石重貴
石 重貴(せき じゅうき)は、五代後晋の第2代(最後の)皇帝。『新五代史』では出帝と記載される。
出帝 石重貴 | |
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後晋 | |
第2代皇帝 | |
王朝 | 後晋 |
在位期間 |
天福7年6月13日 - 開運3年12月17日 (942年7月28日 - 947年1月11日) |
都城 | 開封 |
姓・諱 | 石重貴 |
諡号 | 少帝(『旧五代史』) |
生年 |
乾化4年6月27日 (914年7月22日) |
没年 |
保寧6年6月18日 (974年7月10日) |
父 | 石敬儒 |
母 | 安氏 |
后妃 | 馮皇后 |
年号 |
天福 : 942年 - 944年 開運 : 944年 - 946年 |
生涯編集
皇族時代編集
高祖石敬瑭の兄の石敬儒の子として晋陽に生まれた。その後、石敬瑭の養子となる。
天福元年(936年)に石敬瑭に従って洛陽に入り、北京留守・太原尹・河東節度使に任じられた。天福3年(938年)11月には鄭王・開封尹に任じられた。天福6年(941年)には斉王・広晋尹・功徳使に転任となった。
即位後編集
天福7年(942年)6月に高祖が崩御したことにより即位、開運と改元した。在位中は蝗害が各地で発生し、逃戸飢民が大量に発生した。また景延広の建議により契丹への臣下の礼を廃し、契丹に対し対決姿勢を明確にした。これに対して後晋に侵攻した契丹軍を2度にわたり防いだが、開運3年(946年)の3度目の侵攻で開封は陥落、出帝は契丹軍に降伏した。降伏した石重貴は太宗から負義侯に封じられ、北方に連れ去られて後に建州で没している。
宗室編集
后妃編集
- 馮皇后