竹中重元

戦国時代の美濃国の土豪

竹中 重元(たけなか しげちか / しげもと)は、戦国時代武将美濃国土豪竹中重氏の子。遠江守。美濃大野郡大御堂城主。なお、1558年までは岩手姓を名乗っていた可能性が高い。

 
竹中重元
時代 戦国時代
生誕 明応8年(1499年
死没 永禄5年(1562年)?
永禄3年2月7日1560年3月13日)説も[1]
別名 道祐、常善
官位 遠江守
主君 土岐頼芸斎藤道三義龍
氏族 竹中氏(岩手氏?)
父母 父:竹中重氏
兄弟 重元彦七郎重光新八郎ほか
妙海大姉
重行重治重矩重広(与右衛門)彦八郎ほか
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経歴 編集

1499年明応8年)、竹中重氏の子として誕生。子に竹中重治竹中重矩などがいる。

土岐氏斎藤氏の家臣として仕えた。1556年弘治2年)4月、斎藤道三と子の斎藤義龍が戦った長良川の戦いでは、道三方に味方した。そのため戦後、重元留守中の大御堂の屋敷に義龍勢が来襲したが、妻の妙海大姉、子の重治、重矩が奮戦してこれを退けた。

1558年永禄元年)、子の重治と共に菩提山の岩手弾正忠誠を攻めてこれを破り、新たに菩提山城を築いて居城とした。6千貫を知行した。こののち近隣の不破氏と不仲になり、翌1559年(永禄2年)には不破光治の襲撃を受けたが、家臣竹中善左衛門の活躍によってこれを退けた。

1560年(永禄3年)12月、六角義治の求めに応じて近江に出陣、浅井氏と戦った。なお、1561年(永禄4年)2月にも近江に出陣して戦功を挙げたため、義治より感状を受けた。

1562年(永禄5年)に病死。法名は常善。美濃国岩手村禅憧寺に葬られた。家督は子の重治が継いだ。

脚注 編集