笛吹童子(ふえふきどうじ)は北村寿夫(きたむらひさお)の脚本によるラジオドラマである。NHK新諸国物語の第2作として1953年(昭和28年)に毎週月曜から金曜まで15分間放送された。 放送期間は1953年1月5日 - 12月31日。 主題歌「笛吹童子」は作詞:北村寿夫、作曲:福田蘭童

同年小説化され、以降、何度か映画化やテレビドラマ化された[1]

ストーリー 編集

時は室町時代応仁の乱のころである。丹波国の満月城の城主、丹羽修理亮は野武士に攻められ、城は落ちた。彼には20歳そこそこの2人の息子がいる。兄は萩丸、弟は菊丸。武芸に秀でた萩丸は敢然と立ち向かうが、弟の菊丸はちがった。「武士なれば戦もしなければならぬ。戦いはいやだ。わたしは武士をすてて面作りになる」と言い残して都に暮らし始める。菊丸は笛の名手である。笛の音で濁りや汚れに満ちた人の心を洗うのであった。笛は師から伝わる名笛、春鶯囀(しゅんおうてん)[2]。人々は彼を笛吹童子と呼んだ。

スタッフ 編集

  • 音楽:福田蘭童
  • 演出:山口淳

キャスト 編集

ほか

小説 編集

  • 『笛吹童子』 1953年、北村寿夫(著)、御正伸(絵)、宝文館
  • 『笛吹童子・紅孔雀』 1990年、北村寿夫(著)、香西久(元NHKチーフ・ディレクター、解説)、講談社(スーパー文庫)、ISBN 4062047403
  • 『笛吹童子』 1998年、橋本治(著)、北村寿夫(原作)、橋本治(解説「今の時代に合うように書き直した」)、講談社 (痛快世界の冒険文学; 7)、ISBN 4062680076
  • 『完全版 新諸国物語 第一巻』 2010年、北村寿夫(著)、末國善己(編)、作品社。

映画『新諸国物語 笛吹童子』 編集

1954年(昭和29年)4月公開。東映製作、東映京都撮影所作品。第一部公開後、週替わりで全三部作が順次公開された。

  • 第一部:『どくろの旗』
  • 第二部:『妖術の斗争』
  • 第三部:『満月城の凱歌』

製作 編集

本作も『紅孔雀』もラジオドラマが先で[3]、映画に持って来たのはマキノ光雄とマキノの元で製作を仕切っていた岡田茂両プロデューサーである[3][4][5]

東映は設立間もなく、四苦八苦を絵にかいた状態で[6]、歳末に高額スターたちにギャラも払えない有様[6]。中村錦之助( のちの萬屋錦之介 )は1954年正月過ぎの松竹『ひよどり草紙』で美空ひばりの相手役として映画に出ることになり[3][6][7]、この作品の後、新東宝『花吹雪御存じ七人男』に出演し、その後、新芸プロの福島通人プロデューサーが東映に錦之助を売り込みに来た[6]

対応したのがマキノ光雄と岡田茂[6]。マキノは当時、東京本社に勤務していた[8]鉄道院出身の大川博社長の厳命を受け、現場を仕切ったのが製作部で[9]、当時30歳の岡田製作課長が東映の全ての映画の予算を握り[8]、徹底した予算主義を敷いていた[10][11]。マキノと岡田が錦之助ひとりでは承知せず[6]、福島が景品として付けたのが美空ひばりだった[6]。最終的な交渉の席は、ひばりの母・加藤喜美枝とひばりの親代わりだった田岡一雄、岡田の三者会談となり[12]、この時、田岡と対峙した岡田の逸話は伝説化している[13]。美空ひばりの獲得に成功した岡田は、それまでの東映カラーにない時代劇を作ろうと意気込んだ[3]。このため岡田はマキノから「おまえしかおらん」とほぼ一回り年下のひばりの世話係をさせられた[3]。歌の実演や地方興行などと撮影のスケジュール調整が大変だったという[3]。『笛吹童子』第一部の後『唄しぐれ おしどり若衆』で、ひばりの切なる希望で相手役に錦之助を指名[3]。二人が組んだとき、岡田は「これはいける」とピンときたという[3]。東映のツキ初めは正にここであった[6]

