福間 元之(ふくま もとゆき)は、安土桃山時代から江戸時代の武将。毛利氏家臣で長州藩士。父は福間元明。兄に福間元道。苗字は福万とも表記される。

 
福間元之
時代 安土桃山時代 - 江戸時代
生誕 不詳
死没 慶安3年11月8日1650年12月30日
別名 福万元之
通称:勘六、包六→藤右衛門→藤左衛門
官位 伯耆守
主君 毛利輝元秀就
長州藩
氏族 清和源氏山名氏庶流福間氏
父母 父:福間元明、母:中所元信の娘
兄弟 福間元道元之元常、女(入江貞親室)、女(湯浅就親室)
桜井元政の娘
女(桑原就秋室)、女(湯浅就勝室)
養子:就政児玉景唯の末子)、つち(桑原就秋の娘、福間就政正室)
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生涯 編集

毛利氏家臣・福間元明の次男として生まれる。文禄3年(1594年7月14日毛利輝元加冠を受けて元服し、「元」の偏諱を与えられて「元之」と名乗った。慶長4年(1599年8月24日には、「藤右衛門尉」の官途名を与えられた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍が敗北すると、毛利氏が長門周防の二ヶ国に減封され、輝元に代わって秀就が毛利氏の家督を継いだ。慶長10年(1605年1月20日、秀就から「就」の偏諱を与えられたが、改名後の名は不明。また、寛永元年(1624年5月5日に「藤左衛門尉」の官途名を与えられた。

父・元明が天正14年(1586年)に九州平定で戦死した後は兄の元道が家督を継ぎ、後に元之も新たに200石の知行を拝領して別家を起こしていたが、男子がいなかったため、寛永16年(1639年2月23日児玉景唯の末子である就政を孫娘のつちと婚姻させ、就政を婿養子とした。なお、婚姻に際して秀就は就政とつちのそれぞれに書状を出し、もし就政とつちが離縁することがあった場合は非の無かった方に元之の旧知行を与えると言い含めている。

慶安3年(1650年11月8日に死去。

参考文献 編集