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第三十一戦隊(だい31せんたい)とは、日本海軍戦隊の一つ。太平洋戦争後期、敵潜水艦を積極的に発見・攻撃するための対潜機動部隊として[1]1944年(昭和19年)8月20日に編制された[2][3]レイテ沖海戦(エンガノ岬沖海戦)では小沢機動部隊に所属して戦闘に参加、以後は多号作戦礼号作戦など、通常の水雷戦隊任務にも投入された。戦争末期には本土決戦に備えて敵上陸船団に対する水上戦闘任務に転用された(海上挺進部隊)。

概要編集

太平洋戦争突入二年目以後、アメリカ海軍の潜水艦活動により日本の船舶喪失は急激に増大した[3][4]。日本海軍はいくつかの対策を講じたが、その中に対潜水艦戦闘を専門におこなう対潜機動部隊の新編があった[1]。これが第三十一戦隊で、第三水雷戦隊の残存部隊を再編して1944年(昭和19年)8月20日に発足した(司令官:江戸兵太郎少将)[5][6]長良型軽巡洋艦五十鈴が戦隊旗艦となった[7][8]駆逐艦海防艦駆潜艇・基地航空部隊の混成部隊であるため、水雷戦隊と呼称せず「戦隊」と呼ばれている[9]大本営海軍部(軍令部)が対潜機動部隊を連合艦隊に編入したことに、シーレーン防衛を担当する海上護衛総司令部からは大きな不満があがった[2][5]。 また対潜部隊として新編されたものの、まとまって行動する機会はなく、分散して船団護衛任務に従事した[10]

10月18日夕刻、日本軍は捷一号作戦を発動、レイテ沖海戦がはじまる[11]。この作戦で、第三十一戦隊は第三艦隊(司令長官:小沢治三郎中将)に編入され、機動部隊の護衛艦として行動することになった[12]。10月20日、第三十一戦隊は軽巡洋艦大淀を臨時旗艦とし[13]小沢機動部隊(旗艦:瑞鶴)に所属して日本本土を出撃する[14][15]。10月25日のエンガノ岬沖海戦にのぞんだ[16]

海戦に敗北して日本本土にもどったあと[17]、第三十一戦隊は軽巡洋艦五十鈴を旗艦として内地を出撃したが、同艦は11月19日に米潜水艦の雷撃で大破する[18][19]。 11月20日、第三十一戦隊は第五艦隊(司令長官:志摩清英中将)に編入され、第二遊撃部隊に所属してレイテ島地上戦にともなうレイテ島増援輸送多号作戦に従事した[18]。第五艦隊編入直後の11月25日、第三十一戦隊旗艦の秋月型駆逐艦霜月が米潜水艦に撃沈され[20][21]、江戸少将をふくめ第三十一戦隊司令部は全滅した[22]鶴岡信道少将が後任の第三十一戦隊司令官となる[22]。最前線の各艦は多号作戦や礼号作戦に従事したが、多数の沈没艦と損傷艦を出した。

1945年(昭和20年)2月5日、第五艦隊の解隊にともない、第三十一戦隊は連合艦隊附属に戻った[23]。3月15日、第二艦隊(旗艦:大和)に編入される[24]。三十一戦隊の旗艦は秋月型駆逐艦花月となった[24]。4月上旬の菊水作戦にともなう第二艦隊の沖縄方面出撃では、第三十一戦隊は出撃針路の対潜掃蕩をおこなった(坊ノ岬沖海戦)。4月20日に第二艦隊が解隊されると、再び連合艦隊附属に戻った[25]。同日附で第二水雷戦隊が解隊されたため、残存駆逐艦も第三十一戦隊に組みこまれた[25]。その後、第三十一戦隊と第十一水雷戦隊で海上挺進部隊が編成されるが、大規模な海戦や戦闘に遭遇することなく、終戦の日を迎えた。

