福永 光司(ふくなが みつじ、1918年7月26日 - 2001年12月20日)は、日本中国学者・中国思想史研究者。京都大学名誉教授老荘思想道教研究の第一人者として知られる。

略歴編集

大分県下毛郡鶴居村大字高瀬(現:中津市)の農家出身[1]。大分県立中津中学校卒業(現:大分県立中津南高等学校)、広島高等師範学校(現:広島大学)を経て、1942年京都帝国大学文学部哲学科卒業。

大阪府立北野高等学校教諭、愛知学芸大学(現:愛知教育大学)助教授などを経て、1961年京都大学人文科学研究所助教授、1970年教授。その後、東京大学文学部教授、京都大学人文科学研究所長(1980年 - 1982年)、関西大学教授(1982年 - 1986年)、北九州大学教授(1986年 - 1989年)を歴任。

晩年は故郷の中津市に帰省し、講演活動を軸に活躍した。2001年、逝去。

道教研究の第一人者編集

日本の道教研究史において、福永光司は戦後の第一人者として位置づけられる。

元々は儒教の研究をしていたが、体格がよく柔道の強豪であった彼は兵隊に取られることが確実であり、生死の問題に行き当たって老荘思想および道教の研究を始めた。太平洋戦争中は戦場での苦痛を和らげようとして石油ランプの下で『荘子』を読み、復員後は高校の教師を務めながら『荘子』の翻訳を行った。

道教研究は、中国・欧米・日本のいずれの中国学においても古くから行われており、戦前の日本では小柳司気太福井康順吉岡義豊らによって担われていた。しかしながら、儒教や中国仏教などの本流に比べれば、末端の研究分野でもあった。福永は、1960年代に日本を訪問したある中国の学者から「道教のようなくだらないものを国立大学教授が研究するとは何事か、あんなものは迷信に過ぎない」といわれたこともあったと後年回想している。

そのような時代の下、日本では1950年に日本道教学会が設立された[2]。福永は同学会に携わりつつ、1974年より1979年に至る5年間にわたって、東京大学文学部中国哲学中国文学第三講座において、「老荘・道教」をテーマとして講じた。この講座は、道教研究が他の分野と対等な分野として独立したことを示す、記念碑的な講座だった。

道教、中国思想に関する著作を多数残しており、特に『荘子』の訳が知られている。また、道教と日本古代史との関わりについても研究した。同郷の五木寛之と交流があり共著も出している。

教え子に麦谷邦夫神塚淑子坂出祥伸らがいる。

主な著作編集

老荘関係編集

単著編集

  • 『芸術論集』(訳著「中国文明選14」朝日新聞社 1971年、再版1977年)
  • 空海 三教指帰』(訳著、中央公論新社中公クラシックス〉2003年)
    • 元版『日本の名著3 最澄・空海』中央公論社 1977年、新版:中公バックス、1983年
  • 『道教と日本文化』(人文書院 1982年、新装版2018年)
  • 『道教と日本思想』(徳間書店 1985年)
  • 『道教思想史研究』(岩波書店 1987年)
  • 『道教と古代日本』(人文書院 1987年、新装版2018年)
  • 『中国の哲学・宗教・芸術』(人文書院 1988年)
  • 『「馬」の文化と「船」の文化 古代日本と中国文化』(人文書院 1996年、新装版2018年)
  • 『タオイズムの風 アジアの精神世界』(人文書院 1997年)
  • 魏晋思想史研究』(岩波書店 2005年)、遺著・あとがき興膳宏

共著・編著編集

  • 『道教と古代の天皇制 日本古代史・新考』(共著 徳間書店 1978年)
  • 『中国中世の宗教と文化』(京都大学人文科学研究所編 1982年)
  • 『日本の道教遺跡』(共著 朝日新聞出版 1987年)
  • 『道教と東アジア 中国・朝鮮・日本』(東アジア基層文化研究会編著 人文書院 1989年)
  • 『混沌からの出発 道教に学ぶ人間学』五木寛之と共著(致知出版社 1997年、中公文庫 1999年)
  • 『飲食男女 老荘思想入門』聞き手河合隼雄(朝日出版社 2002年)
  • 『日本の道教遺跡を歩く 陰陽道・修験道のルーツもここにある』千田稔高橋徹と共著(朝日選書 2003年)
  • 『岩波仏教辞典』(中村元田村芳朗今野達と共同編集 岩波書店 1989年、2002年)末木文美士は第2版を担当

脚注編集

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  1. ^ 福永光司蔵書目録 中津市教育委員会 2018年7月29日閲覧。
  2. ^ 学会名鑑 日本道教学会”. 日本学術会議日本学術協力財団科学技術振興機構. 2020年5月27日閲覧。

外部リンク編集