竹馬抄(ちくばしょう)は、室町幕府管領斯波義将が子孫のために記した家訓武家家訓を扱った書物で原文を見ることができる。『群書類従』所収の立原万蔵本書写に永徳3年(1383年)2月9日とある。序文と十箇条からなる。著者については異説がある。

内容 編集

原文は全文。訳注は下記参考文献

序文 編集

人間は公に見て人間としての在るべき姿が大切であり、子孫のことを考えて行動すべきである。命を惜しんではいけない、しかし、命を軽んじて死すべきときでないときに死ぬのは汚名となる。大事にそなえて思案していなければ、死すべきときを無為に過ごしてしまい後悔することになると説いている。(以下書き下し原文を記述)

  • 「よろづのことにおほやけすがたといふと、眼といふことの侍るべき也。このごろの人、おほくはそれまで思ひわけて心がけたる人すくなく侍るべき也。まづ、弓箭とりといふは、わが身のことは申にをよばず、子孫の名をおもひて振舞べき也。かぎりある命をおしみて、永代うき名をとるべからず。さればとて、二なき命をちりはいのごとくおもひて、死まじき時身をうしなふは、かへつていひがひなき名をとるなり。たとへば、一天の君の御ため、又は弓箭の将軍の御大事に立て、身命をすつるを本意といふなり。それこそ子孫の高名をもつたふべけれ。当座のけいさかひなどは、よくてもあしくても、家のふかく、高名になるべからず。すべて武士は、心をあはつかにうかうかとは持つまじきなり。万のことにかねて思案してもつべき也。常の心は臆病なれと、綱といひけるものゝ、末武にをしへけるも、最後の大事をかねてならせとなるべし。おほくの人は、みなその時にしたがひ折にのぞみてこそ振舞うべけれとて過るほどに、俄に大事の難義の出来時は、迷惑する也。死べき期ををし過しなどして後悔する也。よき弓とりと仏法者とは、用心おなじこととぞ申める。すべてなにごとも心のしづまらぬは口おしき事也。人の心のときことも、案者の中にのみ侍る也。」

(「弓箭」=ゆみや、古代中国では、東部で弓矢、西部で弓箭の文字が使われていた。「弓箭とり」=武士、「うき名」=不名誉、「いひがひなき名」=汚名、「当座のけ」=その場の気分、「あはつか」=うっかり、軽々しく、「綱」=源頼光の四天王の渡辺綱、「ときこと(とし)」=機敏、鋭敏、「案者」=思案する人)

第一条 編集

人の立ち居振る舞いについてのべている。人の行為はその人の品格や心を表しているのだから心美しく誠実に、また、外形も整えておかねばならない。

  • 「一、人の立振舞べきやうにて、品の程も心の底も見ゆるなれば、人めなき所にても、垣壁を目と心得て、うちとくまじきなり。まして、人中の作法は、一足にてもあだにふまず、一詞といふとも心あさやと人におもはるべからず。たゞ色を好み花を心にかけたる人なりとも、心をばうるはしくまことしくもちて、そのうへに色花をそふべき也。男女の中だにも、実なきは志の色なきまゝに、なくばかりのことまれにこそ侍れ。」

(「うちとく」=油断する)

第二条 編集

親子関係について、親の教えを決して軽んじてはならないと説いている。

  • 「一、我身をはじめておもふに、おやの心をもどかしう、教をあざむくことのみ侍也。をろかなるおやといふとも、そのをしへにしたがはゞ、まづ天道にはそむくべからず。まして十に八九は、おやの詞は子の道理にかなふべき也。わが身につみしられ侍也。いにしへもどかしうをしへをあざむく事のみ侍し。おやのこと葉は、みな肝要にて侍る也。他人のよきまねをせんよりは、わろきおやのまねをすべきなり。さてこそ家の風をもつたへ、その人の跡ともいはるべけれ。」