沿革編集

編成経緯編集

太平洋戦争勃発後、次第に威力を増してきたアメリカ海軍潜水艦による通商破壊に対抗するため[1]、日本海軍は1943年(昭和18年)11月の海上護衛総司令部新編以降、海上護衛関係の部隊編成を進めた[3]。 そのような流れの1944年(昭和19年)6月19日、マリアナ沖海戦で日本海軍は主力空母2隻(大鳳翔鶴)を潜水艦の雷撃で喪失した[3]。7月5日、サイパン島地上戦はアメリカ軍の勝利で終わり、サイパン島に取り残されていた第六艦隊司令部(司令長官:高木武雄中将)、第三水雷戦隊司令部(司令官:中川浩少将)、第二海上護衛隊司令部(司令官:辻村武久少将)の三司令部は日本軍守備隊(中部太平洋方面艦隊第31軍など)と共に玉砕した[26]。第三水雷戦隊は7月18日附で中部太平洋方面艦隊から除かれて連合艦隊附属となった[9]

米軍潜水艦の跳梁に対し、大本営は海軍次官・軍令部次長連名で、対潜活動の活発化と関係各位の奮起奮励をうながした[3]。 日本海軍の連合艦隊司令部(司令長官:豊田副武大将、参謀長:草鹿龍之介中将)[9]及び第一機動艦隊司令部(司令長官:小沢治三郎中将)では、上述のように全滅した第三水雷戦隊司令部を再建し[5]、さらに海防艦(甲型海防艦丁型海防艦)を編入、将来的には対潜空母(大鷹型航空母艦)や対潜基地航空隊を増強し[9]、専門の対潜掃討部隊を編成することを要望した[6][27]。 連合艦隊の表現によれば「現戦況ニ鑑ミ可及的速ニ潜水艦狩名人部隊ヲ編成シ」であるが[6]、理想的編成になるのは11月以後と判断していた[9]。当初、戦隊旗艦は長良型軽巡洋艦3番艦の名取を予定していた[9]

他方、軍令部第12課(防備担当)からも、海防艦及び航空機を主体とする対潜攻撃部隊の構想が持ち上がった[1]。 これらの構想は、海上護衛総司令部参謀長であった島本久五郎少将の回想によると、大西洋の戦いにおける連合国軍の対潜機動作戦部隊(ハンター・キラー・グループ英語版)の活躍がUボートの封殺に成功したという評価に影響を受けたものであった[27]

そして、目的及び用法において両構想に共通性があること、現有兵力では複数部隊の編成は難しいことから、さしあたり1個戦隊が編成されることになった[9]軍令部は8月14日までに及川古志郎軍令部総長以下の承認を得た[2]。その結果、日本海軍は1944年(昭和19年)8月20日第三十一戦隊を新編した[28]。 司令官には江戸兵太郎少将(当時、横須賀警備戦隊司令官)が任命された[2][5]

当初戦隊旗艦には、上述のとおり旧第三水雷戦隊旗艦だった名取を予定していた[9][29]。だが姉妹艦五十鈴の方がレーダーや水測兵器が優秀と判明した[30]。五十鈴は前年12月上旬にマーシャル諸島方面で受けた損傷を横浜船渠で修理しており、対空兵装および対潜兵装を大幅に強化した防空巡洋艦となっていた[7][29]。 軍令部は、急遽予定を変更する[30]。名取は、8月7日に撃沈された軽巡洋艦長良[31][32]の代艦として第十一水雷戦隊旗艦の予定となった[30]。ところがフィリピン~パラオ諸島方面輸送作戦従事中の8月18日に米潜水艦(ハードヘッド[33]の雷撃で撃沈されてしまった[30][34]。 なお『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊 <6>』では上記の経緯が述べられているが[30]、『戦史叢書 海上護衛戦』では「名取を第三十一戦隊旗艦にする予定だったが、撃沈されたので五十鈴に急遽変更した」と記述している[27]

新編時の第三十一戦隊の兵力は、旗艦五十鈴のほかに[7]、第三水雷戦隊の残存駆逐艦5隻(卯月、夕月、秋風皐月夕凪)から成る第30駆逐隊[35]を基幹とし、新造の松型駆逐艦から成る第43駆逐隊([36]、海防艦5隻(満珠、干珠、笠戸、三宅[37]、第22号海防艦[38])であった。

新編後も戦力の増強がおこなわれ、同年9月1日には新編の第933海軍航空隊が編入された[10][39]。 9月10日、第43号海防艦を編入した[10][39]。 9月14日、五十鈴の改造と修理が完成した[7]。 9月30日、駆逐艦槇が第43駆逐隊に編入された[10][39]。 10月10日、駆逐艦桐が第43駆逐隊に編入された[10][39]。 10月13日、第29号海防艦と第31号海防艦が編入された[10][39]。 10月20日、すでに第三十一戦隊に所属していた海防艦4隻(満珠、干珠、笠戸、三宅)で第21海防隊を編制し、ひきつづき第三十一戦隊に所属した[10][39]

