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秋霜
艦歴
計画 1942年度(マル急計画
起工 1943年5月3日
進水 1943年12月5日
就役 1944年3月11日竣工
その後 1944年11月13日戦没
除籍 1945年1月10日
要目
排水量 基準:2,077t
公試:2,520t
全長 119.3m
全幅 10.8m
吃水 3.76m
主缶 ロ号艦本式缶3基
主機 艦本式タービン2基2軸 52,000hp
最大速力 35.0kt
航続距離 18ktで5,000浬
燃料 重油:600トン
乗員 225名/260名
武装(新造時) 50口径12.7cm連装砲 3基6門
25mm機銃 II×2
61cm4連装魚雷発射管 2基8門
(九三式魚雷16本)
爆雷×18乃至36

秋霜(あきしも)は[1]日本海軍駆逐艦[2]夕雲型駆逐艦(一等駆逐艦)の18番艦である。

目次

概要編集

一等駆逐艦「秋霜」は、太平洋戦争終盤に活動した日本海軍の駆逐艦[3]1944年(昭和19年)3月11日、藤永田造船所で竣工する[2]。訓練部隊の第十一水雷戦隊に所属し[4]、内海西部で訓練に従事した[5]

5月10日より第一機動艦隊に所属した[6]航空母艦や戦艦武蔵を護衛してタウイタウイ泊地に進出する[3][7]。続いて第一補給部隊に編入され、ダバオに進出した[5]。 6月8日、渾作戦従事中の姉妹艦風雲が米潜水艦に撃沈される[8]。秋霜は風雲生存者を受け入れた[9]。 6月中旬のマリアナ沖海戦には、機動部隊(乙部隊、第二航空戦隊)に所属した[10]。6月20日の空襲で空母飛鷹が沈没すると[11]、秋霜は僚艦と共に飛鷹乗組員を救助した[12][13]

7月上旬、秋霜と早霜は第五戦隊(妙高、羽黒)を護衛してシンガポールに進出した[14]。その後はリンガ泊地で訓練に従事した。8月15日、夕雲型3隻(秋霜、早霜、清霜)は新たに編制された第2駆逐隊に所属(第二水雷戦隊麾下)[15]、遊撃部隊(第二艦隊)各艦と訓練に励んだ。

10月中旬以降、第2駆逐隊は捷一号作戦にともなうレイテ沖海戦に参加した[2]。 10月23日、栗田艦隊はパラワン水道で米潜水艦に襲撃され[16]、重巡洋艦愛宕摩耶が沈没、重巡高雄が大破する[17][18]。秋霜は摩耶組員720名以上を救助した[19]。その後、摩耶生存者は秋霜から戦艦武蔵に移乗した[20]。 10月24日対空戦闘を経て[21]サンベルナルジノ海峡通過中の10月25日未明、秋霜は二水戦僚艦島風と衝突している[22]。同日の対空戦闘で姉妹艦早霜が損傷すると、秋霜は警戒艦として行動を共にした[23]10月26日第二水雷戦隊旗艦の軽巡洋艦能代が空襲により沈没する[24][25]。浜波と秋霜は能代乗組員を救助した[2][26]

レイテ沖海戦後、秋霜をふくめ第二水雷戦隊は第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊司令長官)に編入され、多号作戦に従事する[27]。11月上旬、秋霜は第一水雷戦隊司令官木村昌福少将の指揮下でレイテ島輸送作戦に従事中(第四次多号作戦部隊)[28]、空襲により艦首切断の損傷を受けマニラに帰投した[3]。同港で応急修理中の11月13日、秋霜はマニラ大空襲により軽巡洋艦木曾[29]、駆逐艦[30]沖波[31]初春[32]と共に沈没した[33]

艦歴編集

第十一水雷戦隊編集

秋霜(あきしも)は、1942年度(マル急計画)仮称第346号艦として藤永田造船所で建造された[34]1943年(昭和18年)8月31日、日本海軍は夕雲型の18番艦を秋霜と正式に命名する[1]。また第19番艦も清霜と命名された[1]。同日附で秋霜と清霜は夕雲型駆逐艦に類別された[35]1944年(昭和19年)1月22日、日本海軍は平山敏夫少佐(当時、吹雪型駆逐艦白雲駆逐艦長)を秋霜艤装員長に任命する[36]。 同年3月11日、秋霜は竣工した[2][37]。同日附で横須賀鎮守府籍と正式決定[38]。平山少佐も秋霜初代駆逐艦長となった[39]

竣工と共に、秋霜は訓練部隊の第十一水雷戦隊(司令官高間完少将・海軍兵学校41期)に編入される[4][40]。 十一水戦には、既に夕雲型17番艦の早霜(舞鶴海軍工廠建造艦、1944年2月20日竣工)[41]も所属していた。秋霜は瀬戸内海に回航され[42]、3月から4月にかけて所属艦と共に訓練を受けた[43][44]。 4月2日、平山少佐(秋霜駆逐艦長)は姉妹艦早霜駆逐艦長へ転任する[45]。後任の秋霜艦長には、白露型駆逐艦海風沈没時の駆逐艦長[46]中尾小太郎少佐が任命された[45]

機動部隊編集

5月10日、駆逐艦4隻(秋霜、早霜、)は第一機動艦隊(司令長官小沢治三郎中将)に編入される[6][47]。 出撃を前に、高間少将(十一水戦司令官)は連合艦隊第二艦隊、小沢機動部隊、第二水雷戦隊、第十戦隊など各方面に対し「秋霜と霜月は訓練が十分ではないから、今度も指導に関し配慮してほしい」と要望している[48]

5月11日、護衛艦艇(夕雲型駆逐艦〈秋霜、早霜、玉波〉、第27駆逐隊〈時雨〉、第4駆逐隊〈満潮野分山雲[49])は戦艦武蔵[50]、空母6隻(第二航空戦隊〈司令官城島高次少将。隼鷹飛鷹龍鳳〉、第三航空戦隊〈司令官大林末雄少将。千歳千代田瑞鳳〉)[51]と共に佐伯を出撃し[7]タウイタウイに向かった[52][53]。 5月16日、空母部隊はタウイタウイに到着した[54][55]

5月19日附で機動部隊第一補給部隊(油槽船4隻〈日栄丸、建川丸、国洋丸、清洋丸〉、護衛艦〈、秋霜、浜風満珠〉)が編成される[56][57]。 22日〜23日、第一補給部隊(満珠欠)は第三補給部隊(油槽船2隻、駆逐艦谷風)と共にタウイタウイを出発する[58][59]。 第三補給部隊分離後の5月24日[60]、護衛中の油槽船建川丸が米潜水艦ガーナード (USS Gurnard, SS-254)の雷撃で撃沈された[61][62]。 5月25日、第一補給部隊はダバオに到着した[63][64]

その後、駆逐艦3隻(響、浜風、秋霜)はダバオ湾英語版口の警戒を下令され、ダバオで待機した[65]。 第一次渾作戦に従事していた第五戦隊(妙高羽黒)と扶桑型戦艦扶桑のダバオ帰港の際には[66]、同部隊の護衛にも従事した[67]。 6月8日、第10駆逐隊の風雲朝雲は第五戦隊(妙高、羽黒)を護衛中[68]、アメリカの潜水艦ヘイク (USS Hake, SS-256) の雷撃で風雲が沈没した[69][70]。 救援要請があり[71]、響と秋霜はただちに出動する[72][73]。朝雲と共に救助活動に従事したのち[74]、秋霜は風雲乗員136名をダバオへ送り届けた[9]

