福田 明彦(ふくだ あきひこ、1964年1月14日[1]- 、)は、日本プロレスの元レフェリー。かつて株式会社プロレスリング・ノア代表取締役社長の三沢光晴の秘書を務めていた[1][2]

福田 明彦
プロフィール
リングネーム 福田 明彦
本名 福田 明彦
身長 165cm
体重 73kg
誕生日 (1964-01-14) 1964年1月14日(60歳)
出身地 群馬県前橋市[1]
所属 プロレスリング・ノア
スポーツ歴 ラグビー
デビュー 1987年3月31日
引退 2022年4月3日
テンプレートを表示

経歴 編集

小学生の頃から父親の影響でプロレスファンとなり、主に全日本プロレスを観戦していた[1]。中でも1977年に開催された「世界オープンタッグ選手権」の最終戦であるドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクザ・ファンクス)VSアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークを祖父の家にて「全日本プロレス中継」で観戦した際に衝撃を受けた他、三沢光晴のデビュー戦も生で観戦している[3]

前橋育英高等学校 [2]時代から全日本プロレスのリングスタッフを手伝うようになる[1]。プロレス団体に入れなくても、カメラマンとしてプロレスに携わることができるようにと、1982年の高校卒業後は上京して写真関連の専門学校に入学[1]。しかし約4ヶ月で通うのを辞め、全日本プロレスのリングスタッフにアルバイトで入り、巡業に参加するようになった[1]

1983年1月、欠員が出たため晴れて全日本プロレスに入社し、リング作り、売店の売り子、テレビ放映時以外の音響を担当する[1]

1987年3月、ジャパンプロレス勢の離脱に伴いタイガー服部も抜けたため、レフェリーがジョー樋口和田京平の2人だけとなった。3月31日ジャイアント馬場にレフェリー転向を打診され、和田の勧めもあって受け入れる[1]。そのまま、同日の富山県魚津市総合体育館大会における渕正信vs川田利明戦でデビューした[1]

2000年6月、三沢光晴らとともに全日本プロレスを離脱し、プロレスリング・ノアの旗揚げにレフェリーとして参加。旗揚げ後、三沢の下で8年間社長秘書を兼務した[1]

2012年2月26日グリーンドーム前橋サブアリーナ大会ではレフェリー25周年記念セレモニーが行われ、実父と田上明社長から花束が贈呈された[1]

プロレスリング・ノア所属のレフェリーの中では最もキャリアが長く、主にセミファイナルの試合のレフェリングを担当している。巡業部長の役職に就き[2]、2014年現在はレフェリーの他に選手バスの運転手、グッズ売店の責任者、リングスタッフの補助などを務め、巡業に全戦帯同している[1]

2022年4月3日 ノア群馬大会をもって、35年務めてきたレフェリーを引退。今後もバスの運転手などスタッフとしてノアに在籍する。

エピソード 編集

全日本プロレスのリングスタッフ時代、前述の通りテレビ放映時以外の音響を担当していたが、放送室がない会場では、リングアナウンサーからマイクを借りてラジカセのスピーカーにマイクを当てて入場テーマ曲を流していた[3]。特にスタン・ハンセンが入場する際には苦労し、ある会場では3回目で登場した事もあったという[3]

本田多聞VS池田大輔をレフェリングした際、池田にしがみ付かれてそのまま投げつけられ、福田は首を強打した[4]。このため、現在でも首に後遺症が残っているという[4]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 「プロレス界で働く人々 第121回」、『週刊プロレス』(ベースボール・マガジン社)、No.1719、2014年1月8日・15日合併号、平成25年12月25日発行、48-49頁。
  2. ^ a b c 「《がんばってます》 三沢さんの遺志大切に」、上毛新聞、2010年10月20日、17頁。
  3. ^ a b c 「リングアナのマイクを借りて、本部席のラジカセに当てて、会場にテーマ曲を流すんです」“業界歴40年の大ベテラン”福田明彦レフェリー物語<前編>【週刊プロレス】ベースボール・マガジン社 2022年3月27日
  4. ^ a b 三沢光晴さんと病院での別れに「28年間、楽しい思い出ばかりがめぐりました」“業界歴40年の大ベテラン”福田明彦レフェリー物語<後編>【週刊プロレス】ベースボール・マガジン社 2022年3月28日

外部リンク 編集