石橋八九郎 (1833年生の実業家)
石橋 八九郎(いしばし はちくろう[1]、旧姓・阪本、幼名・甚七、1833年(天保4年) - 没年不明)は、日本の商人、会社役員。
人物
編集紀州の人[1]。海草郡加太村(現・和歌山市)生まれ[1]。阪本甚右衛門の子である[1]。家は代々網綱を商とし、「十一屋」と称する[1]。成長すると紀泉両州に行商し、網綱を販ぎ1日も懈怠せず、「十一屋」の名が大に揚がる[1]。
安政5年、石橋家を嗣ぐ[1]。当時石橋家の資産は富裕ではなく、僅かに米穀と肥物を商い唯数畝の菜園あるのみであったが、八九郎が励精刻苦、家事を見るとまもなく漸く富裕となった[1]。性格は慈善を好み、救恤を致し、官は褒賞を賜うことになったが、八九郎は固辞して受けなかった[1]。
紀州銀行取締役、南陽肥料取締役などをつとめる[1]。住所は和歌山県海草郡塩津村[1](現・海南市下津町塩津)。石橋合名会社代表社員石橋八九郎(旧姓・中村)は養子[2]。
脚注
編集参考文献
編集- 『日本現今人名辞典』日本現今人名辞典発行所、1903年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。