竹村 喜一[1](あるいは竹村 喜市[2][3][4][5][6]、たけむら きいち、1884年明治17年)9月12日[6] - 1945年昭和20年)[1])は、日本の土木建築請負業者[4][5]。竹村工務店(現竹村コーポレーション)社長[1]

経歴 編集

長野県上伊那郡中沢村(現駒ヶ根市)に生まれる[6]。竹村彦重の三男[6]。普通教育を卒えて父業の農業に従事したが、1902年に吉原組に入り、北海道の鉄道敷設工事に携わる[6]。後に同組を辞して勝呂組に入り、各所の大小工事に従事する[6]

1906年、土木工事業の竹村組を構え、東京四谷区若葉(現新宿区若葉)で創業[1]。鹿島組(現鹿島建設)函樽鉄道工事に従事[1]。また労力請負業を営み[2]1912年、勝呂組下請けとして目黒海軍大薬庫への人夫を供給[1]

1917年、馬場先門明治生命浄化槽装置を完成させた[1]。汚水、下水道処理工事の先駆けであった[1]。1945年に死去、の今福治俊が社長に就任した[1]

人物 編集

住所は四谷、谷[2]、南伊賀[3][4]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i 110年の歴史”. 株式会社 竹村コーポレーション. 2024年2月1日閲覧。
  2. ^ a b c 『日本紳士録 第29版』東京タの部378頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年10月17日閲覧。
  3. ^ a b 『日本紳士録 第44版』東京タの部371頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年10月17日閲覧。
  4. ^ a b c 『日本紳士録 第41版』東京タの部383頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年10月17日閲覧。
  5. ^ a b 『日本紳士録 第35版』東京タの部488頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年10月17日閲覧。
  6. ^ a b c d e f 『土木建築業並関係業者信用録 昭和11年度版』土木建築業並関係業者信用録48頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年2月1日閲覧。

参考文献 編集

  • 交詢社編『日本紳士録 第29版』交詢社、1925年。
  • 交詢社編『日本紳士録 第35版』交詢社、1931年。
  • 帝都興信所編『土木建築業並関係業者信用録 昭和11年度版』帝都興信所、1936年。
  • 交詢社編『日本紳士録 第41版』交詢社、1937年。
  • 交詢社編『日本紳士録 第44版』交詢社、1940年。