6月11日、内地からきた特務艦速吸および護衛の駆逐艦初霜がダバオに到着する[65]。 6月12日、駆逐艦白露の第一補給部隊編入、秋霜の機動部隊乙部隊編入が発令される[75]。だが秋霜と時雨はしばらく第一補給部隊の護衛を続けることになった[76]6月14日3時30分[77][78]、第一補給部隊(油槽船〈日栄丸、国洋丸、清洋丸〉、護衛艦〈浜風、響、白露、時雨、秋霜〉)はダバオを出撃した[79][80]6月15日未明[81]、駆逐艦白露は不用意に補給船団内を横切ったためタンカー清洋丸と衝突する[82][78]。白露は時雨の目の前で爆沈した[83][84]。 白露生存者は[85]、救助に向かった浜風に収容された[80][86]

6月15日、第一補給部隊は渾作戦参加部隊と合流する[87]。 6月16日に特設給油船日栄丸(日東汽船、10,020トン)から燃料補給を受けた後[88]、6月17日に機動部隊と合流し、乙部隊(第二航空戦隊隼鷹飛鷹龍鳳〉、戦艦〈長門[89]重巡洋艦最上〉、護衛艦〔第4駆逐隊〈満潮、野分、山雲〉[90]、第27駆逐隊〈時雨、五月雨〉[91]、第17駆逐隊〈浜風〉[80][92]、夕雲型駆逐艦〈秋霜、早霜〉〕 指揮官城島高次少将兼第二航空戦隊司令官)に編入された[93]

6月19日-20日のマリアナ沖海戦で日本海軍は大敗した[94][95]。6月20日の対空戦闘では、乙部隊より空母隼鷹が損傷[96]、姉妹艦の飛鷹が沈没する[97][98]。秋霜は乙部隊所属駆逐艦と共に飛鷹乗組員の救助にあたる[12][80][99]。 飛鷹の御真影勅諭は「秋霜」に奉移された[13]。 このあと、燃料不足に陥った駆逐艦5隻(浜風、早霜、時雨、満潮、秋霜)は6月22日-23日に沖縄中城湾に到着する[80]。第一機動艦隊の大部分も同地に集結した[100]。 6月23日午後、駆逐艦5隻は第七戦隊(司令官白石万隆少将。重巡熊野鈴谷利根筑摩)を護衛して日本本土へ向かった[101][102]。 6月24日、柱島泊地に帰投した[103]

6月29日-30日、早霜と秋霜は第五戦隊司令官橋本信太郎少将の指揮下[104]、妙高型重巡洋艦妙高羽黒を護衛して内海西部を出発する[105][106]。4隻はシンガポールへ向かった[107]。マニラを経由して、7月12日シンガポールに到着した[104]。同地で修理と整備をおこない、リンガ泊地に移動した[104]。第一遊撃部隊の各部隊・各艦も順次リンガ泊地に進出し、訓練をおこなった[108][109]

8月15日、日本海軍は秋霜、早霜清霜(浦賀船渠建造艦、1944年5月15日竣工)[110]により、第2駆逐隊を新編する[15]。第2駆逐隊司令には、陽炎型駆逐艦浦風初代艦長等を歴任した白石長義大佐が任命された[111]。第2駆逐隊は第二水雷戦隊(司令官早川幹夫少将・海兵44期)に編入される。 なお、夕雲型3隻(秋霜、早霜、清霜)の第2駆逐隊は、太平洋戦争における二代目の第2駆逐隊である。 太平洋戦争開戦時の第2駆逐隊は白露型駆逐艦4隻(村雨夕立春雨五月雨)で編制されて第四水雷戦隊に所属したが、夕立を第三次ソロモン海戦[112]、村雨をビラ・スタンモーア夜戦で喪失し[113]、春雨の長期修理[114]により五月雨1隻となり[115]、1943年(昭和18年)7月1日附で解隊されていた[116]

レイテ沖海戦編集

1944年(昭和19年)3月頃、大本営陸軍部は、従来シンガポールに位置していた南方軍総司令部(総司令官寺内寿一元帥)をマニラに移すことを要望した[117]。5月21日、南方軍総司令部はマニラに移転した[118]。寺内総司令官の陣頭指揮により南西方面の防備強化を急速に促進することが大本営の意図だったが、南方軍は強い不満を持っていた[118]。9月下旬、山下奉文大将は第14方面軍司令官に補職される[119]。これをもって、大本営・南方軍とも南方軍総司令部のサイゴン移転に同意した[118]。 南方軍総司令部は、10月20日を目途にマニラからサイゴンへ移転する予定だった[120]。この任務に協力するため、第2駆逐隊は南西方面艦隊の指揮下に入った[121]。10月12日以降の台湾沖航空戦における大戦果が速報され、南方軍は祝勝ムードでサイゴン移転準備を進めていたという[122]。 10月14日、第2駆逐隊の秋霜と早霜はリンガ泊地を出撃し、マニラに向かった[123](2駆僚艦の清霜はリンガ泊地待機)[121]。 秋霜と早霜は10月17日午前8時にマニラ湾口に到着するが、同地が第38任務部隊マーク・ミッチャー中将)の艦載機による空襲を受けていたため、命令[注 1]により引き返してブルネイ湾に針路を向けた[121][124]。この日は、アメリカ軍大部隊がレイテ湾口のスルアン島に来襲した日でもある[125][126]

10月18日、捷一号作戦発動に伴って[127]、第一遊撃部隊(指揮官栗田健男中将・海兵38期、第二艦隊司令長官)はリンガ泊地を出撃する[128]。 秋霜と早霜はブルネイに直接移動し、10月19日に到着した[129]。20日、第一遊撃部隊もブルネイに到着した[130]

10月22日、第2駆逐隊(早霜、秋霜、清霜)は遊撃部隊第一部隊・第二部隊[131](通称栗田艦隊または栗田部隊、米軍呼称中央隊[132]としてブルネイ湾を出撃した[133]。 翌10月23日[134]、パラワン水道においてアメリカ潜水艦ダーター (USS Darter, SS-227)とデイス (USS Dace, SS-247)は栗田艦隊を奇襲した[135][136]。重巡洋艦愛宕(第二艦隊旗艦)がダーターの雷撃で沈没する[137]。 姉妹艦の摩耶はデースの雷撃で轟沈した[138][139]。 同じく姉妹艦の高雄はダーターの雷撃で大破、航行不能になった[140]。 高雄は[141]、第31駆逐隊の朝霜[142]と長波[143]に護衛されて戦線を離脱した[144][145]。 栗田中将(第二艦隊司令長官)以下栗田艦隊司令部は駆逐艦岸波(第31駆逐隊)に救助されて第二艦隊司令長官の将旗を掲げたあと[146]、戦艦大和(第一戦隊旗艦、司令官宇垣纏中将)に移乗して旗艦を変更した[147][148]。 秋霜は摩耶の沈没現場で救助を実施[149]、同艦乗員720名以上を救助した[注 2][138]。 700名以上が秋霜1隻に乗り込んだため、操艦もうまく行かなかったという[152]。救助終了後、主隊をおいかけた[149]。 午後4時頃[153]、秋霜は戦艦武蔵に横付けして摩耶生存者を移乗させた[154][155]

10月24日、シブヤン海を航行する栗田艦隊はアメリカ軍機動部隊艦載機の波状攻撃を受けた[156][157]。 その日の秋霜は、第一遊撃部隊・第一部隊に所属していた[注 3]。 戦闘序盤、重巡妙高(第五戦隊旗艦)が被雷して大破した[159]。秋霜は戦場を離脱する妙高を一時的に護衛したのち[注 4]、再び栗田艦隊第一部隊に合流した[161]。第五戦隊司令官橋本信太郎少将は羽黒に移乗した[162][163]。 続く対空戦闘で秋霜は戦死者12名を出し、若干の損傷を受けた[164]。 また武蔵も集中攻撃を受けて航行不能となる[165][166]。 島風型駆逐艦島風は武蔵に便乗中の摩耶生存者607名を収容すると[167][154]、重巡利根と共に栗田艦隊を追いかけた[168][169]。 日中の空襲で損傷を受けていた浜風(第17駆逐隊)と清霜(第2駆逐隊)は武蔵の護衛として付き添い[170][171]、武蔵沈没後は同艦生存者を収容してコロン湾経由でマニラへ撤退した[172][173]。このため栗田艦隊に続行する第2駆逐隊は、早霜と秋霜になった。

