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石黒 和弘(いしぐろ かずひろ、1941年7月1日 - )は、愛知県名古屋市熱田区[1]出身の元プロ野球選手内野手)。

石黒 和弘
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県名古屋市熱田区
生年月日 (1941-07-01) 1941年7月1日(78歳)
身長
体重
172 cm
67 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手二塁手右翼手
プロ入り 1964年
初出場 1964年
最終出場 1971年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

経歴編集

中京商業高校では2年生でレギュラー遊撃手となり、甲子園に4回出場[1]1958年春の選抜では決勝に進出するが、済々黌高に敗退し準優勝に終わる[2]。同年夏の選手権でも2回戦で同じ済々黌高に敗れる[3]。1年上のチームメートにエースの伊藤竜彦外野手早瀬方禧がいた。翌1959年春の選抜では、後にプロで同僚となる平沼一夫(中京大西濃運輸東京オリオンズ)、伊東栄二両投手の好投もあり、決勝で高木守道がいた県岐阜商を破って優勝[2]夏の選手権にも出場し春夏連覇を狙ったが、初戦で高鍋高に敗退した[3]

卒業後は慶應義塾大学へ進学し、東京六大学野球リーグでは1962年秋季リーグ、1963年春季リーグに優勝。1年下のエース渡辺泰輔を擁し、1963年全日本大学野球選手権大会でも決勝で駒大を破り優勝している。クリーンナップとして活躍し、ベストナイン(遊撃手)を1962年秋季リーグから3季連続で獲得した。リーグ通算66試合に出場し222打数64安打、3本塁打、20打点、打率.288。大学同期には北川公一がいる。

1964年東京オリオンズへ入団[1]。1年目からいきなり遊撃手の定位置を獲得、同年は117試合に出場し打率.256(23位)、13本塁打、37打点とまずまずの記録だった。この年のパシフィック・リーグ新人王の最有力候補として名前が挙がったが、結局は選出されなかった(該当者なし)。これには、打率の低さ・存在の地味さ(当時のオリオンズは人気も他のチームに比べて低かった)が関係しているとみられる。

翌年は山崎裕之の加入でポジションを失ったが、1967年には八田正二塁手の定位置を争い、主に一番打者として87試合に先発出場。しかし翌年は前田益穂が二塁手に回ったため、右翼手として起用される。その後は段々と出場機会が減り、1971年を最後に現役を引退した[1]

詳細情報編集

年度別打撃成績編集

















































O
P
S
1964 東京
ロッテ
117 497 445 64 114 29 2 13 186 37 7 4 4 1 45 0 2 53 4 .256 .327 .418 .745
1965 86 211 179 21 40 6 1 7 69 19 2 2 1 2 26 0 3 36 6 .223 .332 .385 .717
1966 91 265 236 20 44 5 1 3 60 19 3 3 5 1 22 2 1 47 3 .186 .259 .254 .513
1967 110 376 351 36 84 18 0 9 129 24 14 5 6 0 19 1 0 43 7 .239 .278 .368 .646
1968 79 178 155 23 41 5 0 9 73 25 3 1 1 1 21 1 0 28 0 .265 .352 .471 .823
1969 29 54 48 4 9 3 0 1 15 3 0 0 2 0 3 0 0 9 3 .188 .235 .313 .548
1971 17 18 14 0 2 0 0 0 2 1 0 0 0 0 4 0 0 7 0 .143 .333 .143 .476
通算:7年 529 1599 1428 168 334 66 4 42 534 128 29 15 19 5 140 4 6 223 23 .234 .305 .374 .679
  • 東京(東京オリオンズ)は、1969年にロッテ(ロッテオリオンズ)に球団名を変更

背番号編集

  • 23 (1964年 - 1971年)

脚注編集

  1. ^ a b c d プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、41ページ
  2. ^ a b 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  3. ^ a b 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年

関連項目編集

外部リンク編集