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種痘

天然痘の予防接種のこと
二又針を使った種痘の接種
もはや天然痘ウイルス自体は含まれていない
種痘接種箇所に終生残る大きな瘢痕。1948年以降、日本では右肩付近に接種するのが一般的だったが、このように、上腕の肘に近い部位に接種された例もごく稀に見かける(1975年接種の跡)。日本は1974年度生まれ迄が種痘を受けた世代である。

種痘(しゅとう)とは、天然痘予防接種のことである。ワクチンをY字型の器具(二又針)に付着させて人の上腕部に刺し、傷を付けて皮内に接種する。1980年天然痘ウイルスは撲滅され、自然界に存在しないものとされているため、1976年を境に日本では行われていない。

ワクチン編集

古くから西アジアや中国では、天然痘患者の膿を健康人に接種して軽度の天然痘を起こさせて免疫を得る人痘法が行なわれていたが、安全性は充分でなかった。1796年にイギリスの医師エドワード・ジェンナーが、ウシが感染する牛痘の膿を用いた安全な牛痘法を考案し、これが世界中に広まり、天然痘の流行の抑制に効果が大きかった。ワクチンという言葉もこの時用いられたものである。その後、さらに優れたワクチンとして、天然痘ウイルスをウサギの睾丸を通して弱毒化した後に牛に接種して作った牛化人痘ワクチンが開発され、広く用いられた。[要出典]

日本への伝来と普及編集

日本では秋月藩藩医だった緒方春朔1789年に大庄屋・天野甚左衛門の子供たちに人痘法で接種し成功させた。これはジェンナーが考案した牛痘を用いる方法ではなく、天然痘の瘡蓋(かさぶた)の粉末にして鼻孔に吹き入れる方法に、緒方自身が改良を加えたものだった[1]1810年にはロシアに拉致された中川五郎治が、帰国後に牛痘を用いた種痘法を伝えた。文政7年(1824年)、田中正右偉門の娘イクに施したのが日本初の種痘術である。この頃蝦夷地では天然痘の大流行が3度起っており、このとき彼が種痘を施したとみられる。しかし五郎治は種痘法を秘術とし、ほとんど伝えなかったために、知る者は少数であった。彼の入手した種痘書は幕府の訳官・馬場佐十郎によって文政3年(1820年)に和訳されている。その後種痘の技術は箱館の医師、高木啓蔵、白鳥雄蔵などにより、秋田、さらには京都に伝達された。これとは別に1813年に同じくロシアから帰国した安芸国の漂流民・久蔵が種痘法を覚え、種痘苗をガラスの器に入れて持ちかえっており、その効果を広島藩や藩主の浅野斉賢に進言しているが一笑され実現化に至らなかった。

牛痘苗の輸入編集

1823年に長崎出島にやってきたオランダ商館の医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト鳴滝塾などで日本の医師に西洋医学を教授した。この際に牛痘法の知識を伝えたものの、欧州からの長い船便では新鮮で効果ある種痘苗が手に入らず、知識の伝達にとどまった。

福井藩福井県)の町医者笠原良策は弘化3年、藩に対し牛痘苗入手の請願書を出したが、不採用となっていた。嘉永元年(1848年)12月に再度請願書を出し、藩主の松平春嶽はこれを採れて幕府に誓願した。老中阿部正弘長崎奉行大屋明啓にこれを伝達。長崎奉行からオランダ商館に要望が伝達された。あとは牛痘が届くだけとなっていた。オランダ商館医オットー・モーニッケは嘉永元年の来日赴任の際に牛痘を持ち込むが、これは上手くいかず、翌年に再度バタヴィアから取り寄せた。

一方、シーボルトの門人で鳴滝塾に学び、当時佐賀藩医であった伊東玄朴が痘苗の入手を藩に進言した。佐賀藩もまた長崎出島オランダ商館にこれを依頼していた。

嘉永2年(1849年)6月、バタヴィアから長崎に再度もたらされた牛を用いて、モーニッケによって佐賀藩医の楢林宗建やオランダ通詞らの息子たち計3人に種痘が施され、その一人が善感した。この痘苗は、長崎・佐賀を起点として複数の蘭方医たちを中心とするネットワークによって、5か月ほどの短い間に京都・大阪、江戸、福井へと伝播した[2]。京都の日野鼎哉桐山元中から依頼を受けていた長崎の唐通詞穎川四郎八は、自分の孫に種痘を施した。そこから得られた痘痴8粒を瓶に納めて9月6日に京都の日野に向け発送し、同月16日に日野の手に届いた。これを日野は自分の孫に試すが上手く行かず、最後の一粒を桐山の息子に接種したところ、これは上手く行った。これを元に同年10月、笠原良策と日野鼎哉が京都に「除痘館」を開設。[3]、京都の噂を聞きつけた緒方洪庵が翌11月初めに京都を訪ねるが、前出の経緯により痘苗は「福井藩の所有物」であったため、医師の権限での安易なやり取りに問題があったが、日野や笠原らと緒方は話し合い、当時は人から人へ移し続けることでしか保存できなかった痘苗を途絶えさせないためにも、なるべく多くの場所で運営保存することによりこれを相互のバックアップとする、という大義名分を考え出した。これにより笠原・日野・緒方は6日に大坂に赴き、翌日の7日に「除痘館」を開設した。

