石川県営兼六園野球場
石川県営兼六園野球場(いしかわけんえい・けんろくえんやきゅうじょう)は、かつて石川県金沢市にあった野球場。石川県が運営管理していたが、1973年限りで閉鎖された。
石川県営兼六園野球場 | |
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施設データ | |
正式名称 | 石川県営兼六園野球場 |
所在地 |
石川県金沢市石引4丁目17-1 (現在の北陸電力会館 本多の森ホール部分) |
開場 | 1947年10月25日 |
拡張 | 1959年6月13日 |
閉場 | 1973年11月 |
取り壊し | 1974年 |
所有者 | 石川県 |
使用チーム • 開催試合 | |
第2回国民体育大会(1947年) 高等学校相撲金沢大会(1954年 - 1960年[1]) | |
収容人員 | |
約2万人[2] | |
グラウンドデータ | |
歴史編集
金沢市中心部、兼六園に隣接する旧陸軍出羽町練兵場の公用地に、石川国体の開催に合わせて1947年10月25日に完成した[2]。
完成時は両翼85m・中堅90mで[3]、フィールドの狭さが指摘されていた。翌1948年4月に初めて開催されたプロ野球公式戦・大陽ロビンス - 急映フライヤーズ戦で両チーム6本塁打と、当時としては本塁打の多い試合だったことがきっかけで、同年9月に100万円の費用をかけて両翼90m、中堅97mに拡張された[3]。
ところが、翌1949年4月26日に開かれた読売ジャイアンツ - 大映スターズ戦では、両軍合わせて13本の本塁打が飛び交う乱打戦(1試合両チーム本塁打数・日本プロ野球最多タイ記録)となり[3]、この年に1000万円をかけて再び拡張。工事は1950年4月に完成し、両翼99.1m、中堅122mとなったが[3]、今度は広過ぎて本塁打が出にくくなった。1959年6月、約7000万円をかけて内野スタンドの改築とグラウンド工事が行われ、両翼91.4m、中堅112.8mとなった。
その後、施設の老朽化やグラウンド設備の陳腐化、周辺地域の宅地化により、1973年11月をもって閉鎖、施設は撤去された。なお、1974年、郊外の西部緑地公園内に石川県立野球場が設けられた。
兼六園球場の跡地には1977年、石川厚生年金会館(現・北陸電力会館 本多の森ホール)が建設された。建築家の黒川紀章の設計により許容建蔽率を最大限利用したため、建物は敷地外郭に沿い扇形をしている[3]。
北陸電力会館 本多の森ホールの裏(兼六園弓道場近く)には、懸営兼六園野球場と記された石碑が建立されている。
主なエピソード編集
- 1947年10月30日、第2回国民体育大会(石川国体)の金沢三中(石川県代表)対仙台二中(宮城県代表)の試合は昭和天皇の高覧試合となった[4]。試合は金沢三中が勝利し、最終的には準決勝まで進んだ[4]。同大会は岐阜商(岐阜県代表)が優勝した[4]。
脚注編集
関連項目編集
- 日本の野球場一覧
- 高等学校相撲金沢大会 - 1954年から1960年まで当野球場を会場として使用。