福地寿樹

日本の元野球選手

福地 寿樹(ふくち かずき、本名:福地 和広(ふくち かずひろ)、1975年12月17日 - )は、佐賀県武雄市出身の元プロ野球選手外野手内野手)。

福地 寿樹(福地 和広)
広島東洋カープ 二軍打撃・走塁コーチ #85
2017年9月28日、マツダスタジアムにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 佐賀県武雄市
生年月日 (1975-12-17) 1975年12月17日(48歳)
身長
体重
184 cm
85 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 外野手二塁手
プロ入り 1993年 ドラフト4位
初出場 1997年10月10日
最終出場 2012年10月15日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 東京ヤクルトスワローズ (2013 - 2021)
  • 広島東洋カープ (2023 - )

来歴 編集

プロ入り前 編集

中学校時代からのちに武器となる俊足で鳴らし、中学2年生ではハードルで県大会に出場し、見事に優勝した。佐賀県立杵島商業高等学校に進学後は硬式野球部に所属し、3年生最後の県大会ではベスト4まで勝ち進んだほか、佐賀県高校選抜でも4番・遊撃手を務めた。高校通算打率は4割を超え、通算本塁打も18本を数えている。

1993年度ドラフト会議にて、広島東洋カープから4巡目指名を受けて入団。背番号は53

広島時代 編集

プロ1年目の1994年はウエスタン・リーグで39試合に出場し5つの盗塁を決めた。翌1995年から二軍の主力に定着。

1995年から1998年まで4年連続して盗塁王に輝いた。特に1998年にはウエスタン・リーグ史上唯一となる年間50盗塁を記録した。1997年には背番号を44に変更し、10月10日の対ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)で、消化試合ながら2番・二塁手で一軍初(先発)出場を果たした。

1999年から登録名を「和広」から「寿樹」へ変更すると、4月20日の対読売ジャイアンツ戦(広島市民球場)で上原浩治からプロ初安打となる遊撃内野安打を放った。

2000年から2003年まで4年連続2桁盗塁を記録する。

2003年は1番・二塁手でプロ初の開幕先発出場の座を掴み、4月12日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)でプロ初本塁打を放った[1]。さらに、セントラル・リーグ2位タイの盗塁数を記録し、一気に二塁手のレギュラーになるかと思われたが、5月以降は木村拓也にレギュラーを奪われた。

2004年は前年に続いて二塁手のレギュラーの座を狙える状態だったが、開幕前に右足首靱帯断裂の重傷を負い、足が武器の福地にとって回復が大幅に遅れ、この年は0盗塁に終わった。ようやくシーズン最終戦の最終打席(10月14日、対横浜ベイスターズ戦の9回二死無走者)で吉見祐治からシーズン初安打となる二塁打を放ち、その試合でノーヒットノーラン献上を目前で阻止した[2]

2005年には走塁面で復調して2年ぶりの盗塁を決めるなど、最終的には8盗塁を記録した。

2006年3月23日、青木勇人との交換トレードで西武ライオンズへ移籍。

西武時代 編集

2006年開幕より好調な打撃を見せ、セ・パ交流戦からは1番・右翼手として定着、競争の激しい西武外野陣の中でレギュラーを掴み取った。同年6月7日には13年目にして初となるヒーローインタビューを受けたほか、広島時代には12年間で僅か1本しか打てなかった本塁打も同年だけで4本打っており、打率.289、最大の持ち味である盗塁もリーグ3位の25個を決め、プロ13年目にして大きく飛躍したシーズンとなった。

2007年もオープン戦から好調で、中堅手のレギュラーだった赤田将吾が離脱したこともあり、赤田を抑えて1番・中堅手で2度目の開幕先発出場を果たした。序盤は不調で佐藤友亮栗山巧と中堅手のレギュラーを争う形となったが徐々に調子を上げ、6月16日の対広島東洋カープ戦では5打数5安打を記録するなど、印象的な固め打ちも多かった。一時はレギュラーの座を掴みかけたが、8月以降は栗山の成長や福地自身の出塁率の悪さもあり、代走・守備要員に回る機会が多くなったが、28個の盗塁を記録した。

同年12月21日FA権行使によって、東京ヤクルトスワローズから西武ライオンズへ移籍してきた石井一久の人的補償選手として、東京ヤクルトスワローズへ移籍することが決まり、12月26日付でヤクルトの支配下選手に登録されたことが公示された。2008年1月9日に入団発表を行い、背番号は29に決まった。

