メインメニューを開く

秋山 光條(あきやま てるえ、天保14年(1843年) - 明治35年(1902年)春[1])は、幕末から明治時代国学者

経歴・人物編集

秋山和光の子として江戸八丁堀に生まれ、のち神田旅籠町へ移る[1]。幼少期より学を好み平田銕胤前田夏蔭国学を学び、また歌文を能くした[1]相川景見矢野玄道師岡正胤権田直助角田忠行本居豊頴井上頼國久保季玆青柳高鞆落合直亮などが師友として挙げられる[1]。明治元年(1868年)に神祇官宣教使に任命され、『日要新聞』を刊行し、国体の発揚・人心の鼓舞をすすめた[1]。しかし、論議が激しくなったことで官省により新聞の発行停止を命じられた[1]。その後、寒川神社宮司出雲大社少宮司三島大社宮司、八坂神社宮司を歴任[1]。明治35年(1902年)には氷川神社宮司となった[1]。同年卒去[1]。墓所は東京下谷区谷中[1]。著書に『祝詞要義』、『祭文集成』などがある[1]従五位[1]

脚注編集

[ヘルプ]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l 上田萬年『国学者伝記集成: 続篇』国本出版社、p.334-338(1935)