第1次ディズレーリ内閣(だいいちじディズレーリないかく、英語: First Disraeli ministry)は、1868年2月から12月まで続いた保守党党首ベンジャミン・ディズレーリ首相とするイギリスの内閣である。

ベンジャミン・ディズレーリ

成立の経緯 編集

1868年2月、保守党党首・首相第14代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーが病により辞職した。これまで財務大臣・庶民院院内総務として政権運営を主導してきたベンジャミン・ディズレーリが後継者となるべきというのが党内の一般的な空気であり、ダービー伯爵も女王に辞表を提出する際に後任としてディズレーリを推挙した[1]

ディズレーリは2月27日オズボーン・ハウスに召集され、女王から組閣の大命を受けた[2]。ディズレーリは大きな内閣改造を行わず、ほぼ第3次ダービー伯爵内閣の面子を留任させたが、大法官初代チェルムスフォード男爵フレデリック・セシジャー英語版を嫌っていたため、彼だけは更迭している[2]

主な政策 編集

第1次ディズレーリ内閣は、トップの顔が変わっただけで第三次ダービー伯爵内閣の延長でしかないから、少数与党の状況は変わっていない。総選挙に勝利して多数派を得るしか政権を安定させる道はなかった。結局その総選挙に敗れて短命政権におわる第1次ディズレーリ内閣だが、その短い間にも様々な法律を通している。選挙における買収禁止に初めて拘束力を与える罰則を設けた腐敗行為防止法、公立学校に関する法律、鉄道に関する法律、スコットランドの法制度を定めた法律、公開処刑を廃止する法律、郵便局に電報会社を買収する権限を与える法律などである。これらは官僚が作成した超党派的な法律だったため、少数与党のディズレーリ政権でも議会の激しい抵抗を起こさずに通すことができた[3]

外交では前政権から続くイギリス人を拉致したエチオピアへの攻撃を続行し、マグダラを陥落させて、皇帝テオドロス2世を自害に追いこんだ。拉致されたイギリス人を救出すると、エチオピアを占領しようという野心を見せることもなく早々に軍を撤収させた[3]

総辞職の経緯 編集

1868年11月から12月にかけての解散総選挙英語版は保守党274議席(改選前294議席)、自由党384議席(改選前364議席)という結果となった[4]

この結果を受けてディズレーリは新議会招集の前の12月3日に総辞職した。これは総選挙の敗北を直接の原因として首相が辞任した最初の事例であり、以降イギリス政治において慣例化する。これ以前は総選挙で敗北しても議会内で内閣不信任決議がなされるか、あるいは内閣信任決議相当の法案が否決されるかしない限り、首相が辞職することはなかった[5][6]

閣内大臣一覧 編集

職名 氏名 在任期間
首相
第一大蔵卿
庶民院院内総務
ベンジャミン・ディズレーリ 1868年2月 - 1868年12月
大法官 初代ケアンズ伯爵 1868年2月 - 1868年12月
枢密院議長 第7代マールバラ公爵 1868年2月 - 1868年12月
王璽尚書
貴族院院内総務
第3代マームズベリー伯爵 1868年2月 - 1868年12月
内務大臣 ギャソーン・ハーディ 1868年2月 - 1868年12月
外務大臣 スタンリー卿 1868年2月 - 1868年12月
植民地大臣 第3代バッキンガム=シャンドス公 1868年2月 - 1868年12月
陸軍大臣 サー・ジョン・パーキントン準男爵英語版 1868年2月 - 1868年12月
インド担当大臣 サー・スタッフォード・ノースコート準男爵 1868年2月 - 1868年12月
財務大臣 ジョージ・ワード・ハント英語版 1868年2月 - 1868年12月
海軍大臣英語版 ヘンリー・ローリー=コリー英語版 1868年2月 - 1868年12月
通商長官 第6代リッチモンド公爵 1868年2月 - 1868年12月
建設長官英語版 ジョン・マナーズ卿 1868年2月 - 1868年12月
アイルランド担当大臣英語版 第6代メイヨー伯爵 1868年2月 - 1868年9月
後任は閣外大臣

脚注 編集

注釈 編集

出典 編集

参考文献 編集

  • 神川信彦解説・君塚直隆『グラッドストン 政治における使命感』吉田書店、2011年(平成13年)。ISBN 978-4905497028 
  • ブレイク男爵英語版 著、谷福丸 訳、灘尾弘吉監修 編『ディズレイリ』大蔵省印刷局、1993年(平成5年)。ISBN 978-4172820000 
先代
第3次ダービー伯爵内閣英語版
イギリスの内閣
1868年2月 - 1868年12月
次代
第1次グラッドストン内閣