10月25日未明、栗田艦隊はサンベルナルジノ海峡を突破する[174][175]。午前3時6分、速力20ノットで早霜に続行していた秋霜は面舵に変針、直後、左方から来た速力24ノットの島風(当時、摩耶生存者約600名便乗中)と衝突した[176]。秋霜の右舷艦首が島風の左舷艦首に衝突する[22]。 秋霜は艦前部とスクリューに若干の損傷を受けたが、当面の戦闘に影響はなかった[177]。これは島風が岩礁を魚雷艇と誤認して「敵見ユ」の信号を発し、混乱した為だったという[178]

同日午前7時以降のサマール沖海戦で[179]、栗田艦隊(旗艦「大和」)は米軍機動部隊(護衛空母部隊)を追撃する[180]サマール島沖海戦[181][182]。 戦闘開始時の栗田艦隊は、第一戦隊(大和〔第二艦隊旗艦〕、長門)、第三戦隊(金剛榛名)、第五戦隊(羽黒、鳥海)、第七戦隊(熊野鈴谷筑摩利根)、第二水雷戦隊(軽巡〈能代〉、第2駆逐隊〈早霜、秋霜〉、第31駆逐隊〈岸波、沖波〉、第32駆逐隊〈浜波、藤波〉、島風型〈島風〉)、第十戦隊(旗艦〈矢矧〉、第17駆逐隊〈浦風雪風磯風野分[183][注 5]〉)であった[184][185]。第二水雷戦隊の戦果は僅少だった[186][187]。 この戦闘で秋霜は米空母艦載機の空襲を受けて戦傷者を出し、さらに島風衝突箇所の損傷が拡大して浸水が生じる[188]。 さらに姉妹艦早霜(第2駆逐隊)が空襲で損傷、秋霜は早霜を護衛して栗田艦隊本隊を追いかけることになった[189][190]

10月26日朝、退却中の栗田艦隊は米軍機動部隊艦載機の空襲にさらされていた[191]。午前8時50分前後、第二水雷戦隊旗艦・軽巡洋艦能代に魚雷1本が命中、航行不能となる[192][193]。護衛および曳航役の駆逐艦浜波(第32駆逐隊)と共に栗田艦隊本隊から落伍した[194][195]。 その頃、秋霜は第2駆逐隊司令白石長義大佐の命令により早霜と別れ、栗田艦隊主隊を追いかけていた(航行中、対空戦闘および命令変更あり)[196]。1032頃、秋霜は能代に合流する[197][198]。続く空襲で、10時39分に魚雷1本が能代命中した[199][200]。約30分後、能代は沈没した[197]。 浜波と秋霜は乗組員を救助、秋霜に328名が乗艦した[201][202]。 第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将は浜波に移乗し[203]、浜波を二水戦旗艦とした[197]。 その後、燃料不足となった駆逐艦5隻(浜波、島風、岸波、浦風、秋霜)は、遊撃部隊主隊から分離してコロン湾に向かった[204]。この時、大和以下の栗田艦隊本隊に同行している駆逐艦は雪風磯風だけになっていたという[205]。 午後9時、秋霜はコロン島コロン湾到着と共に重巡那智(第二遊撃部隊旗艦、司令長官志摩清英中将)に横付けして燃料補給を受ける[206][202]

一方、秋霜と分離したあと単艦で退避行動を続けていた早霜はアメリカ軍機の空襲を受け大破、セミララ島に座礁して放棄された[207][208]平山敏夫早霜艦長(秋霜初代艦長)は生還した[209]。第十六戦隊の軽巡鬼怒と駆逐艦浦波の救援に向かっていた駆逐艦不知火(第18駆逐隊)と[210][211]、重巡鳥海生存者収容後に退避中の駆逐艦藤波(第32駆逐隊)も、セミララ島近海で相次いで撃沈された[208][212]

10月27日午前3時20分、浦風と秋霜はコロン湾出発、途中で先行3隻(浜波、島風、岸波)と合流して主隊を追及した[213][214][215]。 10月28日午前1時にブルネイ湾へ帰投した[216][217]。戦傷者や収容者を重巡妙高に移乗させたが、能代生存者の一部は補充員として秋霜に残った[218]。2日後の10月30日、秋霜をふくめ第二水雷戦隊はブルネイ湾を出撃してマニラに向かった[219][220]

レイテ沖海戦における秋霜の被害は、小破認定であった[221]。 一連の戦闘で、秋霜は主砲通常弾51発、25mm機銃弾17000発以上を発射している[222]。戦死者は16名、重軽傷者は65名と記録された[223]。 死傷者の大半は対空機銃要員だったという[224]

多号作戦編集

ブルネイ到着前の10月29日、秋霜をふくめ第二水雷戦隊は第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊司令長官)に編入され、レイテ島地上戦にともなう輸送作戦(「多号作戦」)に従事する[33]。第一水雷戦隊司令官木村昌福少将の指揮下で第四次多号作戦に従事中、秋霜は米軍機の空襲で損傷する[225]。マニラ港で待機していたところ、11月13日の空襲により大破着底した[226]。多号作戦から沈没までの経過は以下のとおり。

10月27日1715、豊田副武連合艦隊司令長官はレイテ島地上戦にともなう海上輸送作戦(「多号作戦」)を実施するため、南西方面部隊[注 6]の水上兵力増強を下令した[229]。29日、GF電令作第387号により第二水雷戦隊全艦が第二遊撃部隊(指揮官志摩清英中将、第五艦隊司令長官)に編入された[230]。 10月30日、秋霜をふくめ第二水雷戦隊の大部分はブルネイを出発、マニラへ移動した[注 7][220]

マニラ進出直後の11月5日、米軍機動部隊艦載機は大規模空襲を敢行、重巡那智(第五艦隊旗艦)が沈没した[231][232]。那智を救援中の駆逐艦(第7駆逐隊)が大破する[233]。また沖波(第31駆逐隊)も損傷した[234]。2隻は多号作戦に参加できなくなる。秋霜は第三次輸送部隊として島風等と共に出撃予定だったが[235]、曙の代役として第四次輸送部隊に編入された[236][237]

11月8日午前10時30分、第四次輸送部隊はマニラを出撃する[238]。 第一水雷戦隊司令官木村昌福少将(海兵41期)が指揮する第四次多号作戦は[239]、輸送部隊第一梯団(警戒部隊〈〔一水戦旗艦〕、長波若月朝霜秋霜〉、第七護衛隊〔司令官松山光治少将:海防艦4隻〈沖縄占守11号13号〉〕、輸送船3隻〈高津丸、香椎丸、金華丸〉)という編成でてマニラを出撃した[240][241]。 本来なら先に出発するはずだった第三次輸送部隊(指揮官早川幹夫第二水雷戦隊司令官、旗艦島風)はマニラ空襲などにより準備に遅れが生じ、第四次輸送部隊が先発することになったのである[242][243]