佐賀藩では、8月には佐賀藩楢林宗建が痘母となる子どもをつれて佐賀に到着、藩医の子らに接種した後、藩主の子淳一郎(鍋島直大)にも接種した。同時期に種痘事業を担当する引痘方が設けられ、医師の出張・宿泊費を藩が支給し無料で藩領に接種が開始された。並行して熟達した医師に医業免札を発行する制度が導入された[4]。10月に佐賀藩江戸藩邸の伊東玄朴に送られた痘苗から、関東・東北の各地に広がることになる。

笠原良策は京都での種痘活動、大阪の「除痘館」の開設に関わったのち、福井藩への輸送を試みる。当時の種痘は子供から子供に7日目毎に植え継ぐ方法しかなかった。同年11月下旬、笠原らは子供とその親の総勢10数名を引き連れて京を出立、雪深い栃ノ木峠をかき分け越え、越前国へ痘苗を持ち帰った。笠原は福井城下自宅の隣家にて帰国した当日から種痘を開始し、接種と鑑定方法を熟知することを条件に、越前国内の府中・鯖江・大野・敦賀、隣国加賀石川県)の大聖寺・金沢・富山などへと分苗していった[5]。その後福井藩は嘉永4年(1851年)10月、70名を超える藩医・町医を組織した「除痘館」を開設した[6]

富山藩では、1840年代後半、前藩主である前田利保が種痘を聞くに及び、藩医の横地元丈を江戸に派遣、情報収集と種痘技術の習得を行わせた。1850年(嘉永3年)、富山に戻った横地元丈は自分の子供に接種、翌年、藩内で天然痘が藩内で猛威を振るうと、前田利保自ら種痘の有効性を説き普及に努めた[7]

江戸では嘉永2年(1849年)3月に、既得権益を守りたい、または用例が未だ少ない蘭方医学に対する不信感を持つ漢方医(多紀元堅医学館の関係者)らの働きかけから「蘭方医学禁止令」が布達された影響もあり、普及は遅れた。しかし種痘の需要は、下からの要望という形で増えていく。同年に医師の桑田立斎は『牛痘發蒙』という啓蒙書を出版している。立斎は江戸に牛痘苗が伝わるより前に、人痘法で種痘を行っていた桑田玄真の養子であり、坪井信道の門下生であった。

幕臣で世襲の伊豆韮山代官であった江川英龍は蘭学知識人として知られていた。嘉永3年(1850年)1月、伊東玄朴に依頼して息子江川英敏と娘卓子に種痘を施させた。この結果を良好とみた江川は、部下の医師肥田春安にさらに試行を行わせた上で、伊豆地域の自身の支配領内に「西洋種痘法の告諭」を発した。肥田と助手が村々を回り、領民に種痘を施していった。この「西洋種痘法の告諭」の中で江川は、自身の子供二人にも施したことに触れた上で、当時の民衆の間で流布していた、種痘に対する得体の知れないものへの恐怖、迷信、噂などを打ち消そうとした。

同じく幕府支配地であった蝦夷地でもアイヌの間に度々大規模な流行があり、1807年の流行の際にはアイヌ総人口の4割強が死亡した、とも伝わる。これを阻止するため、箱館奉行村垣範正が安政4年(1857年)に幕府に種痘の出来る医師の派遣を要請した。桑田立斎と深瀬洋春らが派遣され、国後島にまで至る大規模かつ強制的な種痘が行われ、アイヌの人口の半数が種痘を受けたと伝わる。これが世界初の、ある地域を対象とした天然痘根絶のための強制・義務による一斉種痘施術、とされる。当時の状況を描いた平沢屏山筆の「種痘施行図」がある。