ヤクルト時代 編集

 
2008年7月16日阪神甲子園球場

2008年は開幕先発出場を逃したものの、徐々に調子を上げて1番打者として定着し、同年8月12日より7試合連続マルチ安打を達成した。9月28日の広島市民球場公式戦最終戦では同球場での最後の打者となり、永川勝浩の前に空振り三振に倒れている。最終戦の10月12日には自身初の一塁手で先発出場した。最終的には131試合に出場して初の規定打席に到達し、打率.320・9本塁打、61打点と自己最高の成績を残した。また、俊足を生かしてリーグ最多となる7本の三塁打を放った。このシーズンは42盗塁で、赤星憲広と1差でセ・リーグ盗塁王を獲得、15年目にして初のタイトル獲得となった。また、人的補償で他球団へ移籍してのタイトル獲得は福地が唯一の事例である。その活躍からWBC日本代表候補に名前が挙がった。

2009年は背番号を3に変え、基本は1番・左翼手で出場した。打率・出塁率が前年よりも低下したものの盗塁死数が減少し、2年連続盗塁王を獲得した。9月28日には通算200盗塁を決めている。

2010年も開幕から1番・左翼手として起用されたが、4月8日に左ふくらはぎの肉離れによって登録を抹消される。5月2日に再登録されるも、その後は打撃不振により先発を外れることが多くなり、主に代走・守備固めなどで起用された。8月10日の対読売ジャイアンツ戦では11回裏に押し出し死球でサヨナラ勝利を飾り、好調が続くチームは7連勝となった。打席に立つ機会は減ったものの、途中出場時には高打率を残してチームに貢献し、最終的には打率.246、盗塁23(盗塁死4)という成績となった。

2011年開幕当初は打撃不振でありながら、「足のスペシャリスト」としてチームに貢献した。しかし、6月18日の対千葉ロッテマリーンズ戦で、二塁へのスライディング時に左肩関節を脱臼し、離脱することとなった[3]。終盤戦に復帰し、10月9日の対広島東洋カープ戦では9回1アウトまで無安打投球で抑えていた前田健太からサヨナラ打を放った[4]。手薄となったチームの穴を埋めてクライマックスシリーズファイナルステージ進出に貢献したが、出場試合は40試合に留まった。

 
2012年10月7日 古巣広島から花束贈呈

2012年はチームがクライマックスシリーズ進出争いをする中、83試合に出場。12盗塁で失敗は僅か1つと盗塁成功率が9割を超えた。また、代打でも27打数10安打、打率.370、出塁率.433の活躍を見せた[5]。9月26日の対阪神タイガース戦では通算1000試合出場[6]、10月4日の対広島戦(マツダスタジアム)では史上44人目となる通算250盗塁を達成[7]。この250盗塁を花道とし、10月6日に同年限りでの現役引退を発表した[8]。10月7日、シーズン最終戦の対広島東洋カープ戦では5回に代打として出場、その後も守備に就き、8回裏には横山竜士から中前安打を放っているが、牽制でアウトになっている。試合後にはチームメイトから胴上げされている[9][10]。中日とのクライマックスシリーズファーストステージには3試合とも出場し[11][12]、第3戦では7番・中堅手として先発出場したがチームは敗れ、これが現役最後の試合となった[13]。11月1日に任意引退公示された[14]

現役引退後 編集

2012年オフの明治神宮球場で開催されたファン感謝DAYで、同じく引退を表明していた宮出隆自と合同で引退セレモニーが行われ、ファンや関係者に感謝を伝えた[15]

2013年、東京ヤクルトスワローズの二軍外野守備走塁コーチに就任。背番号は「73」。コーチ就任後も本名ではなく福地寿樹の名義を使用している。

2014年、一軍外野守備走塁コーチに配置転換[16]

2020年、二軍チーフコーチに配置転換。

2021年、一軍外野守備走塁コーチに配置転換。同年限りで退団した。退団理由については「前々から野球とは違う分野でチャレンジしたいことがあって今年で退団することを決めました。」と明かしている[17]

2022年1月8日、15日放送の『球辞苑 〜プロ野球が100倍楽しくなるキーワードたち〜』(NHK BS1)にゲスト出演[18]

2022年7月29日、30日放送の阪神対ヤクルト戦(GAORA)のヤクルト応援ビジボ(副音声)で解説[19]

東京から離れていたこともあり、メディアに出演することは少なくなった[20]

2022年10月24日、2023年から広島東洋カープの二軍打撃兼走塁コーチを務めることが発表された[21][22]

選手としての特徴・人物 編集

現役時代は俊足巧打の韋駄天として活躍し、二度の盗塁王を獲得[23]。特にヤクルト時代のプロ入り15年目に初めて規定打席到達と盗塁王のタイトルを獲得したことから「遅咲きの星」と呼ばれた[5]

本人は盗塁のコツは「盗塁には足の速さだけでなく、相手のスキを突く洞察力、何より走る意欲が大事」だと話す[24]

広島OBで福地のスカウトを担当した備前喜夫は「(福地は)私が見た1990年代に入団した選手の中で最も足が速かった」と振り返っている[25]