翌11月9日夕方、第四次輸送部隊第一梯団はオルモック湾に到着した[244][245]。まもなく第一号型輸送艦3隻(6号、9号、10号)も到着した[246][247]。 だが揚陸に使用する大発動艇が現地に揃っていなかった(予定50隻中、使用可能5隻)[248]海防艦を大発動艇の代用にしたものの[249]、兵員しか陸揚げできなかった[250][251]。 第四次輸送部隊は重火器・弾薬の揚陸を諦め、11月10日10時30分以降、順次オルモック湾を出港してマニラに向かう[252][253]。 だが間もなくB-25双発爆撃機約30機の攻撃(反跳爆撃[254]を受けた[255]。 対空砲火により敵爆撃機7機を撃墜したが(アメリカ軍資料)[255]陸軍特殊船高津丸(山下汽船、5,657トン)、輸送船香椎丸(大阪商船、8,407トン)、第十一号海防艦(擱座放棄)が沈没[256]、占守と第13号海防艦に若干の被害があった[257][258]。 第一水雷戦隊司令官木村昌福少将は、麾下駆逐艦(霞、朝霜、長波)を率いて救助作業にあたる[255][254]。その他護衛艦(一番隊〈占守、沖縄、若月〉、二番隊〈潮、秋霜〉)を輸送船金華丸(大阪商船、9,305トン)の護衛につけてマニラへ先発させた[255][257]

14時以降、秋霜以下の先発隊はセブ島北端でP-38双発戦闘機十数機の攻撃を受け、金華丸と沖縄が小破、秋霜は14時18分に被弾した[255][259]。 艦首に命中弾を受けたため、一番砲塔より前部を切断される[260]。 戦死傷者55名(戦死20名)を出し、速力も14-16ノットしか出なくなった[254]。潮に護衛されて退避しながらも、僚艦と共に金華丸を守り通す[261]

一方、第四次輸送部隊護衛艦(霞、長波、朝霜、若月)は、第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将(旗艦島風)指揮下の第三次輸送部隊(護衛艦艇〈島風浜波初春、駆潜艇46号、掃海艇30号〉・輸送船5隻〈せれべす丸、泰山丸、西豊丸、天照丸、三笠丸〉)と合流し[262]、駆逐艦3隻(長波、朝霜、若月)と駆逐艦2隻(初春、竹)を交換した[263][264]。 この駆逐艦の交換は、南西方面艦隊(司令長官大川内傳七中将)の下令によるものだった[注 8][265][266]。本来ならば秋霜も第三次輸送部隊に合同する予定だったがし[262]、損傷のため実現していない。 第三次輸送部隊の駆逐艦は5隻(島風、長波、朝霜、若月、浜波)となり、そのままオルモックへ向かう[254][243]。なお、せれべす丸は座礁し、駆潜艇46号の護衛下で取り残されていた[267][268]

11月11日午前5時、木村司令官直率の駆逐艦3隻(霞、初春、竹)は第四次輸送部隊と合流した[269]。18時、輸送部隊(霞、潮、秋霜、初春、竹、沖縄、金華丸)はマニラに到着して任務を終えた(海防艦2隻は23時着)[270][271]。 一方、第三次輸送部隊はレイテ島オルモック弯でアメリカ軍機動部隊艦載機約340機以上に襲撃され、朝霜を残して全滅した[272][273]。島風の沈没時に[274]、二水戦司令官早川少将も戦死した[275]

沈没編集

艦首を喪失した秋霜はカヴィテの第103工作部に回航され、カヴィテ港第2桟橋に係留された。この時、機関故障を起こした2ET型戦時標準タンカーの第5蓬莱丸(蓬莱タンカー、834総トン)や、応急修理のために回航されていた曙(11月5日大破、前述)も同桟橋に係留されており、岸壁から第5蓬莱丸-曙-秋霜の順番で係留されていた[276]

11月12日、緊急輸送作戦のためマニラに入港していた空母隼鷹と重巡利根(ブルネイで隼鷹隊に合流)[277]、第30駆逐隊(夕月卯月)からなる小艦隊は、西村艦隊唯一の残存艦時雨を編入してマニラを出港、日本本土へ向かった[278]。 時雨と入れ替わる形で、隼鷹を護衛してきた軽巡木曾がマニラに残留した[279][280]南西方面部隊は木曾と秋月型駆逐艦霜月(第41駆逐隊)を第一警戒部隊に編入した[280][281]。レイテ沖海戦で沈没した軽巡阿武隈[282]の代艦として、木曾は第一水雷戦隊旗艦となる予定だった[283]

11月13日午後、マニラはアメリカ軍第38任務部隊の艦載機の攻撃を受けた[284][285]。 多号作戦関係艦艇だけでも、秋霜が護衛した金華山丸[286]、駆逐艦初春(第21駆逐隊)[287]、夕雲型姉妹艦沖波(第31駆逐隊)[288]、到着したばかりの木曾[283]は、空襲を受けて沈没もしくは大破着底状態となる[289][290]。 カヴィテの艦艇も空襲から逃れられず、第5蓬莱丸は船体後部に直撃弾を受け、同日中に大破着底。曙は直撃弾1発・至近弾10数発を受けて大破した[291]。 秋霜は、一番砲塔前方と後部甲板に直撃弾3発を受け火災が発生、その後火薬庫に誘爆して炎上した[292]。 この時、対空戦闘中の占守型海防艦占守が炎上して放棄された駆逐艦を発見(乗組員は秋霜と回想)、乗組員を派遣して弾薬を調達している[293]。 同日深夜、第二遊撃部隊残存部隊(霞、朝霜、潮、初霜、竹)はマニラを脱出[294][295]、ブルネイに向かった[296][297]

11月14日0500頃、秋霜は右舷を下にして転覆し、艦橋部が海底に埋まった状態で着底、曙も同じ14日朝に艦橋部のみを海面上に露出させて着底した[276][291]。航海長原田実大尉(海兵71期)[298]以下乗員15名が戦死し、25名が負傷した。 すくなくとも秋霜の生存者110名以上がマニラ地区地上部隊に編入された[299]

11月15日、秋霜と早霜の喪失により清霜1隻となった第2駆逐隊に姉妹艦朝霜が編入されるが[300]、清霜も12月26日の礼号作戦で沈没した[171]

1945年(昭和20年)1月10日、駆逐艦秋霜は 夕雲型駆逐艦[301]、 第2駆逐隊[302]、 帝国駆逐艦籍[303] のそれぞれから除籍された。 2月10日、第2駆逐隊は再び解隊された[304]。残存した朝霜は、初春型駆逐艦初霜だけになっていた第21駆逐隊に編入された[304]

秋霜初代駆逐艦長の平山中佐は早霜沈没後の12月1日附で任を解かれ[209]、1945年(昭和20年)3月10日附で秋月型駆逐艦涼月艦長に着任[305]坊ノ岬沖海戦から生還した。 秋霜2代目駆逐艦長の中尾中佐は前年12月に秋月型駆逐艦宵月の艤装委員長となり2月10日(交代16日)まで勤務した[306][307]

戦後、秋霜の船体は木曾[308]等と共に、マニラ湾で放置されていた。1955年(昭和30年)9月に浮揚され、木曾、曙とともにマニラ現地にて解体された。解体は播磨造船所(現IHI)呉船渠(旧呉海軍工廠)の技師による。この3隻が戦後も長らく放置されていたのは、独立したばかりのフィリピン共和国政府がまだ財政難で、サルベージするだけの資金が不足していたためで、3隻(木曾、秋霜、曙)の浮揚・解体は日本の戦後賠償事業の一環として行われたという。

歴代艦長編集

艤装員長
  1. 平山敏夫 少佐:1944年1月22日[36] - 1944年3月11日[39]
駆逐艦長
  1. 平山敏夫 少佐:1944年3月11日[39] - 1944年4月2日[45]
  2. 中尾小太郎 少佐/中佐:1944年4月2日[45] - 1944年11月25日[309]