岡田は錦之助が初めて東映京都撮影所(以下、東映京都)を訪れた1954年に挨拶に来た錦之助に会った[8]。最初は特に強い印象は持たなかったが『笛吹童子』の撮影初日に撮影の三木滋人と監督の萩原遼が岡田の部屋に来て、「今度入った錦之助、あれは本物や。大物になるでぇ」と言うので、岡田も撮影を見に行ったら「本当だ」と感心し、すぐに東京本社にいたマキノ光雄に電話して「錦之助は大スターになる」と報告した[8]。錦之助は撮影初日の午前中で監督やスタッフの気持ちを掴み、アッという間に撮影所内で親玉になった[8]

興行 編集

東映は二本立て興行を打ち出して間もなくで[3][14][15]、第一部~第三部まですべて長編の添え物中編で[16]、第一部『どくろの旗』の併映が『悪魔が来りて笛を吹く』、第二部『妖術の闘争』の併映は『唄しぐれ おしどり若衆』(主演・美空ひばり)、第三部『満月城の凱歌』の併映は『鳴門秘帖』(市川右太衛門主演)であった[17]。第一部~第三部を一挙に製作して、前編、中編、後編と三回に分けて公開させた[18]。これにより三作で一本分の製作費で済んだ[18]。東映はまだ経営が厳しい状況にあったが[5]、「電気紙芝居」とか「ジャリすくい」などとバカにされながら[5][19]、少年観客層の圧倒的な人気を集め、特大のヒットを記録した[3][5][16][20][21][22]。マキノは錦之助が「あんなに人気が出るとは思わなかった」と話していたというが[3]、錦之助は半年もかからず大人気となった[8]。映画が大当たりするとマキノは岡田に「稼げる時に稼がにゃアカン、毎週、錦之助を出せ」と無茶苦茶言って来たため、毎晩徹夜で一本を5日間で撮らせた[8]。すると錦之助は「俺、死んじゃうよ」と岡田に訴えて来た[8]。岡田は「あれだけ短期間でスターダムにのし上がったのは、私の知る限りでは、錦之助と石原裕次郎だけです」と話している[3]

開館して間もない東映の直営館第1号である渋谷東映は、殺到する観客は収容しきれず、ニュース短編を上映していた地下劇場の営業を中止し、上下両劇場で本作を上映した[3]高岩淡は1954年に東映に入社し、新人研修期間に同劇場で呼び込みともぎりをやらされ[5][21]、「1日1万人もお客が入り、座れない子供たちが舞台の上まで鈴なり。後方でお父さん全部が子どもを肩車で担いでいる光景に感激した」と話している[5][21]。岡田は「入場料金を段ボール箱にどんどん投げ込んで溢れる百円札を足で踏み付けて、事務所に持って行って、待機している銀行員が勘定するというように無茶苦茶お客さんが入った」と話している[23]

後に東宝の社長になった高井英幸も、子どもの頃、日本映画では最初に夢中になった映画で、麻布映画劇場に通いつめたと話している[17]。高井は「大変シンプルな勧善懲悪の物語だったが、原始的なトリックを使っていたとはいえ、当時の小、中学生にとっては、その特撮にわくわくさせられた、"トリ"(メイン作)の方は覚えていない」などと話している[17]

当時の東映は片岡千恵蔵市川右太衛門の二大スターが出る重戦車のような作品があったが、それには若いファンはいなかった[8]。マキノと岡田はそれらに中村錦之助や東千代之介の作品を組ませてバランスを取り、二本立てで公開した[8]。また月形龍之介大友柳太朗を加えた娯楽時代劇と相まって、東映の進路に清新な活気を吹き込んで幅の広がりをもたらし[7]、第一期黄金時代の原動力になった[7][22][24]。創立5年目の1956年に配給収入で東映は業界首位に躍り出た[9][23]。マキノ光雄は1957年に亡くなったが、岡田茂を中心とする製作部主導の大衆娯楽時代劇の量産はその後も拡大した[9][10][11]

