秋月種賀

日本の江戸時代後期の武士。日向高鍋藩家老上席秋月種懐(高鍋藩6代藩主秋月種美七男で、新小路秋月氏初代当主)の子で、江戸幕府旗本秋月種備婿養子。旗本秋月氏8代当主

秋月 種賀(あきづき たねよし)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本寄合席。通称は大学。高鍋藩秋月家分家の旗本寄合席木脇領主秋月家8代当主。石高日向国諸県郡宮崎郡内3,000石。屋敷は本所林町。幕職として本所深川火事場見廻役や新番頭、小普請組支配などを勤める。

 
秋月種賀
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 安永6年(1777年[1]
死没 不明
改名 安太郎、種賀
別名 大学(通称)
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川家斉
氏族 秋月氏
父母 秋月種懐、岡本氏
秋月種備
秋月種備
種博
テンプレートを表示

生涯 編集

秋月種懐(本宗家で高鍋藩主秋月種美の七男)の子として誕生。幼名は安太郎。父種懐は分家して高鍋藩連枝の1つ新小路秋月家の初代となり、安永8年(1779年)に高鍋藩の家老上席[2]を勤めている。

寛政5年7月11日1793年8月17日)に従兄で旗本寄合席の種備が死去したために、公称17歳で婿養子としてその家督を継ぎ、寛政9年12月22日1798年)に徳川家斉へ初めて御目見を済ませる。享和元年(1801年)刊行の須原屋茂兵衛蔵版武鑑の御寄合衆に「三千石 秋月大学」とある。

文化6年6月18日1809年[3]に本所深川火事場見廻役となる。須原屋茂兵衛蔵版武鑑では文化7年(1810年)刊行分から本所深川火事場見廻役として掲載されており、本所深川火事場見廻に「秋月大学 父式部 三千石 文化六巳六月ヨリ △本所はやし丁」とある。

文化8年(1811年)には寄合肝煎へ転じる。文化14年(1817年)に新番頭に就任し、文政2年11月24日1820年)に小普請組支配となり、翌文政3年12月21日1821年)に小普請組支配を辞職した。

家督は子の種博が相続する。

系譜 編集

脚注 編集

  1. ^ 寛政重修諸家譜に記載される家督相続年からの逆算
  2. ^ 幕府や諸藩の大老または大政参与に近い臨時職。
  3. ^ 『寛政譜以降旗本家百科辞典 第1巻』。なお同書によると、柳営補任では「火事場見廻」としているとされる。

参考文献 編集

  • 『新訂寛政重修諸家譜 第18』(続群書類従完成会、編集顧問、高柳光寿、岡山泰四、斎木一馬、昭和40年(1965年))
    • 寛政重修諸家譜 巻第千百八十八
  • 『改定増補 大武鑑 中巻』(橋本博、昭和40年(1965年)、名著刊行会)
  • 「高鍋町史」(高鍋町史編纂委員会、高鍋市、昭和62年)
  • 『寛政譜以降旗本家百科辞典 第1巻』(小川恭一東洋書林、平成9年(1997年))
  • 『編年江戸武鑑 文化武鑑4』(石井良助柏書房