第三条 編集

仏神の崇敬の話である。心の正直な人を神仏は見捨てない。困ったときのみ祈るのでは、真実の道には至れないという価値観。 以下要略をのべる。「仏神をあがめたてまつるべきだと云うことは、人としての道であるから、改めて言うまでもない、その中に、いささか心得て置くべきことがある。仏のこの世に現ることや、神が姿をかえて具現しているのは、皆世のため人のためである。であるから人を悪しかれとはしない。心をいさぎよくして仁義礼智信を正しく持って人としての根本を明らかにするようにさせることにある。その外に何のために出現なされるだろうか、いやない。此本意を心得てないから、仏を信ずるとして、人民をわづらはし人の物をとって、寺院をつくり、或は神を敬うと云って人民の領地を没収し神社の祭礼ばかりしている。こんなことでは、仏事も神事も、神仏の心に背くことになると思う。たとえ一度の勤行をもせず、一度の宮参りをしなくとも、心正直に慈悲あらん人を、神も仏も疎かにはご覧なさらないだろう。ことさら伊勢太神宮八幡大菩薩北野天神の神々も心すなおに正直な心の人の頭にお宿りになるであろう。」

  • 「一、仏神をあがめたてまつるべきことは、人として存べき事なれば、あたらしく申べからず。その中に、いささか心得わくべき事の侍なり。仏の出世といふも、神の化現といふも、しかしながら世のため人のためなり。されば人をあしかれとにはあらず。心をいさぎよくして仁義礼智信をたゞしくして、本をあきらめさせんがため也。その外にはなにのせんにか出現し給ふべき。此本意を心得ぬ程に、仏を信ずるとて、人民をわづらはし人の物をとり、寺院をつくり、或は神をうやまふと云て、人領を追捕して社礼を行ふことのみ侍る。かやうならんには、仏事も神事も、そむき侍べきとこそ覚侍れ。たとひ一度のつとめをもせず、一度の社参をばせずとも、心正直に慈悲あらん人を、神も仏もをろかには見そなはしたまはじ。ことさら伊勢太神宮八幡大菩薩北野天神も、心すなほにいさぎよき人のかうべにやどらせ給ふなるべし。又我身のうき時などは、神社に祈などする人のみ侍る也。いとはかなくおぼゆる也。たゞ後生善所と祈ほかは、仏神の願望侍べからず。それぞしるしも侍べけれ。それすら真実の道には、直にいたらずとぞ教き。」

(「存(ありう)べき」=当然の、「うき時」=心配事のある時、「はかなし」=お粗末、幼稚、「しるし」=ご利益、霊験)

第四条 編集

主君へ仕える心がけ。武士の存在そのものが主君の恩に基づくものであるから奉公がさきでその結果恩賞があるのだ、と述べる。

  • 「一、君につかへたてまつる事。かならずまづ恩を蒙て、それにしたがひて、わが身の忠をも奉公をもはげまさんと思ふ人のみ侍なり。うしろざまに心得たる事なり。もとより世中にすめるは君の恩徳なり。それをわすれて、猶望を高くして、世をも君をもうらむる人のみ侍る。いとうたてしき事也。」

(「蒙る」=こうむる、「うしろざま」=後ろ向きの、「うたてし」=不快だ、嫌らしい、情けない)

第五条 編集

奉公の仕方をいう。

  • 「一、世中にやくの侍べき人の、その身を卑下して我身やすくばとおもふ、かへすがへす口おしく、頑しき事也。人と生きなば万人に超、他人をたすくべき願をおこして、他のため心をくだくを生々世々のおもひ出とはすべきなり。菩薩といふもただ此ためなれば、凡夫の身として、菩薩の願にひとしくせば、思ひ出なにごとかこれにまさるべき。」