このように、幕府支配地域での種痘に対する要望が増したこと、すなわち幕府として種痘医の養成が急務となったこと、および江戸での急速な開化ムードも後押しし、安政5年(1858年)に蘭方(蘭学)解禁となった。江戸幕府第13代将軍徳川家定脚気による重態に際し、7月3日に漢方医の青木春岱遠田澄庵と共に伊東玄朴・戸塚静海らの蘭方医が奥医師(幕府の医官)に登用された。同7日には玄朴の戦略的な進言により伊東寛斎竹内玄同の増員に成功した。これにより蘭方内科奥医師は4名となり、さらに同年10月16日、時のコレラ流行を利用し、松本良甫吉田収庵伊東玄圭らを公儀の蘭方医として採用させた。すなわち幕府(将軍)が自ら、蘭学・蘭方医学にお墨付きを与えた形となった。これら蘭学解禁の世相の中で伊東玄朴・戸塚・箕作らは川路聖謨を通して幕閣に働きかけ、安政5年正月に種痘所開設の許可が下った。 伊東玄朴・戸塚・桑田・箕作阮甫林洞海石井宗謙大槻俊斎杉田玄端手塚良仙ら蘭方医83名の資金拠出により、同年5月7日、神田松枝町(現・東京都千代田区神田岩本町2丁目)の川路聖謨の神田於玉ヶ池の屋敷内に「お玉が池種痘所」が設立された(東京大学の前身)。この種痘所は後に幕府直轄の「西洋医学所」とされた。

上州舘林では長澤理玄が江戸に上り嘉永2年(1849年)に桑田立斎の弟子となり、嘉永4年(1851年)に種痘法を持ち帰ったが、藩主秋元志朝の命を受けてなお、皆は種痘を受けることを恐れた。理玄は普及を急き焦り、親の承諾も得ずに通りすがりの子供に施術するなどして益々反対派を増やしてしまった。翌年には藩飛び地の羽州漆山(山形県)へ赴き、同地でも種痘施術を行った。元々秋元家は同地から舘林に移されたばかりであり、山形では医師であった理玄の父の名声も高かったことから、種痘は普及した。また舘林では家老の岡谷瑳磨介が率先して自身の子供4人に受けさせた。この後、種痘に反対していた重臣の子供らは次々と天然痘に罹ったが、岡谷の子供らは大丈夫であった。効果を目の当たりにしたこれ以降、他の藩士や領民も進んで種痘を受けるようになった。のち藩は岡谷の献策により、理玄を中心とした大規模な医療施設を設け、さらに舘林藩は藩内の幼児全てに種痘を受けさせることを義務化した。

こうして全国に広まっていくと同時に、もぐりのいい加減な施術を行う牛痘種痘法者が現れた。緒方洪庵らは「除痘館」のみを国家公認の唯一の牛痘種痘法治療所として認められるよう奔走していた。安政5年4月24日(1858年6月5日)、洪庵の天然痘予防の活動に対し、大坂町奉行戸田氏栄を通し幕府からの公認が行われ、牛痘種痘は免許制とされた。

明治維新後編集

その後の1870年明治維新後の新政府もまた種痘医の免許制度を定め、種痘の推進および痘苗の頒布を行うこととし、当時種痘が盛んであった大村藩出身で、洪庵の弟子の長与専斎を責任者とした。長与は「再帰牛痘苗」の製造に成功し痘苗の安定供給の道を拓き、「牛痘種継所」を設けて日本各地へ配布できるシステムを整備した。

政府は1874年に定期の種痘を定めた種痘規則を布達、1876年に「天然痘予防規則」が制定され、1909年の「種痘法」によって国民に定着した。

種痘法(明治42年法律35号)は全文20条で、その規定内容は、定期種痘および臨時種痘の実施、市町村の定期種痘の実施義務、種痘を受けるべき者の保護者の義務、医師の種痘証、痘瘡経過証、違反者に対する罰則である。なお関係法規として、種痘法施行規則(明治42年内務省令26号)、種痘施術心得(明治42年内務省告示179号)、種痘法第八条ニ依ル符号記入方(明治42年司法省令22号)、伝染病研究所痘苗、血清等販売規程(大正4年文部省令13号)、痘苗及血清其他細菌学的予防治療品製造取締規則(明治36年内務省令5号)があり、植民地においては特別法規が実施された。

天然痘の撲滅が確認されたのは1980年であるが、1976年以降、日本では基本的に接種は行われておらず、1974年度生まれが定期接種を受けた最後の世代である。


接種法と接種部位の変遷編集

 
右上腕三角筋下部に接種を受けて残った瘢痕(1974年接種の跡)。直径2cm程度の定型的な種痘瘢痕である。この部位への接種によりケロイド化のリスクは低くなるが、袖の短い服装では容易に露出してしまい、一部の女性にとっては悩みの種となっている。