エピソード 編集

本作が公開されるまでの東映は、前身の東横映画時代からの不調がどん底で[25]、当時本社のあった渋谷界隈では、赤ちょうちんの一杯飲み屋でも「東映の社員にツケで飲ますな」と言われたほどだった[25]。ところが錦之助の人気爆発と共に、製作する映画が次から次へと大当たりし、一気に息を吹き返した[25]。こうなると現金なもので、渋谷はもとより、銀座赤坂六本木あたりまで「お勘定はいつでも結構ですから」と東映社員を大歓迎した[25]。また京都での錦之助のモテっぷりは、錦之助を中心に地球が回っているかのような騒ぎで、両手に祇園舞妓を抱いてザブンと風呂に入ったなどの伝説も生まれた[25]

影響 編集

この時期、長編の添え物として製作された『笛吹童子』『里見八犬伝』『紅孔雀』などの中編の冒険時代劇は熱狂的に受け入れられ[16]中村錦之介東千代之介といったアイドルを生み[3][15][16]東映動画東映まんがまつりと合わせ、子どもたちに娯楽版で映画館通いを覚えさせ、未来の観客を作り育てた[16]。この路線を開拓した東映は、これを契機に徹底した娯楽路線を東映時代劇の全盛時代を築くことになる[17]。娯楽版の成功は東映専門館の拡大に貢献し、1953年末は数10館にすぎなかった専門館が、1954年2月に95館、8月に149館に急増した[3]。東映娯楽版を真似て、松竹東宝大映など各社も競って中編作品の製作に乗り出した[3]。また娯楽版の製作は新人の監督や脚本家が数多く抜擢され、脚本の結束信二、監督の河野寿一小沢茂弘小林恒夫らがここから頭角を現した[3]。また、倍賞美津子[26]高平哲郎[26]角川春樹など[27]、当時幼少期を送った映画人の中に『笛吹童子』や『里見八犬伝』『紅孔雀』を初めての映画体験と話す者も多い[26]相米慎二は「『セーラー服と機関銃』の活劇シーンは『紅孔雀』とかのつもりで撮った」と話している[28]

スタッフ 編集

監督の萩原ほか小川、三木らスタッフはこの年暮に、ほぼ同じキャストで『紅孔雀』を制作している。
  • 監督:萩原遼
  • 企画:マキノ光雄、宮城文夫
  • 脚本:小川正
  • 撮影:三木滋人
  • 照明:福田晃市
  • 録音:石原貞光
  • 美術:鈴木孝俊
  • 編集:宮本信太郎
  • 音楽:福田蘭童
  • 進行主任:徳田米雄
  • 装置:弥田勇造
  • 装飾:神先頌尚
  • 記録:堀ひろ子
  • 衣裳:三上剛
  • 美粧:林政信
  • 結髪:西野艶子
  • スチール:平井稔乃
  • 擬斗:足立伶二郎
  • 助監督:小沢茂弘
  • 撮影助手:坪井誠
  • 照明助手:井上義一
  • 録音助手:墨関治
  • 美術助手:川上晃
  • 編集助手:神田忠男
  • 演技事務:田辺嘉昭
  • 進行:杉井進

キャスト 編集

菊丸役の中村錦之助は、本作が初主演作であり、これをきっかけに東千代之介とともにスター街道を駆け上がることとなった。

ネット配信 編集

YouTube東映時代劇YouTube」の時代劇映画配信枠「傑作時代劇DAY」で期間限定の無料配信が行われた。

配信期間
第一部 2022.01.08 2022.01.22
第二部 2022.01.22 2022.02.05
完結篇 2022.02.05 2022.02.19