自身が2度の移籍を経験し、移籍先で活躍したことから「自分が見てきた中でも『こいつなら他球団に行けば勝負できる』という選手がいる。プラスになるかマイナスになるかは分からないが、環境が変わることは一つのきっかけになる。そのようなきっかけを大切にして欲しいし、移籍が活発になったほうが選手にとってはいいと思う」と語っている[5]

詳細情報 編集

年度別打撃成績 編集

















































O
P
S
1997 広島 2 5 5 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .000 .000 .000 .000
1999 14 26 25 4 6 0 1 0 8 1 4 1 0 0 1 0 0 3 0 .240 .269 .320 .589
2000 51 21 17 18 1 1 0 0 2 0 11 7 0 0 4 0 0 5 0 .059 .238 .118 .356
2001 52 9 7 12 4 1 0 0 5 2 10 4 1 0 1 0 0 1 0 .571 .625 .714 1.339
2002 53 103 97 17 25 3 1 0 30 5 16 5 3 0 3 1 0 26 0 .258 .280 .309 .589
2003 91 173 159 32 41 7 0 1 51 4 20 8 8 0 5 0 1 42 2 .258 .285 .321 .606
2004 19 19 17 3 1 1 0 0 2 0 0 2 1 0 0 0 1 5 0 .059 .111 .118 .229
2005 30 11 11 9 2 0 0 0 2 0 8 1 0 0 0 0 0 1 0 .182 .182 .182 .364
2006 西武 91 333 294 51 85 11 5 4 118 22 25 9 16 0 16 1 7 47 2 .289 .341 .401 .742
2007 117 356 319 43 87 14 3 0 107 20 28 7 13 1 15 0 8 47 6 .273 .321 .335 .656
2008 ヤクルト 131 532 485 74 155 22 7 9 218 61 42 13 7 3 29 0 8 90 7 .320 .366 .449 .815
2009 137 543 504 75 136 13 5 5 174 34 42 6 5 3 27 1 4 86 4 .270 .310 .345 .656
2010 98 225 203 39 50 7 2 1 64 11 23 4 4 0 10 0 8 46 2 .246 .308 .315 .623
2011 40 65 58 13 9 2 1 0 13 5 10 2 3 0 2 0 2 13 0 .155 .210 .224 .434
2012 83 216 188 18 48 13 1 0 63 19 12 1 6 2 16 0 4 29 3 .255 .324 .335 .659
通算:15年 1009 2637 2389 408 650 95 26 20 857 184 251 70 67 9 129 3 43 443 26 .272 .320 .359 .679
  • 各年度の太字はリーグ最多

年度別守備成績 編集



一塁 二塁 外野




































1997 広島 - 1 2 3 0 0 1.000 -
1999 - 2 3 1 0 1 1.000 5 8 0 1 0 .889
2000 - 1 0 0 0 0 - 22 11 0 0 0 1.000
2001 - 2 2 0 0 0 1.000 13 4 0 1 0 .800
2002 - 21 48 69 2 8 .983 16 14 1 0 0 1.000
2003 - 24 53 57 3 16 .973 56 29 1 0 0 1.000
2004 - - 14 8 0 0 0 1.000
2005 - 1 1 3 1 0 .800 12 3 0 0 0 1.000
2006 西武 - - 86 148 4 0 2 1.000
2007 - - 99 177 5 2 0 .989
2008 ヤクルト 1 7 0 0 1 1.000 - 123 179 6 1 1 .995
2009 2 12 1 0 0 1.000 - 129 217 5 0 1 1.000
2010 - - 91 100 1 1 0 .990
2011 - - 30 33 0 0 0 1.000
2012 - - 60 79 0 1 0 .988
通算 3 19 1 0 1 1.000 52 109 133 6 25 .976 756 1010 23 7 4 .993

タイトル 編集

表彰 編集

  • JA全農Go・Go賞:3回(最多二・三塁打賞:2008年8月 好走塁賞:2009年4月 最多盗塁賞:2011年4・5月)

記録 編集

初記録
節目の記録

背番号 編集

  • 53(1994年 - 1996年、2006年 - 2007年)
  • 44(1997年 - 2005年)
  • 29(2008年)
  • 3(2009年 - 2012年)
  • 73(2013年 - 2021年)[26]
  • 85(2023年 - )

登録名 編集

  • 福地 和広(ふくち かずひろ、1994年 - 1998年)
  • 福地 寿樹(ふくち かずき、1999年 - 2012年)