我が国に種痘が伝搬して以降1947年頃迄は、基本的に右上腕[注釈 1]の4箇所にランセットで十字型に傷を付け、そこに痘苗を植え込む「切皮法」によっていたが、1948年頃から前掲の写真にある二又針で右上腕[注釈 2]の1箇所のみに傷を付ける「乱刺法」[注釈 3]に変更された。いずれの方法でも接種後数日で接種箇所に膿疱を生じ、約30日後に痂皮となり、痂皮が脱落した後に通常は直径1cm~3cm程度[注釈 4]の目立つ瘢痕が残り終生消えない。1950~60年代頃には、主に女性の美容上の観点から、時として直径3cmにも及ぶ醜い瘢痕が上腕の目立つ箇所に残るのが嫌われ[注釈 5][注釈 6]、出来る限り露出する機会の少ない右肩[注釈 7]に接種される傾向が多く見られた[注釈 8][注釈 9]。しかし肩はケロイドの好発部位であり、同時期に同様の理由からBCGを左肩に接種されてケロイドとなる例[注釈 10][8]が多発し問題視され、右肩に接種された種痘に於いてもBCGの半数程度の頻度[9]ではあるが時折ケロイドを形成した例[注釈 11]があった。顕著な事象としては左肩に接種された種痘により13cm×7cm大のケロイドを生じた例が報告されている[10]。これらの結果を受けて1970年代になると接種部位を右上腕三角筋下部付近[注釈 12]に下げる傾向が見られるようになった[注釈 13][注釈 14]が、基本的には上腕中央より上部に接種するのが通例であった。前掲1点目の瘢痕の写真は最末期の接種だが、極端に下部、肘から上10cm程度の部位に接種された非常に稀な例である。

瘢痕の特徴編集

1967年以前に実施されていたBCG皮内注射法による瘢痕との相違は、BCGでケロイドを生じなかった場合、瘢痕全体が陥没し、瘢痕面自体は平滑で色調も均一であるのに対し、定型的な種痘瘢痕[注釈 15]では瘢痕外縁部のみが陥没して周囲の正常な皮膚よりも濃い色を呈し、瘢痕中心部分は肥厚して光沢を放ち、周囲の皮膚よりむしろ薄い色を呈する点(画像参照)と、BCGは基本的に左上腕に接種され、右上腕に接種された例は極めて稀[注釈 16]である点で区別出来る。ただし、種痘を左上腕に接種された例は少ないながらも一定数確認されている。また、2000年代頃[注釈 17]から「種痘の跡で年齢がバレる」等の話題がインターネット上で取り上げられるようになり、主に女性にとっては悩みの種となっている。なお、美容整形外科のホームページ等[11]でも施術例として「種痘の跡を切除」という内容があるので、種痘の跡にコンプレックスを感じている女性は一定数居るものと推察される。

種痘後脳炎編集

種痘は天然痘の撲滅に貢献した。だが、種痘後に脳炎を起こす事例が頻発し、「種痘後脳炎」と呼ばれるようになった。1940年代後半には医師の間では広く知られるようになっており、その被害規模は無視できない数にのぼり、1947年1948年の強力痘苗だけに限定しても、犠牲者はおよそ600人と推計されており、天然痘のこの2年間の患者数405人を超えてしまっていた[12]医原病である。

さらに犠牲者のほとんどは乳幼児であり、子供を失ったり、脳の正常な機能は失われてしまい障害者となってしまった子供をかかえた被害者は、接種を強制した日本の行政から何ら援助も保障も提供されなかった。

1970年に、北海道小樽市の種痘後遺症被害者が日本の行政機関を相手取り、損害賠償訴訟を起こした。同時期に立ち上がった「全国予防接種事故防止推進会」の精力的な活動も幸いして、「種痘禍」は報道機関でも取り上げられ、その実態が国民に広く知られるようになった。1972年の夏ごろに種痘の集団接種は一部地域で中止され、同時に希望者のみの個別接種方式の導入と接種年齢見直しが図られた[13]

現在の種痘接種編集

 
天然痘の予防接種を促すポスター

天然痘が撲滅されたことから一般には行われていないが、生物兵器の対策として、現在も軍隊で主に海外派遣される隊員に対しては集団接種が行われることがある。自衛隊の場合は、2002年から2005年にかけて、イラクへ派遣される自衛隊員に対して集団接種が行われた[14]。なお、免疫力の低下した人やアトピー性皮膚炎の既往がある場合は天然痘様の症状を起こすことがあるため接種は禁忌であり、また接種後しばらくは外部に接触しないように留意する必要がある[15]