テレビドラマ 編集

1960年版『笛吹童子』 編集

放送と合わせて、「原作:北村寿夫、脚本:和家寿夫江原比佐夫、まんが:益子かつみ」名義で、月刊誌「少年画報」(少年画報社刊)にコミカライズ版が連載、更に「原作:北村寿夫、絵:石井きよみ」名義で、少女月刊誌「ひとみ」(秋田書店刊)にもコミカライズ版が連載された。

1972年版『新諸国物語 笛吹童子』 編集

第二次怪獣ブームの最中での放送だったため、特撮を多用しており、妖怪が登場するのも特徴である[29][30]。 提供は不二家一社である。約18年間続いた「不二家の時間」(日曜19:30 - 20:00)は当番組を以って終了となった。 放送と合わせて、週刊誌「少年サンデー」(小学館刊)や小学館の学習雑誌にコミカライズ版が連載された。

放送局

人形劇『新諸国物語より笛吹童子』 編集

新諸国物語より
笛吹童子
ジャンル 人形劇
原作 北村寿夫
脚本 田波靖男
演出 二宮睦郎
製作
制作 日本放送協会NHK総合テレビジョン
放送
放送国・地域  日本
放送期間1977年4月4日 - 1978年3月17日
放送時間平日 18:05 - 18:20
放送枠子供の時間 (NHKテレビ番組)
放送分15分
回数220
テンプレートを表示
  • 1977年4月4日[49] - 1978年3月17日[50]
  • 放映:NHK

放送時間(JST)は平日18時5分 - 18時20分と、1973年3月終了の『ネコジャラ市の11人』以来4年ぶりに元の枠に戻っているが、1978年4月より『600 こちら情報部』開始にともない、次作『紅孔雀』は18時25分 - 18時40分に移動する。

1993年2月18日放送の「青春TVタイムトラベル」(BS2)では最終回が再放送されている[51]

2016年現在、第1回、第206回 - 第218回、最終回の計15話が現存する。このうち第1回・最終回を除く13回分については、人形奏者の伊東万里子からNHKに提供されたもの[52]