第六条 編集

良い家柄でも、良い容姿でも、教養がないと見苦しい。芸事をたしなむべきである。心得がないために人並みの交際が出来ない事は残念なことである。と説く。

  • 「一、能の有人は、心のほどもおもひやられ、その家も心にくき也。世中は名利のみなり、能は名聞なれば、不堪と云とも猶たしなむべし。心のおよび、学びもて行ほどに、物のへたといふとも、功の入ぬる事は、かたはらいたきことのなき也。よくする事はまれなり。尋常しくなりて、人なみに立まじはるまでを詮とすべし。いかに高き家に生、みめかたちよく侍人も、歌よむとて、短冊とる所、作るとて韻などさぐり、管絃の所の器のまへわたし、連歌の中にせぬ人にて他言うちまじへ、音曲する人の座しきにつらなりてつらづえつき、鞠などの場に露をだにえはらはず。又わかき友だちのよき手跡にて消息かきかはしなどするに、他人の手をかりて、口筆をだにはかばかしくえせぬもいふがひなきに、あまつさへ女の方への文などの時、人の手をやとひ侍るほどに、忍ぶべきこともあらはになり侍るは、いかゞ口おしからぬや。囲碁、象棊、双六やうのいたずらごとにだにも、その座につらなりて、知侍らぬはつたなくこそ侍るめれ。弓箭とりにて、笠懸犬追物などたしなむべきことは、云にをよばず。もとよりのことなり。」

(「能の有人」=芸能のたしなみのある人、「功の入ぬる事」=功は年功、年季の入ったものは、「尋常(つねづね)し」=教養のある、「歌よむとて~露をだにえはらはず」=芸事の作法を知らないが為の失態の例を挙げている。「象棊」=音からして将棋のことか、)

第七条 編集

人を使う心得。「たとひわが心とちがふ人なりとも、物によりてかならず用べきか。(自分の好悪によるのではなく、適材適所を考えるべきで、無用の人はいない)」の一文に尽きる。また心の正直でない人は、何事でも完成させることができない。万能一心というのもそういうことを云っているのだと思われる。

  • 「一、智慧も侍り心も賢き人は、ひとをつかふに見え侍なり。人毎のならひにて、わが心によしとおもふ人を、万のことに用て、文道に弓箭とりをつかひ、こと葉たらぬ人を使節にし侍り、心とるべき所に純なる人を用などするほどに其ことちがひぬる時、なかなか人の一期をうしなふことの侍なり。その道にしたしからむをみて用べき也。曲れるは輪につくり、直なるは轅にせんに、徒なる人は侍まじき也。たとひわが心とちがふ人なりとも、物によりてかならず用べきか。人をにくしとて、我身のために用をかき侍りては、何のとくかあらん。かへすがへすもはしに申つるごとく、心のまことなからむ人は、なにごとにつけても入眼の侍まじきなり。万能一心など申も、かやうのことを申やらんとおぼえ侍也。ことさらに弓箭とる人は我心をしづかにして、人のこゝろの底をはかりしりぬれば、第一兵法とも申侍べし。」

(「轅」=えん(訓読みはながえ)、牛車などの車を引くために前に左右二本伸びている棒、「徒(あだ)なる人」=役に立たない人、「入眼」=じゅげんと読む、叙位のとき位階の記された文書に氏名を書き入れて完成させること、転じて、物事を完成させること、)

第八条 編集

理想的人格への修養の仕方を論じている。普通源氏物語枕草子などを通じてれ人のふるまい、心のよしあしを学び知ることが出来るが、その教養を自身につけるためには友人を選ぶことが大切で、教養の有る人を友とすべきである。仮名などを書いているのも、女のよく物を書く人に出会い教わったからである。和歌や連歌、蹴鞠をたしなんでいたのも、若い友達と競い合っていたから。楽器は親が熱心で、よくわからないままやっていたが、暇がなくなり中断した。その後そういう素養のある友人とも出会わず、志はむなしくなった。残念である。風流な人というのは、世の無常を観て、繊細にものの哀愁を感じて、礼儀正しく端正である。今の時代には風流人はいない。ただ若くて、盛りであるから、なんとなくよく見えるだけなのに、それだけを誇りにして、教養を得ようともせず、精神を修養しようともしない。こちらが恥ずかしくなるほど立派な人に出会ってしまえば、たちまち見劣りするというのに。教養、芸のたしなみのない人が年をとったら、狐狸が年をとったのと同じである。

