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秋山恒太郎

秋山 恒太郎(あきやま つねたろう、1830年天保元年) - 1911年明治44年)6月8日[1])は、明治期の官僚、師範学校長を歴任。

経歴編集

越後国長岡藩生まれ。なお、長岡藩士秋山氏に藩校崇徳館の初代都講の一人で古文辞学秋山朋信(景山)がいるが関係は不詳。

漢籍を学び1869年(明治2年)、慶應義塾洋学を修める。腰の刀を質屋に入れて入塾。その後教員となり数学を担当。中津藩で英学、会計を担当したのち文部省出版課長に推薦される。内務卿大久保利通の出版法改正のもと内務省に移り、すぐに辞職。長崎師範学校校長となり、1879年(明治12年)浜松中学校校長となる。宮城師範学校女子高等師範学校校長を歴任。

親族編集

脚注編集

  1. ^ 『官報』第8392号、明治44年6月14日。
  2. ^ 人事興信所編『人事興信録 第14版(上)』人事興信所、1943年。

参考文献編集