登場曲 編集

脚注 編集

  1. ^ “福地 プロ10年目の1号”. スポニチアネックス. (2003年4月13日). オリジナルの2003年4月13日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20030413132922/http://www.sponichi.co.jp/baseball/kiji/2003/04/13/06.html 2020年3月20日閲覧。 
  2. ^ この年の広島東洋カープは、10日前(10月4日)の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)で井川慶にノーヒットノーランを許しており、「同一月に二度のノーヒットノーラン献上」という史上初の不名誉な記録を喫するのを免れた。
  3. ^ “福地 今季初の盗塁失敗で左肩関節脱臼…”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン). (2011年6月19日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/06/19/kiji/K20110619001046680.html 2013年5月21日閲覧。 
  4. ^ “竜に離されん!福地、気合のサヨナラ打”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン). (2011年10月9日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/10/09/kiji/K20111009001791480.html 2013年5月21日閲覧。 
  5. ^ a b c FAの人的補償で移籍し、盗塁王2度獲得した「遅咲きの星」とは? | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE (2020年9月5日). 2021年4月8日閲覧。
  6. ^ 09月26日(水)東京ヤクルトスワローズ-阪神タイガースヤクルト球団公式サイト 2012年9月26日
  7. ^ 10月04日(木)広島東洋カープ-東京ヤクルトスワローズヤクルト球団公式サイト 2012年9月26日
  8. ^ 福地選手が現役引退を表明、ファンの皆様、関係者の皆様へヤクルト球団公式サイト 2012年10月6日
  9. ^ 最終戦も勝負をかけるヤクルト球団公式サイト 2012年10月10日閲覧
  10. ^ [1]ヤクルト球団公式サイト 2012年10月7日
  11. ^ 10月13日(土)中日ドラゴンズ-東京ヤクルトスワローズヤクルト球団公式サイト 2012年10月13日
  12. ^ 10月14日(日)中日ドラゴンズ-東京ヤクルトスワローズヤクルト球団公式サイト 2012年10月14日
  13. ^ 10月15日(日)中日ドラゴンズ-東京ヤクルトスワローズヤクルト球団公式サイト 2012年10月15日
  14. ^ 2012年度 任意引退選手”. 日本プロ野球機構 (2012年10月30日). 2012年10月30日閲覧。
  15. ^ 【ヤクルト】福地、宮出が引退セレモニー - プロ野球ニュース”. 日刊スポーツ (2012年11月23日). 2021年4月8日閲覧。
  16. ^ 2014年コーチングスタッフについて”. 東京ヤクルトスワローズ (2013年10月23日). 2013年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年12月11日閲覧。
  17. ^ はなれていてもいつでもともだち。”. つば九郎オフィシャルブログ「つば九郎ひと言日記」 (2021年12月6日). 2021年12月15日閲覧。
  18. ^ 2021改訂版(守備編)」 - 球辞苑〜プロ野球が100倍楽しくなるキーワードたち〜”. NHK. 2022年1月12日閲覧。
  19. ^ https://twitter.com/sptv_baseball/status/1551435539068628992?s=46&t=psk5XUvGbQ9MYg48WN0ODQ”. Twitter. 2023年1月28日閲覧。
  20. ^ 寿樹, 福地. “ヤクルト前三塁コーチャー・福地寿樹が明かす「日本シリーズで先取点をもぎ取るため」に考えていたこと”. 文春オンライン. 2023年1月28日閲覧。
  21. ^ “【広島】福地寿樹2軍打撃コーチが会見「赤いユニホーム本当にワクワク」18年ぶりカープ復帰”. 日刊スポーツ. (2022年10月28日). https://www.nikkansports.com/m/baseball/news/202210280000552_m.html 2023年11月24日閲覧。 
  22. ^ 広島が来季のコーチングスタッフを発表 戦力外の三好匠が内野守備・走塁コーチに就任”. Full-Count (2023年11月24日). 2023年11月24日閲覧。
  23. ^ “【カープ・新コーチに聞く】福地コーチ〝お家芸〟復活目指す”. デイリースポーツ online (株式会社デイリースポーツ). (2022年11月28日). https://www.daily.co.jp/baseball/carp/2022/11/28/0015847784.shtml 2022年12月17日閲覧。 
  24. ^ “カープ福地2軍打撃兼走塁コーチ 盗塁増やす!今季球団ワースト26は「少ない」”. デイリースポーツ online (株式会社デイリースポーツ). (2022年10月29日). https://www.daily.co.jp/baseball/carp/2022/10/29/0015761970.shtml 2022年12月17日閲覧。 
  25. ^ 【カープの名スカウトの証言 福地寿樹】通算251盗塁を記録した韋駄天の入団秘話|carp|連載|広島アスリートマガジン”. 広島アスリートマガジン (2020年11月24日). 2021年4月8日閲覧。
  26. ^ 2021年3月28日の対阪神戦(明治神宮野球場)で行われた野村克也の追悼試合では、73番を野村がヤクルト・阪神監督時代に着けていたことから、元々73番の福地・金村曉(阪神)以外の全選手・コーチ・監督も73番を着用した。

関連項目 編集

外部リンク 編集