  • 「一、尋常しき人は、かならず光源氏の物がたり清少納言枕草子などを、目をとゞめていくかへりも覚え侍べきなり。なによりも人のふるまひ、心のよしあしのたゞずまひををしへたるものなり。それにてをのづから心の有人のさまも見しるなり。あなかしこ、心不当に人のためわろくふるまひ、かたくなに欲ふかく能なからん人を友とすべからず。人のならひにてよきことは学びがたく、あしきことは学びよきほどに、をのづからなるゝ人のやうになりもて行くなり。此ことはわが身にふかくおもひしりて侍なり。鳥の跡ばかりかなゝど書つくる事は、はづかしく思ひ侍し女のものよく書侍しにあひて学侍き。かたのごとく和歌の道に入て、二代の集に名をかけて侍ること、連歌などいふことも、みなわかき友だちといどみあひ侍りて、はじめは我執をおこし、中ほどは名聞をおもひ侍りしほどに、をのづからとし月の行につけて、こゝろの数奇侍て、かたのごとく人づらにもたちまじはり侍也。老ののちは人にいとはれて、さし出がたきとかや申なれば、かたはらの能だにもなからましかば、人に有ともおもはれず。我心をもなににてかなぐさめ侍べき。まりなどもわかかりしときは、人数のかけたるところにせめ立てられまいらせしほどに、辱なきまじらひし侍しほどに、終にはかいがいしからねども、そのしるしは、人の名足又上手下手のふるまひ、心づかひなどは見しりて侍れば、いかなる上手なりとも、などかは辱給はざらん。又糸竹の道は、さしもおやの重ぜられて、三曲にいたるかひにとて、物の心も知らざりし比は、わづかに七ばちなどばかりをしへられ侍しを、世につかへしいとまなさに中絶き。そののちはかやうの事学ぶ友だちにも、そひ侍らざりしほどに、心ざしをむなしく侍りき。口おしきことなり。これにつけても、ともによりて能はつきぬべし。むかしよりいままでも、男女の色好の名をとりたる人は、別の子細なし。たゞ心を花月にしめて、世間の常なき色をくはんじて、こゝろを細くもち物の哀をしりて、こゝろざしをうるはしくせしかば、能も才も人にすぐれて、やさしきかたより、此の道の名をとり侍りき。かやうのことをおもひつゞけ侍れば、今の世には、色好といはるべき人、さらに侍まじきやらん。たゞわかくさかりなるほどは、なにとなくさまのよくみゆれば、それにのみほこりて、われはと心ひとつにおもふまゝに、こころをもたしなまず、能をもほしくせぬなり。目心はづかしからん人にあひては、たちまちみおとされこそせんずらめ。無能ならん人の、としのよるやうをおもひやるに、ただ狐狸などの年経ぬるにてこそあらんずめれ。いかがすべきすべき。業平中将の、老らくのこむといふなるといひ、行平中納言の、なみだのたきといづれたかけむとよみ、黒主が、年経ぬる身は老やしぬる、と詠じ、小侍従が、八十の年の暮なればとよみたればこそ、花なりし昔もさこそ恋しかりけめと、あはれにもやさしくも聞ゆれ。たゞわかき人の、としのよりたるばかりは、なにほどの思いやりかは侍べき。夢幻のやうなれども、人の名は末代にとどまり侍なり。或はよき仏法の上人、或は賢人聖人、又はすける人などならでは、誰人かながく世にしられて侍ける。人木石にあらずと申ためれど、いたづら人のながらへんは、谷かげの朽木にてこそ侍らんずらめ。たしなむべし。」

(「あなかしこ」=後ろに否定語を伴い、ゆめゆめ、決して~してはならない、「おのづからなるる人のやうになりもて行くなり」=自然と親しい人と同じようになっていく、「まり」=蹴鞠、「まじらひ」=つきあい、「かいがいし」=まめやか、てきぱき、「などか~ならん」=反語、「糸竹」=琵琶など楽器の総称、「さしもおやの重ぜられて、」=親がたいそう重んじていて、「くはんじて」=観じて、「はづかしからん人」=こちらが恥ずかしくなるような立派な、優れている人、「すける人」=すけるはすき、色好む人、風流な人、「いたづら人」=つまらない人、)