声の出演

脚注 編集

  1. ^ 香西久、小説・1990年版解説による。
  2. ^ 読みは小説2010年版、p171のルビによる。なお、同名の雅楽の曲は通常「しゅんのうでん」と発音される。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 岡田茂〈ドキュメント東映全史〉 『多角化は進んでも東映の看板はやはり映画』 文・岡田茂 /ドキュメント東映全史1954(昭和29年)東映娯楽版スタート新スター錦之助・千代之介ブームに沸く」『クロニクル東映 1947 - 1991』 2巻、東映、1992年、1-4,18頁。 
  4. ^ 「本誌特別インタビュー 東映(株)高岩淡専務取締役 『ビデオやテレビも視野に入れ総合戦略で変革の時代に対応』」『映画時報』1993年3月号、映画時報社、11頁。 
  5. ^ a b c d e f 「東映(株)代表取締役社長・高岩淡 『映像3部門を映像本部に合体』...」『映画時報』1997年5月号、映画時報社、5頁。 
  6. ^ a b c d e f g h 南部僑一郎「連載映画千一夜(8)新しい年のホープ」『キネマ旬報』1968年2月下旬号、キネマ旬報社、68-69頁。 
  7. ^ a b c 東映株式会社映像事業部(企画・編集)「品田雄吉の東映映画史 第一期時代劇黄金時代 昭和29年~昭和31年 スター育成システムを確立した台頭期」『東映映画三十年 あの日、あの時、あの映画』東映、1981年、58-59頁。 東映株式会社映像事業部(企画・編集)「ポスター惹句に見る映画の魅力と変遷 開映ブザーが鳴るとそこはもう心ときめく映画の世界文・保科幸雄」『東映映画三十年 あの日、あの時、あの映画』東映、1981年、237頁。 
  8. ^ a b c d e f g h i j 「岡田茂インタビュー 『俺は"映画の錦之助"として死にたいと晩年の彼は言っていた』 文・金澤誠」『キネマ旬報臨時増刊 天晴れ!時代劇』1997年12月16日発行、キネマ旬報社、16-18頁。 
  9. ^ a b c “太秦最後のカツドウ屋(中)東映、反骨のエネルギーを語る(ひと脈々)怪獣だけが映画じゃない、時代劇が銀幕の黄金時代を築いた (戦後の履歴書)”. 日本経済新聞夕刊 (大阪: 日本経済新聞社): p. オムニバス関西29頁. (2010年9月9日) 
  10. ^ a b 読売新聞文化部 編『映画百年 映画はこうしてはじまった』キネマ旬報社、1997年、72頁。ISBN 4873761980 
  11. ^ a b “人間登場 日本映画製作者連盟の会長になった岡田茂さん『自力更生あるのみ』”. 読売新聞 (読売新聞社): p. 5. (1978年6月8日) 
  12. ^ 高岩淡『銀幕おもいで話』双葉社、2013年、47頁。ISBN 978-4-5757-14-01-2 
  13. ^ “山口組組長に一歩も引かず感心された東映「中興の祖」岡田茂”. マイナビ. (2017年6月1日). オリジナルの2020年4月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20190623033946/https://news.mynavi.jp/article/20131229-a124/ 2020年4月14日閲覧。 日本経済新聞社 編『私の履歴書』 経済人38岡田茂、日本経済新聞社、2004年、29-32頁。ISBN 4532169011 春日太一『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』文藝春秋、2013年、109-110頁。ISBN 4163768106 
  14. ^ 東映株式会社総務部社史編纂 編「前史1938-1951 東映株式会社が誕生するまで〈ドキュメント東映全史〉」『東映の軌跡』東映株式会社、2016年、48頁。 
  15. ^ a b “輝き続けた"錦ちゃん" 萬屋錦之介さん死去 歌舞伎の名門から映画へ...”. 中日新聞 (中日新聞社): p. 31. (1997年3月11日) 
  16. ^ a b c d e 「特集東映動画まつり『いま光り輝く、東映動画』 文・山下彗」『東映キネマ旬報 2008年冬号 vol.8』2008年8月1日、東映ビデオ、2-5頁。 
  17. ^ a b c d 高井英幸『映画館へは、麻布十番から都電に乗って。』KADOKAWA、2010年、33–38頁。ISBN 9784048850803 
  18. ^ a b 春日太一『時代劇は死なず!』集英社、2008年、210-214頁。ISBN 9784087204711 
  19. ^ 「巻返しを計る各社の表情を探る 洋高邦低の声に必死の努力を続ける 岡田社長を頂点にますます業績増大の東映」『映画時報』1976年4月号、映画時報社、12頁。 