参考文献編集

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脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 第2駆逐隊に対する命令は、10月17日2000発令の1YB電令作第56号、17日1631発令のGF電令作第467号
  2. ^ 秋霜戦闘詳報では726名とする[150]。摩耶戦闘詳報では769名とする[151]
  3. ^ 10月24日における第一遊撃部隊・第一部隊の編成は、戦艦(大和〈第二艦隊旗艦兼第一戦隊旗艦〉、武蔵長門)、第五戦隊(妙高羽黒鳥海)、第二水雷戦隊(軽巡〈能代〉、駆逐艦〈島風〉、第2駆逐隊〈早霜、秋霜〉、第31駆逐隊〈岸波、沖波〉、第32駆逐隊〈浜波、藤波〉)[158]
  4. ^ コロン湾へむかう妙高の護衛には駆逐艦長波が指定され[160]、長波は高雄護衛をきりあげて妙高の護衛にまわった。
  5. ^ 第4駆逐隊所属の駆逐艦野分は、本作戦では第17駆逐隊司令の指揮下で行動。他の3隻は第一遊撃部隊第三部隊(西村部隊)に所属して別働。
  6. ^ この命令時の南西方面部隊指揮官は、南西方面艦隊司令長官三川軍一中将であった[227]。11月1日、南西方面艦隊司令長官は三川中将から大川内傳七中将に交替した[228]
  7. ^ 二水戦沖波は重巡熊野を護衛した関係で既にマニラにおり、第二次多号作戦に従事した。第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将は二水戦の大部分から遅れて清霜に乗りブルネイを出発、11月4日にマニラで駆逐艦島風に将旗を掲げた。
  8. ^ 11月8日2059発令NSB電令作第738号による。「三、十日夜 第三十一駆逐隊(朝霜、長波)、秋霜、若月ヲ第三次輸送部隊ニ編入ス 第四次輸送部隊指揮官ハ第三次輸送部隊ト行違フ際右駆逐艦ヲ第三次輸送部隊ニ合同セシムベシ」