第九条 編集

青年のうちに、道理に従って修養を積む事が必要であると説く。

  • 「一、人のあまりはらのあしきは、なによりもあさましき事なり。いかにはらだたしからん時も、まづ初一念をば心をしづめて理非をわきまへふせて、我道理ならんことははらも立べき也。わがひがみたるまゝに、無理にはらだつには、人の恐侍らぬほどに、いよいよはらのたつも詮なき事也。たゞ道理と云ことにこそ、人はおそれはぢらひ侍べけれ。たゞ腹だつべきことには、かまへてかまへて、心をしづめて、思ひをなすべし。非をあらたむることを、はゞからざるがよきこと也。よくもあしくも我しつる事なればとて、そのまゝに心をもとをしふるまふは、第一のなんなり。又よきといはるゝは、たゞをだしくて三歳の子のやうなるをいふとて、はらのたつをもたてず、うらむべきこと、なげくべきこと、又人にも必おもひしらするふしなどをも過しなどして、この人は、ともかくも、人のまゝなるよと人にしられたるは、なかなか人のためもわろく、わがための失の侍べきなり。心をば閑にもちて、しかもとがむべきふし、云べき事をばいひて、無明無心の人とおもはれぬはよきなり。たかき世には、人ことによかりければ、さやうのひとをよしともあしとも申べし。此比はあるひはめたれをみ、あるひはわゝく心のみ侍ほどに、人すぢにやはらかにうるはしき人をば、人のいやしむる也、無心の道人などとて、仏法者などの目も心もなきやうにみえて、三歳の孫のごとくなどいふは別のことなり。又愚痴の人は、ものゝ悪もわきまへず、只黙々としたるは、よき人といふべきにあらず。是程のことはよくよく思ひわくべき也。坐禅する僧達などは、生つきより利根なる事はなきも、心をしづかにするゆへに、諸事に明かなり。学問などする人も、その事を一大事に心をしづめて、おぼえ侍るほどに、他事にもをのづから利根に侍なり。たゞ人の心は、つかひやうによりてよくもなり、あしくもなり、利根にも鈍にもなるべきなり。人のさかりは、十年には過侍らず。そのうちになにごともたしなむべし。十ばかり十四五までは、真実物の興もなく侍也。四十五十になりぬれば、又心鈍になりて、よろず物ぐさきほどに、はかばかしきけいこもかなはず、十八九より三十ばかりまでのことなれば、物をしとゝのへておもしろき根源に至事は、たゞ十二三年に過べからず。不定の世界には、とくけいこすべきなり。」

(「もとをし」=(回、廻)めぐらす、まわす、「をだし」=穏し、おだやか、おちついている、「閑」=しづか、「此比」=このごろ、「めたれ」=人の弱点につけこむ、「わわく」=枉惑と書く、横着、「思ひわく」=分別する、思い分ける、「利根」=かしこい性質)

第十条 編集

この世に住む限り我執にとらわれてはならない。我意を押し通せば「天道のいましめを蒙るべき」と述べている。他人を欺いてはならない、戦いの際もこの心得を守るべきであると謂う。

  • 「一、人の世のすむは、十に一も我心にかなふことはなき習なり。一天の君だにも、おぼしめすまゝには、わたらせ給はぬなるべし。それに我等が身ながら心にかなはぬ事をば、いかゞして本意をとほさむをせんには、終に天道のいましめを蒙るべき也。すべて人毎にきのふ無念なりしかば、けふその心をさんじ、去年かなはざりしかば、今年其望を達せんとおもふまじき也。さらぬだにも塵のごとくなる心を相続して、念々ごとになす身、いよいよ望を忘ずべし。怨を残さん事口惜きねぢけ人なるべし。佞人とて世法仏法にきたなきことに申也。人毎に我執をおこしわするまじきには、心みじかくよはよはしき也。打払ふて心にとゞむまじきやうなる事には、余念をおこす事也。あひかまへてかまへて万のことに人をもとゝして、あざむく事あるまじき也。戦ふことには、おほけなくとも心をたかく持て、我にまされる剛の者あらじとおもひつめて、人の力にもなり、人をたのもしきと思ふべき也。いかに心やすき人といふとも、生得臆病ならん人に、戦の事尋まじきなり。大事なればとて、さし当たるわざをのがれんとすまじきなり。やすければとてすまじからん戦をすゝむまじきなり。凡合戦にやすかりぬべき時は、他人にさきをかけさせ、大事ならん時は、たとひ百度といふとも、我一人の所作と心得べき也。いつはれるふるまひは、ことさら合戦にわろきなり。かやうの事、おろかなる身におもひ知事のみ侍れば、せめておやの慈悲のあまりに、我よりもなをおろかならん子孫のために書付侍り。涯分身をまもり修て、万事に遠慮あるべきなり。」
  • 永徳三年二月九日                                              沙弥判
右竹馬抄以立原万蔵本書写