運用方針編集

1944年(昭和19年)8月20日に創設された第三十一戦隊は、連合艦隊に直属部隊として編入された[39]。時期をみてさらにもう一隊を新編し、海上護衛総司令部に編入する予定だったという[10]。対潜任務であるにもかかわらず海上交通保護を任務とする海上護衛総司令部部隊に編入されなかった理由は、軍令部が「海上護衛総司令部は直接護衛を担当する、連合艦隊は海上交通要所における対潜掃蕩を担当する」と区別していた為である[10]。 軍令部第12課の十川潔中佐の回想によれば[40]、海上護衛総司令部に運用を委ねると護送船団の直接護衛に使用されてしまい、本来の意図である独立した対潜機動部隊としての活動ができないおそれがあること、花形部隊である連合艦隊所属としたほうが士気が高まることにあったという[5][27]

これについて、海上護衛総司令部参謀の大井篤大佐は、兵力不足の海上護衛総司令部では第三十一戦隊が船団護衛に使用できれば南方航路の護衛が3割増強できると期待していた[10][41]。 第三十一戦隊編成直後の8月24日、軍令部総長官邸でおこなわれたルソン海峡緊急対潜方策の研究会で大井参謀は海上護衛部隊の戦力不足を訴え、第三十一戦隊の応援と活用を要求している[42]。ただし、将来的にはルソン海峡対潜作戦専門の根拠地隊(機雷敷設の第18戦隊を基幹)の新編をもとめている[42]中澤佑軍令部第一部長は「第三十一戦隊の用法については別に研究を必要とする」と述べた[42]。 戦後、大井は「第三十一戦隊が連合艦隊の大型艦の対潜護衛に回されてしまった」と考えて、不服だったと回想している[41]

また大井篤の回想では、護衛部隊の意見として、船団護衛兵力不足を解消するため第三十一戦隊に限らず連合艦隊所属の駆逐艦を船団護衛に転用する選択肢にも言及している[43]。大井の主張に対し、軍令部第一部長であった中澤佑中将や戦史叢書『海上護衛戦』の編纂に関わった小山貞大佐(戦後は防衛庁防衛研修所戦史室調査員)らは「連合艦隊所属の艦隊型駆逐艦は貴重な艦隊決戦兵力であり、対潜能力が低く船団随伴の低速行動にも不向きであった」などとして、かかる選択の有効性に疑問を呈している[44]。 海上護衛総司令部の要望も受け[41]、第三十一戦隊はルソン海峡での対潜訓練を兼ねた船団護衛など南シナ海方面を中心に作戦行動を行った。

なお、第三十一戦隊以外の対潜攻撃部隊として、海上護衛総司令部部隊の第一海上護衛隊でも、1944年7月に独自の掃討小隊と称する軍隊区分を創設している[45]。この掃討小隊は、護送船団周辺で護衛に当たりつつ、機に応じて行動して敵潜水艦を捕捉攻撃する任務が与えられ、船舶被害の多いルソン海峡での作戦に従事した。同年8月にはフィリピンの戦いに向けた増援部隊輸送作戦のため、連合艦隊などから第一海上護衛隊の指揮下に護衛艦艇が増強されたのを受け、1個小隊につき海防艦または掃海艇4隻体制の3個小隊が投入されている[46]

戦歴編集

昭和19年編集

1944年(昭和19年)8月20日の第三十一戦隊編成直後、ヒ71船団などを護衛してルソン島方面に進出していた駆逐艦夕凪(第30駆逐隊)が、米潜水艦ピクーダに撃沈された[21][47]。 第三十一戦隊旗艦の五十鈴は横須賀での修理・改造が完了しておらず(9月14日、改装終了)[7]、第三十一戦隊司令部は呉鎮守府の一角を借りして事務をおこなった[10]。 9月7日、豊田連合艦隊司令長官は連合艦隊電令作第292号をもって敵潜掃蕩部隊 (SCB) を編成し、第三十一戦隊と第21駆潜隊(第三南遣艦隊所属)をもって(一)敵潜撃滅、(二)機動部隊および補給部隊護衛、(三)艦隊泊地警戒、(四)海上交通保護を命じた[10]。だが戦局の急転により、統一行動をとったことはなかったと思われる[10]