出典編集

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  124. ^ #捷号作戦秋霜日誌p.64「10月17日 午前八時頃「マニラ」湾外ニ達セルニ敵機ノ「マニラ」地区空襲中ナルニ依リ一時入港ヲ見合セ湾外遊弋中「ブルネイ」回航待機スベシノ命ヲ受ケ午前十時三十分同地発「ブルネイ」ニ向フ」
  125. ^ 戦史叢書41巻 1970, pp. 239-240スルアン島来攻(十七日)
  126. ^ 戦史叢書81巻 1975, pp. 323-324スルアン島来攻
  127. ^ 戦史叢書81巻 1975, pp. 327-328陸海軍両総長の上奏
  128. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 65aブルネイ回航
  129. ^ #捷号作戦秋霜日誌p.65「10月19日/午前9時30分「ブルネイ」着/第一遊撃部隊「ブルネイ」入港」
  130. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 65b.
  131. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 68-69突入計画
  132. ^ Leyte 1971, pp. 24-26実戦家の栗田と西村
  133. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 137-138ブルネイ出撃
  134. ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 509-510第二水戦、パラワンで失策
  135. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 153-154付記、米潜水艦の戦闘状況
  136. ^ Leyte 1971, pp. 52-53米二潜艦、栗田艦隊を襲撃
  137. ^ サイパン・レイテ海戦記 2004, pp. 142-150パラワン島沖での旗艦沈没
  138. ^ a b 戦史叢書56巻 1972, pp. 145-146「摩耶」轟沈す
  139. ^ 重巡摩耶 2002, pp. 247-251.
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  141. ^ #高雄対潜戦闘p.6「0849大和→長波・朝霜/長波朝霜ハ今ヨリ高雄艦長ノ指揮ヲ受ケ護衛ニ任ゼヨ」
  142. ^ 山本ほか、夕雲型 2015, pp. 227b-228朝霜(あさしも)
  143. ^ 山本ほか、夕雲型 2015, p. 222長波(ながなみ)
  144. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 151-152高雄、ブルネイに回航
  145. ^ #多号作戦経過概要p.2「31dg/長波 高雄護衛海戦不参加/朝霜 同右」
  146. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 146-147混乱からの事態収拾
  147. ^ #レイテ岸波p.27「(将旗)大和|1YB0920|長官岸波乗艦中ニシテ大和移乗迄本職一時1YBノ指揮ヲ執ル」
  148. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 149a-151旗艦を「大和」に変更
  149. ^ a b 戦史叢書56巻 1972, p. 147.
  150. ^ #捷号作戦秋霜日誌p.65「23日/午前七時摩耶敵潜ノ雷撃ヲ受ケ沈没セルヲ以テ之ガ警戒並ニ乗員ノ収容ニ任ズ。午後四時武蔵ニ横付ケ摩耶乗員ヲ移乗セシム/摩耶収容人員七二六名」
  151. ^ #摩耶比律賓沖海戦p.3「10月23日/0900副長以下769名駆逐艦秋霜ニ収容サル/1545副長以下769名軍艦武蔵ニ移乗」
  152. ^ 終わりなき海軍 1978, pp. 218-220「摩耶」沈没
  153. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 149b.
  154. ^ a b 重巡摩耶 2002, pp. 259-261.
  155. ^ #レイテ秋霜詳報p.4「10月23日(略)/1600武蔵ニ横付ケ摩耶乗員ヲ移乗/1624移乗終了進撃開始」
  156. ^ ニミッツ 1962, pp. 310-311シブヤン海戦
  157. ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 512-514大空襲下の駆逐艦(十月二十四日)
  158. ^ 福田『サイパン・レイテ海戦記』159頁「対空警戒航行序列(輪形陣)」、『戦史叢書56巻』162頁「挿図第十一、第一遊撃部隊主隊対空陣形」より
  159. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 165-166米軍攻撃機隊の来襲
  160. ^ 『戦史叢書56巻』(1972)168頁
  161. ^ #レイテ秋霜詳報p.5「10月24日/1045妙高ノ警戒ニ當ル/1135妙高警戒ノ任ヲ解カレ第一部隊ニ合同(略)1329対空戦闘3機撃墜戦死12名、方位盤探照灯艦橋1.2番双眼鏡等兵器一部破損」
  162. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 167-168妙高、被爆落伍す
  163. ^ サイパン・レイテ海戦記 2004, pp. 154-157十月二十四日 火曜日 晴
  164. ^ #捷号作戦秋霜日誌p.65「24日/(略)/撃墜四機、戦死准士官以上1名、下士官兵11名、主砲方位盤・探照灯破損」
  165. ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 514-516武蔵にひきずり回された駆逐艦
  166. ^ Leyte 1971, pp. 84-85巨砲もむなし
  167. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 195-196.
  168. ^ #摩耶比律賓沖海戦p.4「10月24日/武蔵ニ便乗中各配置ニ於テ対空戦闘ニ従事(武蔵戦闘詳報参照)/1830砲術長以下607名駆逐艦島風ニ移乗」
  169. ^ サイパン・レイテ海戦記 2004, pp. 164-166戦艦「武蔵」の最後
  170. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 178-179戦闘経過
  171. ^ a b 山本ほか、夕雲型 2015, pp. 228c-229清霜(きよしも)
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  173. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 482a「濱風、清霜」
  174. ^ ニミッツ 1962, pp. 322-323.
  175. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 296-297サンベルナルジノ海峡を抜ける
  176. ^ #捷号作戦秋霜日誌p.65「25日/午前三時六分島風ト觸衝前部水線上亀裂ヲ生ゼルモ戦闘航海ニ差支ナシ」
  177. ^ #捷号作戦秋霜日誌p.72「(三)旗艦(ロ)機関ノ損傷 島風トノ觸衝ニ依リ推進器屈曲右巡航「タービン」嵌合ノ際、嵌合弁ヲ全開スルモ発動セズ」
  178. ^ #S士官の手記続編p.6「(ハ)「サンベルナルヂノ」海峡突破時島風岩礁ヲ敵魚雷艇ト誤認敵見ユノ信號アリ色メキ立チタルモ其ノ間島風ハ他d(長波?)ト觸衝、多少被害アリ」
  179. ^ 戦史叢書81巻 1975, pp. 395-396フィリピン沖海戦/十月二十五日
  180. ^ ニミッツ 1962, pp. 336-343サマール沖海戦
  181. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 301-306.
  182. ^ Leyte 1971, pp. 119-123水平線上に栗田艦隊
  183. ^ 野分物語 2004, pp. 260-262.
  184. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 297挿図第二十八 Y12索敵配備
  185. ^ 海上作戦(レイテ海戦)(1)pp.21-22「(四)サマール沖海戰/編制」
  186. ^ 軽巡二十五隻 2014, pp. 227-229ひきとめられた水雷戦隊
  187. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 337-338二水戦の突撃、巡洋艦を撃沈す
  188. ^ #捷号作戦秋霜日誌p.66「25日/(略)午後5時47分早霜ノ警戒ニ當リ第一部隊ト分離/戦死下士官兵3名、揚錨機室舟右上部及剥離部ヨリ揚錨機室浸水、推進機翼屈曲ニ依リ振動大トナル」
  189. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 375b.
  190. ^ #レイテ秋霜詳報p.6「10月25日/1747「秋霜ハ早霜ノ警戒ニ當リ要スレバ早霜ヲ曳航スベシ」ノ命ヲ承ケ早霜ノ警戒ニ當リ第一部隊ト分離/1757早霜概ネ故障復旧、同艦ヲ警戒シツツ第一部隊ニ追及/1830早霜ヲ嚮導「サンベルナルヂノ」海峡通過」
  191. ^ ニミッツ 1962, pp. 346-348栗田部隊の反転と退却
  192. ^ Leyte 1971, p. 185.
  193. ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 529-531能代、沈没(十月二十六日)
  194. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 468-469能代の落伍
  195. ^ サイパン・レイテ海戦記 2004, pp. 388-389.
  196. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 475a「秋霜」
  197. ^ a b c 戦史叢書56巻 1972, p. 471.
  198. ^ #レイテ秋霜詳報p.7「10月26日/1032能代ノ警戒ニ向フ(能代被雷航行不能)/1135能代ノ乗員収容(能代再ビ被雷沈没)/1312濱波ト共ニ「コロン」ニ向フ(二水戦旗艦ヲ浜波ニ変更セラル)」
  199. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 470-471能代の沈没