(「ねぢけ」=ひねくれている、素直でない、「佞」=(音読みニョウ、ネイ)おもねる、へつらう、「余念」=他の考え、他念、「おほけなくとも」=分不相応でも、畏れ多くても、「心やすし」=親しい、気安い、「凡」=およそ、「涯分」=身分相応、身の程、分限、)

著者についての異説 編集

前田育徳会尊経閣文庫所蔵の『竹馬消息』が、『竹馬抄』と条文の構成、内容ともにほぼ同じで、その奥書に今川了俊の作であると記されている。『竹馬消息』は、豊臣秀吉小田原征伐の際、小田原城に篭城していたものが書写したという。天正18年(1590年)6月13日と記されている。これらの根拠は不明である。この『竹馬消息』は、『竹馬抄』と第八条が大きく異なる。『源氏物語』、『枕草子』という具体的な書物の名が挙げられていない。和歌、連歌に関しても何も記述がない(「二代の集」についても)。「糸竹の道」は「弓馬のいとなみにまぎれ、あるいは都鄙のどうらんにさまたげられ、少年の比は将軍家につかへて」暇がなく中絶したとある。業平、行平、黒主の歌の記載がない、といった点である。

今川了俊説では、『竹馬抄』の第八条の、『源氏物語』、『枕草子』は重要な教養であるからよく親しむように、という教養観が、『了俊弁要抄』と同じであることが挙げられる。

第二に、同じ第八条に、「かたのごとく和歌の道に入りて、二代の集に名をかけて侍ること、」とあり、「二代の集」の解釈が分かれる点である。『群書類従』の傍注には新後拾、新続古と書いてあるが、『新後拾遺和歌集』には斯波義将の和歌は六首撰集されているが、『新続古今和歌集』の成立は永享11年(1439年)で『竹馬抄』成立の1383年頃とはかけ離れていて、「二代の集」を解釈しなおさなければならなくなる。学習院大学名誉教授筧泰彦によると「二代の集」は『新後拾遺和歌集』のことで、その理由は、後円融天皇後小松天皇の二代に渡って撰定された勅撰和歌集はこれ以外に存在しないので、特に「二代の集」といったという(『中世武家家訓の研究』 風間書房)。『新後拾遺和歌集』の成立は至徳元年(1384年)で『竹馬抄』の成立の永徳3年(1383年)はその前年となる。今川了俊のほうは『風雅和歌集』、『新拾遺和歌集』に三首撰集されている。

『竹馬抄』と今川了俊の『難太平記』の君主への奉公、忠義の価値観を比較した場合、了俊著作説には難があるという。

成立の背景と価値 編集

武士の理想像を述べており、倫理的思想を説き社会の指導者のあるべき姿を示している。戦乱に明け暮れた時代に書かれたが、それを超越し普遍的な人間の理想をも説いている。本書が平和かつ安定していた江戸期に広く教訓書として受け入れられたのも、安定した社会における政治の担い手の理想像を本書に見出しているからといわれる。

公家の文化にもこういった恥の概念、人の目を意識する価値観はあったのだろうが、公武権力の一体化が推進され、自分より高位の公家達がいる世界へ入って行く、室町時代武士のほうが、人の目に対する緊張感が強かったのかもしれない。管領であった斯波義将が正四位下、右衛門督に叙任されたとき「武臣の右衛門督、未だ聞かざる事也」(『荒暦』)と噂になったという。伊勢貞親の家訓にも、人の目、他人の評判を気にする価値観がある。伊勢氏足利将軍家政所執事で政治的影響力は大きかったが、冠位、家格は低かった。

他の武家家訓 編集

参考文献 編集

  • 『武家家訓・遺訓集成』 小沢富夫編 ぺりかん社 2003年

関連項目 編集