  20. ^ 東映クロニクル
  21. ^ a b c 「東映・高岩淡社長インタビュー 『総合戦略目指し上も動く下も動く』」『AVジャーナル』、文化通信社、1994年12月、27頁。 
  22. ^ a b “第1回 プロローグとしての私小説的映画体験 映画は死なず 実録的東映残俠伝― 五代目社長 多田憲之が見た東映半世紀 1972~2021― 文=多田憲之(東映株式会社代表取締役会長)p2”. コモ・レ・バ? (CONEX ECO-Friends). (2021年6月30日). オリジナルの2022年1月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220127102706/https://conex-eco.co.jp/series/62773/2/ 2022年3月11日閲覧。 
  23. ^ a b 「東映50周年と『千年の恋 ひかる源氏物語』 岡田茂インタビュー」『キネマ旬報』2001年12月上旬号、42頁。 「東映映画50年の足跡」『キネマ旬報』2001年12月上旬号、45頁。 
  24. ^ 「トップ戦後50年東映・岡田茂会長インタビュー『おもしろおかしく生きて勲二等瑞宝』」『AVジャーナル』1995年12月号、文化通信社、25頁。 
  25. ^ a b c d e 由原木七郎「連載 写真で見るスターの歴史(1) 萬屋錦之介(前)」『映画情報』1980年7月号、国際情報社、39頁。 
  26. ^ a b c 高平哲郎「倍賞美津子インタビュー」『ムービーマガジン Vol.25』1981年3月1日発行、ムービーマガジン社、18–19。 
  27. ^ 「撮影現場訪問『里見八犬伝』 ルポ・南俊子」『キネマ旬報』1983年11月下旬号、キネマ旬報社、134-137頁。 
  28. ^ 梅林敏彦「相米慎二インタビュー」『ムービーマガジン Vol.27』1982年8月1日発行、ムービーマガジン社、57頁。 
  29. ^ 全怪獣怪人』 下巻、勁文社、1990年11月30日、322頁。ISBN 4-7669-1209-8。C0676。 
  30. ^ 宇宙船SPECIAL ’70年代特撮ヒーロー全集』監修 金田益実、朝日ソノラマ、1998年5月30日、122頁。ISBN 4-257-03533-1 
  31. ^ 北海道新聞 1973年2月テレビ欄。
  32. ^ a b c d 『河北新報』1973年1月7日 - 1月28日付朝刊、テレビ欄。
  33. ^ a b 『河北新報』1973年1月9日 - 1月30日付朝刊、テレビ欄。
  34. ^ a b 『北國新聞』1972年12月10日付朝刊、テレビ欄。
  35. ^ 北國新聞 1973年2月テレビ欄。
  36. ^ 信濃毎日新聞 1973年2月テレビ欄。
  37. ^ a b 山梨日日新聞 1973年2月テレビ欄。
  38. ^ 中日新聞 1973年2月テレビ欄。
  39. ^ 京都新聞 1973年2月テレビ欄。
  40. ^ 島根新聞 1973年2月テレビ欄。
  41. ^ 島根新聞 1973年2月テレビ欄。当時は1972年に9月22日鳥取・島根の電波相互乗り入れが開始された直後だったが、同一エリアで同じ番組の放送が残る形になった。
  42. ^ a b 山陽新聞 1973年2月テレビ欄。
  43. ^ 徳島新聞 1973年2月テレビ欄。
  44. ^ a b 愛媛新聞 1973年2月テレビ欄。
  45. ^ 高知新聞 1973年2月テレビ欄。
  46. ^ a b c 熊本日日新聞 1973年2月テレビ欄。
  47. ^ 宮崎日日新聞 1973年2月テレビ欄。
  48. ^ 沖縄タイムス 1973年2月テレビ欄。
  49. ^ 笛吹童子<新番組> ―連続人形劇―(1) - NHKクロニクル
  50. ^ 笛吹童子<最終回> ―連続人形劇―(220) 「大団円」(5) - NHKクロニクル
  51. ^ 青春TVタイムトラベル - NHKクロニクル
  52. ^ 幻の連続人形劇『笛吹童子』一挙13話分発掘! - NHKアーカイブス・2016年3月25日

外部リンク 編集

NET 金曜19時台後半枠
前番組 番組名 次番組
幕末物語
※ここまで「日本歴史シリーズ」
笛吹童子
西部の兄妹
※ここから海外ドラマ
NHK総合テレビジョン 平日18:05 - 18:20枠
月~木-少年ドラマシリーズ
金-レンズはさぐる
(以上18:05 - 18:25)
笛吹童子
600 こちら情報部
(18:00 - 18:25)
NHK総合テレビジョン 児童向け人形劇
真田十勇士
(18:25 - 18:40)
笛吹童子
紅孔雀
(18:25 - 18:40)
TBS 日曜19時台後半枠
新諸国物語 笛吹童子
TBS系 不二家の時間
モンシェリCoCo
新諸国物語 笛吹童子
(廃枠)