(754年) |
死没 | 天長7年12月27日(831年1月14日) |
官位 | 正四位上・武蔵守 |
主君 | 桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇→淳和天皇 |
氏族 | 蘇我氏流石川氏 |
父母 | 父:石川豊成 |
兄弟 | 河主 |
経歴編集
初め縁あって出家して僧籍にあったが還俗して朝廷に再出仕し、延暦13年(794年)に従五位下に叙爵。以後、木工頭・造宮亮・播磨介等を歴任し、延暦23年(804年)に菅野真道と共に僧綱事務の監督を命じられる[1]。またこの間に従五位上に叙せられている。延暦25年(806年)3月の桓武天皇崩御に際して御装束司を務め、翌月の平城天皇の即位に伴い正五位下に昇叙された。
嵯峨朝では内匠頭・民部大輔を務める傍ら、弘仁4年(813年)従四位下、弘仁13年(822年)従四位上と昇進した。弘仁14年(823年)4月の淳和天皇の即位に伴い正四位下、同年11月には正四位上と続けて昇叙される。のち左京大夫・武蔵守などを歴任した。この間、天長4年(827年)山陵の木を伐採するために[2]、天長5年(828年)天変地異を鎮める祈祷を行うためにそれぞれ柏原山陵に派遣されている[3]。
人物編集
仏教と儒教の多数の教典を学び、併せて工芸技術の知識も持っていた。桓武天皇の時代に造作が盛んであったことから、時流に乗って身を処して利益を得たが、貪欲であり他人に施すようなことはなかった[4]。