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石母田 宗頼(いしもだ むねより)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将仙台藩重臣。

 
石母田宗頼
時代 安土桃山時代 - 江戸時代
生誕 天正12年(1584年
死没 正保4年5月26日1647年6月28日
改名 浦山景綱→石母田宗頼
別名 清三郎、大膳、宗綱、宗親
戒名 秀英院峯山涼雄居士
墓所 黄金寺(宮城県栗原市
主君 小早川秀秋伊達政宗忠宗
仙台藩
氏族 浦山氏→石母田氏
父母 父:高能正親、母:浦山秋元
養父:石母田景頼
兄弟 浦山長助、宗頼
正室:円成院(石母田景頼二女)
定頼、女子(遠藤康信室→宮内定清室)、伊達国隆
養女:女子中村康時室。長助の娘)

生涯編集

天正12年(1584年)、朝倉氏旧臣・高能正親の二男として越前国に生まれる。

はじめ母方の浦山姓を称して浦山景綱と名乗り、北ノ庄城主・小早川秀秋に仕官したが、慶長4年(1599年)に秀秋が旧領の筑前名島城に復帰すると、小早川家を離れて伊達政宗に仕官し、伊達家重臣・石母田景頼の娘婿に迎えられる[1]。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には白石城奪還作戦に参加している。

慶長6年(1601年)、景頼が桑折氏の番代となって石母田家を離れると、石母田家の家督を相続し、登米郡米谷城2,000石を継いだ。元和元年(1615年)には奉行職(他藩の家老に相当)に就任、大坂の陣の軍功により、翌元和2年(1616年)には4,000石に加増され胆沢郡水沢城主となり、寛永5年(1628年)には栗原郡岩ヶ崎城主となって5,400石まで加増されている。

寛永13年(1636年)に政宗が死去した際には殉死を願い出たが、将軍徳川家光の上意により差止められた[2]。政宗の跡を継いだ第2代藩主・伊達忠宗の下でも引き続き奉行職を務め、寛永総検地後には6,500石にまで加増されている。

正保4年(1647年)5月26日死去。享年64。嫡男・定頼が家督を相続した。

系譜編集

  • 父:高能正親
  • 母:浦山秋元の娘
  • 正室:円成院(石母田景頼の二女)
    • 女子 - 長女。遠藤康信室、のち宮内定清室
    • 女子 - 二女。伊達国隆
    • 石母田定頼 - 長男
    • 千菊 - 三女。早世
    • 石母田百助 - 二男。早世
  • 養子:女子 - 兄・長助の娘。中村康時室

脚注編集

  1. ^ 石母田家の家譜では、政宗への仕官を慶長2年(1597年)とし、政宗が父祖の勇を善しとして、秀秋に請うて自らの家臣に迎えたとしている。
  2. ^ 『伊達政宗、最期の日々』239頁

参考文献編集

  • 編:大塚徳郎『仙台藩重臣石母田家文書』史料編(刀水書房、1981年)
  • 小林千草『伊達政宗、最期の日々』(講談社、2010年)