石抹 エセン(せきまつ エセン、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えた契丹人の一人。

漢文史料上では石抹也先石抹阿辛という2通りの表記があり、『元史』は誤って両方の列伝を立てている。

概要 編集

エセンはキタイ帝国(遼朝)の歴代皇后を輩出した審密=石抹氏(漢風には蕭氏)[1]の出であった。祖父の庫烈児は金朝に仕えていたが90歳の時に亡くなり、父の脱羅華察児は金朝には仕えなかった。脱羅華察児には5人の息子がいたが、そのうちの次男こそがエセンであった[2]

エセンが10歳になったとき、宗国(遼朝)の滅亡の原因について父に尋ねると、脱羅華察児は大いに憤ってお前が宗国の復興をなせと言われたという。エセンは成長すると武勇知略に優れ、周辺諸部からも認められるようになった。金朝はその名声を聞いて奚部の長に任じようとしたが、エセンはこれを兄の贍徳納に譲り「兄がこれを受けることで宗族を保たれよ」と述べて自らは表舞台に立とうとしなかった。これ以後、エセンは野山に隠れ住んで狐・鼠などを狩って暮らして時節を待った。モンゴル高原でチンギス・カンが立ったことを聞くと、エセンは馬匹を持ってこれに来帰し、「東京(遼陽府)は金朝開基の地で、その根本を脅かせば中原もするでしょう」と進言した。チンギス・カンはこれを喜び、左翼軍を率いるムカリの指揮下に入って東京攻略に当たるよう命じた[3]

臨潢府を過ぎ、高州に進出した時、ムカリはエセン率いる1千の騎兵に先鋒を務めるよう命じた。そこでエセンは一計を案じ、交代したばかりの東京留守が至るのを数騎で待ち伏せて襲い、東京留守の任命書を奪った。エセンは任命書を持って東京に向かい、「我こそが新たな東京留守である」と言って城内に入って城壁に守備兵を下がらせてしまった。3日後、ムカリ軍本隊がやってくるとエセンの事前工作によって東京は戦わずして陥落してしまい、1本の矢も用いることなくモンゴル軍は数千里の土地・10万8千の戸民・兵10万・山と積まれた食糧・資財、降伏した守臣の寅答虎ら47人、城邑32を手に入れることになった。金朝「根本の地」を失ったことは、金朝が黄河以北の領有を諦めて朝廷を河南に移す一因になったとされる[4]

1215年乙亥)には北京(大定府)包囲に加わり、落城後には城民を虐殺しようとした武将を説得してやめさせ、この功績によってエセンは御史大夫・領北京ダルガチの地位を得た。また、この頃石天応らが興中府によって自立していたが、エセンは別動隊としてこれを降伏させたため、功績により興中尹となった。またエセンはトルン・チェルビの副官としてモンゴルに降った張鯨らの監視を行った。張鯨はまだモンゴルに降っていない地方を平定するために南下したが、平州に至ったところで病を理由に進軍をやめた。そこでエセンは叛乱を疑い張鯨を捕らえてチンギス・カンの下まで送り、チンギス・カンと対面した張鯨は弟の張致を質子として差し出して許しを乞おうとしたが、結局は宵の内に逃れ去ってしまった。エセンはこれを追って張鯨を殺したが、弟の張致はすでにモンゴルを裏切って自立しており、これを平定した。エセンはこの功績により上将軍となり、「遼河から西、灤水より東」の地、すなわち遼西地方はこれにより完全に平定された[5]

その後、ムカリの指揮下で蠡州北城を攻めている最中、城壁に上ろうとして投石にあたったことで41歳にして亡くなった[6]。子は石抹査剌・石抹咸錫・石抹博羅・石抹侃の4人いたが、石抹査剌が跡を継いだ[7]

脚注 編集

  1. ^ 愛宕は審密=石抹氏はシャルムート(šarmut/sirmut)、すなわち「牛」をトーテムとする氏族であることを意味する名称に由来するものであると推測する(愛宕1995,33-34頁)。
  2. ^ 『元史』巻150列伝37石抹也先伝,「石抹也先者、遼人也。其先、嘗従蕭后挙族入突厥、及后還而族留。至遼為述律氏、号称后族。遼亡、改述律氏為石抹氏。其祖庫烈児、誓不食金禄、率部落遠徙。年九十、夜得疾、命家人候日出則以報、及旦、沐浴拝日而卒。父脱羅華察児、亦不仕。有子五人、也先其仲子也」
  3. ^ 『元史』巻150列伝37石抹也先伝,「年十歳、従其父問宗国之所以亡、即大憤曰『児能復之』。及長、勇力過人、善騎射、多智略、豪服諸部。金人聞其名、徴為奚部長、即譲其兄贍徳納曰『兄姑受之、為保宗族計』。遂深自蔵匿、居北野山、射狐鼠而食。聞太祖起朔方、匹馬来帰。首言『東京為金開基之地、蕩其根本、中原可伝檄而定也』。太祖悦、命従太師・国王木華黎取東京」
  4. ^ 『元史』巻150列伝37石抹也先伝,「師過臨潢、次高州、木華黎令也先率千騎為先鋒、也先曰『兵貴奇勝、何以多為』。諜知金人新易東京留守将至、也先独与数騎、邀而殺之、懐其所受誥命、至東京、謂守門者曰『我新留守也』。入拠府中、問吏列兵於城何謂、吏以辺備対、也先曰『吾自朝廷来、中外晏然、奈何欲陳兵以動搖人心乎』。即命撤守備、曰『寇至在我、無労爾輩』。是夜、下令易置其将佐部伍。三日、木華黎至、入東京、不費一矢、得地数千里・戸十万八千・兵十万・資糧器械山積、降守臣寅答虎等四十七人、定城邑三十二。金人喪其根本之地、始議遷河南」
  5. ^ 『元史』巻150列伝37石抹也先伝,「歳乙亥、移師囲北京、城久不下、及城破、将屠之。也先曰『王師拯人水火、彼既降而復屠之、則未下者、人将死守、天下何時定乎』。因以上聞、赦之。授御史大夫、領北京達魯花赤。時石天応与豪酋数十拠興中府、也先分兵降之、奏以為興中尹。又命也先副脱忽闌闍里必、監張鯨等軍、征燕南未下州郡。至平州、鯨称疾不進、也先執鯨送行在所、帝責之曰『朕何負汝』。鯨対曰『臣実病、非敢叛』。帝曰『今呼汝弟致為質、当活汝』。鯨諾而宵遁、也先追戮之、致已殺使者応其兄矣。致既伏誅、也先籍其私養敢死之士万二千人号黒軍者、上于朝。賜虎符、進上将軍、以御史大夫提控諸路元帥府事、挙遼水之西・灤水之東、悉以付之」
  6. ^ 『元史』巻152列伝39石抹阿辛伝,「石抹阿辛、迪列紇氏。歳乙亥、率北京等路民一万二千餘戸来帰、太師・国王木華黎奏授鎮国上将軍・御史大夫。従撃蠡州、死焉」
  7. ^ 『元史』巻150列伝37石抹也先伝,「後従国王木華黎攻蠡州北城、先登、中石死、時年四十一。子四人曰査剌、曰咸錫、曰博羅、曰侃」

参考文献 編集

  • 愛宕松男「キタイ氏族制の起源とトーテミズム」『史林』38巻6号、1955年
  • 元史』巻150列伝37石抹也先伝、巻152列伝39石抹阿辛伝
  • 新元史』巻135列伝32石抹也先伝
  • 蒙兀児史記』巻49列伝31石抹也先伝