  200. ^ #能代詳報(1)p.43「1039/二番砲塔右舷側ニ魚雷1命中炸裂(略)1113/沈没ス」
  201. ^ #能代詳報(1)p.10「乗員ノ殆ド大部ハ濱波及秋霜ニ収容セラレタリ」
  202. ^ a b #捷号作戦秋霜日誌p.66「26日/午前7時50分早霜ト分離、午前8時7分仝8時59分対空戦闘再ビ早霜警戒ノ為合同、午前10時早霜ノ警戒ヲ止メ第一部隊ニ追及中能代遭難ニ依リ之ガ警戒並ニ乗員収容ニ當リ濱波ト共ニ「コロン」ニ向フ。午後2時45分仝3時25分対空戦闘。午後9時15分コロン湾着那智ヨリ急速補給/戦死下士官兵1名、収容人員328名、撃墜1機」
  203. ^ #レイテ岸波詳報p.15「10-26|1720|(将旗)能代|1YB|電信|1113能代遂ニ沈没ス将旗ヲ浜波ニ移揚セリ|主隊ト分離「コロン」ニ向フ」
  204. ^ サイパン・レイテ海戦記 2004, p. 391.
  205. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 477-479南シナ海に出る
  206. ^ #レイテ秋霜詳報p.7「10月26日/2115「コロン」湾入泊那智ニ横付補給」
  207. ^ Leyte 1971, p. 187.
  208. ^ a b サイパン・レイテ海戦記 2004, p. 394.
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  210. ^ 軽巡二十五隻 2014, pp. 193-194▽蜂の巣になった鬼怒
  211. ^ 岸見、多号作戦 2010, pp. 29-30.
  212. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 482b「藤波」
  213. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 479-480.
  214. ^ #捷号作戦秋霜日誌p.66「27日/午前3時20分本隊ニ合同ノ為「コロン」湾発「ブルネイ」ニ向フ」
  215. ^ #レイテ秋霜詳報p.7「10月27日/0300発第一遊撃部隊ニ合同ノ為浦風ト共ニ「コロン」湾/1530浜波、岸波、島風ト合同/2140「ブルネイ」ニ向フ」
  216. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 480-481主隊のブルネイ入泊
  217. ^ #捷号作戦秋霜日誌p.67「28日/午前1時「ブルネイ」着、補給損傷部応急修理開始」
  218. ^ #捷号作戦秋霜日誌p.67「29日/戦傷者並ニ収容者ヲ妙高ニ移乗、能代ヨリ人員補充」
  219. ^ #捷号作戦秋霜日誌p.67「30日/午後6時30分「マニラ」ニ向ケ「ブルネイ」発」
  220. ^ a b 戦史叢書56巻 1972, p. 521a二水戦のマニラ進出
  221. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 482c-483被害の集計
  222. ^ #捷号作戦秋霜日誌p.71「(ニ)主要兵器ノ消耗及補給 一.砲術科|主砲通常弾:消耗量51、補給0|25粍通常弾薬包:消耗量13000、補給量7500|25粍曳航通常弾薬包:消耗量4100、補給量2500」
  223. ^ #レイテ秋霜詳報p.9「(二)被害(イ)戦死:准士官以上1名、下士官兵15名/重傷:准士官以上ナシ、下士官兵36名/軽傷:准士官以上ナシ、下士官兵29名」
  224. ^ #捷号作戦秋霜日誌pp.12-13「(一)戦訓 機銃員ノ防護並ニ駆逐艦機銃装備ノ改良ヲ要スト認メラルル點 (イ)近来対空砲火ノ増強サルルニ依リ著シクソノ威力ヲ増シ撃墜機数ヲ増加シツツアルモ探ニ旧来ノ駆逐艦ニ付加セラレタルガ如キ装備法ナル為ソノ射界ニ大ナル制限ヲ受ケ被害モ極メテ大ニシテ数回ノ対空戦闘ニ依リ過半数ノ戦死者ヲ出シ戦闘力ノ低下甚シ又連続攻撃ヲ受クル際最初ニ至近弾アラバソノ爆風及水煙等ニ依リ射撃ノ好機ヲ逸シ益々被害ヲ大ナラシムルガ故ニ人員被害極限ノ為駆逐艦機銃モ半砲塔式トナスヲ要ス|(ロ)駆逐艦中後部機銃(秋霜型)ニ於テハ装備シアル舷ト反対ノ舷ヨリ突入スル敵機ニ対シテハ殆ド射撃不可能ニシテ且背面ヨリ受クル被害大ナル状況ヨリシテ両舷機銃ノ中間ニ防弾板ヲ装着セバ効果大ナルモノト認ム」
  225. ^ #S1909一水戦日誌(5)p.39「十一月十一日一一一七(司令官)1sd(宛略)二.貴機密第一一〇〇〇三番電関聯 秋霜ハ一番砲前方ヨリ切断三一番ビームニテ應急遮防ノ上十四節(最大十六節)ニテ編隊航行中 戰死二〇名(内准士官以上三)負傷三五名」
  226. ^ 戦史叢書54巻 1972, pp. 451-452.
  227. ^ 『戦史叢書56巻』503頁
  228. ^ 『戦史叢書56巻』504頁
  229. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 501a聯合艦隊作戦要領
  230. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 501b.
  231. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 521b-523米機動部隊のルソン来襲
  232. ^ #霞詳報(マニラ空襲)p.5「那智雷爆撃ヲ受ケ沈没」
  233. ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 550-551曙の喪失(十一月五日)
  234. ^ 岸見、多号作戦 2010, pp. 37-38.
  235. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 519-521新実施計画(第三次~第七次)
  236. ^ 田村, 155ページ
  237. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 529-530第四次輸送部隊の行動・マニラ出港
  238. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 530a.
  239. ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 551-552第四次多号作戦
  240. ^ #多号作戦経過概要p.6「四|香椎丸 金華丸 高津丸|第一水雷戰隊 (霞 長波 朝霜 若月 潮 秋霜)海防艦(沖縄 占守 十一號 十三號)|沈没 香椎丸 高津丸 海十一 損傷 秋霜 金華丸|軍隊 泉兵團ノ主力約一〇,〇〇〇名|糧食 弾薬 遠距離砲/約三六〇〇 四門|ナシ|一一-九|一一-八「マニラ」發「オルモツク」突入 各船人員全部、物件ノ一部ノミ揚陸」
  241. ^ #S1909一水戦日誌(5)p.7「第四次輸送部隊」
  242. ^ 戦史叢書81巻 1975, p. 427レイテ突入部隊の出発遅延
  243. ^ a b #多号作戦経過概要p.6「三|三笠丸(J)泰山丸(JYW)西豊丸( )天昭丸(JIVE)せれべす丸(JOED)|第二水雷戰隊 島風濱波初春竹掃三〇驅潜四六(註)第四次輸送部隊ト行會ヒタル際、長波朝霜若月加入初春及竹ハ分派ス|沈没 島風濱波若月長波掃三〇三笠丸泰山丸西豊丸天昭丸 坐礁(往途)せれべす丸|軍隊 泉兵團(第一二六師團)ノ一部約一,〇〇〇名|軍需品 糧食、弾薬 約七,五〇〇 ナシ|一一-一〇|一一-九「マニラ」發「オルモツク」突入準備ノ都合上第四次輸送部隊ニ遅レ「マニラ」ヲ出撃揚搭前「オルモツク」灣口ニテ空襲ヲ受ケ全滅」
  244. ^ #S1909一水戦日誌(5)p.10「一八一五|沖縄誘導船團オルモック泊地ニ突入ス」
  245. ^ 戦史叢書81巻 1975, p. 435レイテ突入輸送被害甚大
  246. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 530b第六、第四船団のオルモック突入
  247. ^ #S1909一水戦日誌(5)p.10「一八三〇|第六、第九、第一〇號輸送艦オルモック泊地ニ突入ス」
  248. ^ 戦史叢書41巻 1970, pp. 431-432第一師団残隊と第二十六師団主力の上陸
  249. ^ 占守電探室異状なし 2012, pp. 60-61.
  250. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 530c-532揚陸
  251. ^ #S1909一水戦日誌(5)p.10「二〇〇〇|揚搭用大発來ラズ船團揚搭進捗セズ』-『二三五〇|使用大発五隻程度ニシテ揚搭ノ見込タタズ筏ヲ以テスル揚搭及月出後海防艦及輸送艦ヲ以テスル人員物件ノ揚搭ヲ指令ス」
  252. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 531-532.
  253. ^ #S1909一水戦日誌(5)pp.12-13「一〇三〇|高津丸香椎丸揚搭終了 沖縄海防十一海防十三護衛オルモック発 金華丸及占守稍遅ル三番隊ヲシテ警戒セシム」-「一一〇〇|金華丸占守揚搭終了オルモック発船團ニ追及ス」
  254. ^ a b c d 岸見、多号作戦 2010, pp. 41-43.
  255. ^ a b c d e 戦史叢書56巻 1972, pp. 532-534.
  256. ^ 戦史叢書41巻 1970, p. 430海上護衛経過
  257. ^ a b 日本水雷戦史 1986, pp. 553-554.
  258. ^ #S1909一水戦日誌(5)pp.13-14「自一一二五至一一五〇|B-25三五機ト交戦 戦果 撃墜十數機/被害 高津丸沈没 海防十一 被弾大火災 香椎丸 被弾火災停止 三番隊ヲシテ香椎丸及海防十一ノ警戒ニ當ラシム」-「一二〇〇|霞ハ反轉被害船現場ニ向フ 香椎丸大火災トナリ續イテ爆沈ス 長波朝霜及六.九.一〇號輸送艦ヲ以テ人員ヲ救助セシム 一一海防艦大火災トナリ曳航ノ見込ミナク一三海防艦ニヨリ人員ヲ救助シ處分ヲ行フ(擱座ノ爲沈没スルニ至ラズ)」
  259. ^ #S1909一水戦日誌(5)p.47「警戒部隊|秋霜|10日一四一八|P-38ニヨル被弾一 艦首一番砲塔ヨリ前部落下ス浸水アリ|戰死二〇戦傷三五|最大速力一六節」
  260. ^ #S1909一水戦日誌(5)pp.14-15「一四一八|第三團P-38十數機ト交戰 場所セブ島ノ北端 戰果 撃墜二機 被害 秋霜 前甲板被弾一番砲前方切断速力一四節 金華丸 舟首ニ被弾一小火災鎮火」
  261. ^ #S1909一水戦日誌(5)p.15「一六四五|秋霜 潮ヲ認ム」-「一七一五|秋霜 潮ニ合同」
  262. ^ a b 戦史叢書56巻 1972, pp. 535-536.
  263. ^ #S1909一水戦日誌(5)p.16「二一〇〇|ブラツクロツク東口ニテ長波朝霜若月第三次輸送部隊ニ合同ス霞之ト分離マスバテ島東北側ヲ迂回第四次輸送部隊ヲ追及ス」