関連書物編集

五郎治が主人公の小説。
久蔵が主人公の小説。
  • 『雪の花』(吉村昭)
福井藩にて種痘に情熱を捧げた笠原良策(白翁)の小説。
幕末を舞台にした漫画作品。お玉が池種痘所の設立についても詳細に描かれている。

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 左上腕に接種された例も時折見かける。
  2. ^ 左上腕に接種された例も時折見かける。
  3. ^ 「多圧法」とも呼ばれる。
  4. ^ 杉本智透 種痘後の瘢痕とケロイド 慶應医学 48(1) 1971年01月 p.48によれば最大で直径4cmの記録がある
  5. ^ この時代には国内で天然痘に罹患する危険性は極めて低くなった事に加え、女性の服装で袖の短い服の流行と相俟って、幼少時に接種された種痘の跡を嫌がる女性が増加した
  6. ^ 杉本智透 種痘後の瘢痕とケロイド 慶應医学 48(1) 1971年01月 p.48によれば女性のケロイド化した種痘瘢痕が結婚の障害となった事例が報告されている
  7. ^ 目立たない部位に徹底して右肩後部背中側に接種された例も少なからずあった。
  8. ^ 左肩に接種された例も時折見かける。
  9. ^ 有名人では歌手の松田聖子(1962年生まれ)の右肩に非常に大きい種痘痕があるのが比較的よく知られている。
  10. ^ 有名人では元歌手の山口百恵(1959年生まれ)の左肩にケロイド化したBCG痕があるのが比較的よく知られている。
  11. ^ 有名人ではタレントのかとうれいこ(1969年生まれ)の右肩にケロイド化した種痘痕があるのが比較的よく知られている。
  12. ^ 左上腕に接種された例も時折見かける。
  13. ^ 接種部位は厚生省「予防接種実施規則」で昭和33年「右上腕伸側又は右肩部」、その後昭和39年に「原則として右上腕伸側」と決められており、右肩部が接種部位から除外されたが、肩部を避ける徹底が図られるまでは数年を要し、後年になってもなお肩部に接種された例も少なからずあった。
  14. ^ 有名人ではプロ囲碁棋士の吉原由香里(1973年生まれ)の右上腕三角筋部に非常に大きい種痘痕がある。
  15. ^ 瘢痕の残り方には個人差がある。
  16. ^ 種痘を左腕に接種された例よりも極端に稀である。
  17. ^ 丁度、最後に種痘接種を受けた世代が20歳代後半から30歳代に差し掛かる時期であった。

出典編集

  1. ^ 富田英壽『天然痘予防に挑んだ秋月藩医緒方春朔』海鳥社、2010年、青木歳幸「人痘法の展開」青木歳幸・大島明秀・W.ミヒェル編『天然痘との闘い―九州の種痘―』岩田書院、2018年
  2. ^ アン・ジャネッタ、廣川和花・木曾明子訳『種痘伝来―日本の〈開国〉と知の国際ネットワーク―』岩波書店、2013年
  3. ^ 京都の除痘館の開館は、嘉永2年(1849)10月16日。『笠原白翁筆 戦兢録』福井市立郷土歴史博物館、1989年
  4. ^ 青木歳幸「人痘法の展開」青木歳幸・大島明秀・W.ミヒェル編『天然痘との闘い―九州の種痘―』岩田書院、2018年
  5. ^ 笠原白翁『白神記―白神用往来留―』福井県医師会、1997年
  6. ^ 柳沢芙美子「福井藩における藩営除痘館の開設とその運営」『福井県文書館研究紀要』16、2019年3月
  7. ^ 富山市史編纂委員会編『富山市史 第一編』(p804)1960年4月 富山市史編纂委員会
  8. ^ 山口百恵著 蒼い時 集英社 1980年
  9. ^ 杉本智透 種痘後の瘢痕とケロイド 慶應医学 48(1) 1971年01月 p.48
  10. ^ 杉本智透 種痘後の瘢痕とケロイド 慶應医学 48(1) 1971年01月 p.48
  11. ^ 八事石坂クリニック院長ブログ
  12. ^ 吉原賢二『私憤から公憤へ- 社会問題としてのワクチン禍』岩波新書1975年, ISBN 4004111196, p.56-57
  13. ^ 川上武『戦後日本病人史』農文協2002年, ISBN 4540001698, 第8章「薬害・医原病の多発とその背景」p.324-330
  14. ^ 山内一也、三瀬勝利『ワクチン学』岩波書店, ISBN 4-00-006225-5
  15. ^ 防衛省『痘瘡ワクチン接種について』(PDF)