  264. ^ 岸見、多号作戦 2010, pp. 43-46壮絶、第三次輸送部隊
  265. ^ #S1909一水戦日誌(5)p.38「十一月十日一〇〇九(長官)NSB|十日一四三〇多號作戰部隊|NSB機密第一〇一〇〇九番電 NSB電令作第七四〇號 初春竹十日一四〇〇第三次輸送部隊ヨリ分離以後マニラ歸還迄第四次輸送部隊ニ編入ス」
  266. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 536a-537「長波」等の合同
  267. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 536b.
  268. ^ 艦長たちの太平洋戦争 1993, p. 218.
  269. ^ #S1909一水戦日誌(5)p.16「十一月十一日|〇四五〇|第四次輸送部隊ヲ認ム』-『〇五〇〇|初春竹第四次輸送部隊ト合同ス」
  270. ^ #S1909一水戦日誌(5)p.17「一八三〇|第四輸送部隊(霞潮秋霜初春竹沖縄金華丸)MM着」-「二三〇〇|海防十三及占守MM着」
  271. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 541-542第四次、第三次部隊のマニラ帰投
  272. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 538-539二水戦司令官戦死、第二船団全滅
  273. ^ #S1909一水戦日誌(5)p.17「一一四〇.第三次輸送部隊敵艦上機群約一二〇機ト交戰朝霜ノ外全部沈没ス朝霜戰場ヲ避退ス」
  274. ^ 山本ほか、夕雲型 2015, p. 229島風(しまかぜ)
  275. ^ #多号作戦経過概要p.6「準備ノ都合上第四次輸送部隊ニ遅レ「マニラ」ヲ出撃揚搭前「オルモック」湾口ニテ空襲ヲ受ケ全滅」
  276. ^ a b 田村, 155ページ、『完全版 特型駆逐艦』162ページ掲載写真
  277. ^ 日本空母戦史 1977, pp. 794-795.
  278. ^ #S1906第30駆日誌(3)p.13「12日/1100時雨ト共ニ隼鷹筑摩護衛「マニラ」出港』[筑摩は既に沈没]
  279. ^ 軽巡二十五隻 2014, pp. 325-326木曾(きそ)
  280. ^ a b 日本水雷戦史 1986, pp. 603-605木曽、マニラに死す(十一月)
  281. ^ #S1909一水戦日誌(2)pp.42-43「十日一一〇九(長官)NSB|十日一五四〇捷號作戰部隊桑霜月(司令官)4sf(司令官)31S(六海一部及GF)|機密第一〇一一〇九番電 南西方面部隊電令作第七四一號 一.マニラ着後第四航空戰隊(日向伊勢)ヲ多號作戰部隊支援部隊ニ木曽霜月ヲ第一警戒部隊ニ第三十一戰隊(五十鈴梅桃桐)桑杉ヲ護衛部隊ニ編入/二.沖波曙早霜ヲ多號作戰部隊警戒部隊ヨリ除キ支援部隊ニ編入 以下略」
  282. ^ 軽巡二十五隻 2014, pp. 194-195▽置き去りにされた阿武隈
  283. ^ a b 歴群32、球磨型・長良型・川内型 2001, pp. 180-181.
  284. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 543-545十一月十三日の空襲、「木曾」、駆逐艦等の沈没
  285. ^ 岸見、多号作戦 2010, pp. 50-51マニラ湾の地獄
  286. ^ 戦史叢書41巻 1970, pp. 456-457総司令官西貢移転を決す
  287. ^ 山本ほか、夕雲型 2015, pp. 267-279炎の海にのまれた初春
  288. ^ 山本ほか、夕雲型 2015, p. 226沖波(おきなみ)
  289. ^ #霞詳報(マニラ空襲)p.7「一一二〇幕煙展張セシモ効果ナシ初春沈没』-『一三三〇 SBD数十機右一〇〇度ヨリ降下来襲 三機撃墜至近弾数発 木曽沈没着底 沖波沈没着底」
  290. ^ #S1909一水戦日誌(2)p.11「(4)十一日第三次輸送部隊オルモック湾ニ於テ敵機動部隊ノ攻撃ヲ受ケ全滅ノ報ニ接シ十二日敵機動部隊來襲必死ト豫期シ那智ノ戰例ニ鑑ミ木曽ヲ湾内ニ轉錨セシメ警戒ヲ厳ニセルモ敵機ヲ見ズ翌十三日朝來敵艦上気群反覆來襲「マニラ」港及「キヤビテ」港在泊艦船ヲ攻撃所在麾下艦船全砲火ヲ以テ之ニ對セルモ及バズ初春曙大破潮中破〔外ニ秋霜沖波木曽大破〕ノ被害アリ…」
  291. ^ a b #S1909一水戦日誌(5)pp.49-50「十四日一九三一曙(宛略)機密第一四一九三一番電 戰闘概報 一.マニラ桟橋横付中十三日〇七三〇ヨリ一六三〇迄敵艦上機延六〇機ト交戰至近弾十數發直撃弾一 秋霜弾藥庫誘爆大火災十四日〇五〇〇沈没着底(艦橋露出)ス 戰死准士官移乗三下士官兵四五 重傷准士官以上三、下士官兵四〇(名簿後送)/二.戰果 撃墜 六機|無電」
  292. ^ 日本水雷戦史 1986, p. 562キャビテ工作部の被害(十一月十三日)
  293. ^ 占守電探室異状なし 2012, pp. 57-59決戦場レイテ島へ
  294. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 548-549ブルネイに避退す
  295. ^ 戦史叢書41巻 1970, pp. 462-463当時の米軍、わが空海軍
  296. ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 562-563第一水戦、ブルネイへ脱走
  297. ^ #S1909一水戦日誌(2)p.11「…敵情尚翌十四日來襲ノ算アリタルヲ以テ急遽「ブルネー」ニ回航待機スルコトトナリ第一警戒部隊〔霞(旗艦)七駆(潮)《應急修復左舷一軸航行可能》二十一駆(初霜)《第五艦隊司令部便乗》三十一駆(朝霜)〕及竹ヲ率ヰ十三日二三三〇「マニラ」ヲ出撃セリ」
  298. ^ この時、駆逐艦長中尾小太郎少佐(海兵57期)はマニラの司令部に出向いていた。
  299. ^ #10月18日以降増援兵力p.1「地区:マニラ|所轄:秋霜|進出期日(編制期日)1944.11.13|員数113」
  300. ^ #秘海軍公報昭和19年11月(3)pp.4-5〔 内令第一二七一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十一月十五日 海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「清霜」ノ下ニ「朝霜」ヲ加フ|第七驅逐隊ノ項中「潮」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ|第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、初霜、若葉」ヲ「初春、初霜、時雨」ニ改ム|第三十一驅逐隊ノ項中「長波、朝霜、岸波、沖波」ヲ「長波、岸波、沖波、濱波」ニ改ム|第三十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月」ノ下ニ「、涼月、若月」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項ノニ左ノ一項ヲ加フ||第五十二驅逐隊 桑、檜、桐、杉、樫||第六十一驅逐隊ノ項ヲ削ル 〕
  301. ^ #秘公報昭和20年1月(2)p.2〔 内令第一六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和二十年一月十日 海軍大臣|軍艦、巡洋艦二等ノ部中「八十島」ヲ、同航空母艦大鷹型ノ項中「神鷹、」、同敷設艦ノ部中「、厳島」ヲ削ル|驅逐艦、一等峯風型ノ項中「、萩風」ヲ、同「卯月型 卯月、夕月」ヲ、初雪型ノ項中「曙、」ヲ、同初春型ノ項中「初春、」ヲ、同満潮型ノ項中「満潮、朝雲、山雲、」ヲ、同不知火型ノ項中「、浦風」「、野分」ヲ、同夕雲型ノ項中「長波、濱波、沖波、岸波」「、早霜、秋霜」ヲ、同秋月型ノ項中「、若月、霜月」ヲ、同「島風」ヲ削ル(以下略)〕
  302. ^ #秘公報昭和20年1月(2)p.7〔昭和二十年一月十日 海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「早霜、秋霜」ヲ削ル|第四驅逐隊ノ項ヲ削ル|第七驅逐隊ノ項中「曙、」ヲ削ル|第十七驅逐隊ノ項中「浦風、」ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、」ヲ削ル|第三十驅逐隊及第三十一駆逐隊ノ各項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「霜月、」及「、若月」ヲ削ル 〕
  303. ^ #秘公報昭和20年1月(2)pp.8-10「内令第二九號|横須賀鎮守府在籍 軍艦 厳島|呉鎮守府在籍 軍艦 八十島|舞鶴鎮守府在籍 軍艦 神鷹|右帝國軍艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 曙 驅逐艦 満潮 驅逐艦 朝雲 驅逐艦 山雲 驅逐艦 野分 驅逐艦 早霜、驅逐艦 秋霜、驅逐艦 若月、驅逐艦 霜月|呉鎮守府在籍 驅逐艦 浦風 驅逐艦 島風|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 秋風 驅逐艦 卯月 驅逐艦 夕月 驅逐艦 初春|舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 長波 驅逐艦 濱波 驅逐艦 沖波 驅逐艦 岸波|右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル(以下略)昭和二十年一月十日 海軍大臣」
  304. ^ a b #秘公報昭和20年2月(2)pp.20-21〔 内令第一一一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年二月十日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「時雨」ノ下ニ「、朝霜」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項中「桃、」ヲ削ル|第五十二驅逐隊ノ項中「桑、」ヲ削ル 〕
  305. ^ 昭和20年3月18日(発令3月10日付)海軍辞令公報(甲)第1749号 p.35』 アジア歴史資料センター Ref.C13072103800 
  306. ^ 秋月型(2015潮書房)163頁
  307. ^ 昭和20年2月15日(発令2月10日付)海軍辞令公報(甲)第1722号 p.367中尾免職・荒木補職』 アジア歴史資料センター Ref.C13072103400 
  308. ^ 歴群32、球磨型・長良型・川内型 2001, pp. 58-59(マニラでの木曾残骸写真)
  309. ^ 昭和19年11月25日付 海軍辞令公報(部内限)第1654号 p.50』 アジア歴史資料センター Ref.C13072102000 

関連項目編集