9月21日、特務艦神威やタンカー旭東丸を護衛していた駆逐艦皐月(第30駆逐隊)は、マニラで米軍機動部隊艦載機の攻撃を受けて沈没した[48][49]。24日には、工作艦に改造されていた水上機母艦秋津洲がコロン湾で撃沈され[49]、損傷艦の前線での応急修理が難しくなる。

10月17日、連合軍はフィリピン中部のスルアン島に大部隊を展開し、上陸作戦を開始した[50]。連合艦隊司令部[51]は、当時内海西部にあった第三十一戦隊を機動部隊本隊(指揮官:小沢治三郎第三艦隊司令長官)の警戒部隊に編入した(GF電令作第356号)[12][52]。これは、機動部隊本隊の警戒兵力であった第二遊撃部隊(指揮官:志摩清英第五艦隊司令長官)を台湾沖航空戦における「残敵掃蕩」のため出撃させたため[53]、機動部隊の護衛が足らなくなったための措置である[12][54]

10月18日午後5時、日本軍は捷一号作戦を発動する[11][55]。翌日、第三十一戦隊は旗艦を五十鈴から軽巡洋艦大淀に変更した[13]。10月20日夕刻、第一機動艦隊(司令長官:小沢治三郎中将)・第三航空戦隊(小沢長官直率〈瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田〉)・第四航空戦隊(司令官:松田千秋少将〈日向、伊勢〉)・巡洋艦戦隊(多摩、五十鈴)・警戒隊(第一駆逐連隊〔第三十一戦隊旗艦〈大淀〉・松型駆逐艦〈桑、槇、桐、杉〉・第二駆逐連隊(第61駆逐隊〈初月、若月、秋月〉・第41駆逐隊〈霜月〉〕)として豊後水道を出撃した[15][14]。 第三十一戦隊の任務は、第三艦隊を基幹とする機動部隊の護衛であった[56]。軽巡洋艦や駆逐艦は機動部隊本隊の直衛を担当し、海防艦部隊は燃料補給部隊の護衛をおこなった[5]。第一補給部隊(タンカー〈たかね丸〉、海防艦〈22号、29号、33号〉)・第二補給部隊(タンカー〈仁栄丸〉、駆逐艦〈秋風〉、海防艦〈31号、43号、132号〉)という編成である[57][58]。 10月25日のエンガノ岬沖海戦で、小沢機動部隊は7隻(空母〈瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田〉・軽巡洋艦〈多摩〉[59]・駆逐艦〈初月、秋月〉)を喪失するが[16][60]、第三十一戦隊に沈没艦はいなかった[61]。第二補給部隊の仁栄丸は10月25日に米潜水艦(スターレット)によって撃沈され[58][62]、第一補給部隊のたかね丸も10月31日に米潜水艦複数隻の襲撃により撃沈された[63][64]

レイテ沖海戦後、大淀と若月は奄美大島からフィリピンへ再進出を命じられたため[13]、小沢機動部隊司令部は大淀から日向へ、第三十一戦隊司令部は大淀から五十鈴へ移動した[65]。第三十一戦隊は小沢艦隊残存艦と内地に戻って補給と修理をおこなう[17]。 その後、緊急輸送任務に従事し、第三十一戦隊(軽巡〈五十鈴〉・第43駆逐隊〈梅、桃、桐〉)と松型2隻(桑、杉)は再びフィリピンへ進出する[18]。三十一戦隊はマニラ到着をもって、南西方面部隊に編入されることが発令されていた(11月5日)[18]

11月19日、旗艦五十鈴はコレヒドール島沖合で米潜水艦・ヘイク[18]の雷撃を受けて艦尾切断の大損害を受けた[66][19]。11月20日、第五艦隊(司令長官:志摩清英中将)麾下の第一水雷戦隊(司令官:木村昌福少将)が第二水雷戦隊(11月11日の第三次多号作戦で早川幹夫司令官戦死、全滅状態)[17]と統合される形で解隊されると[67]、第三十一戦隊は一水戦の代わりの駆逐艦部隊として第五艦隊に編入された[68]。以後、第三十一戦隊は本格的に多号作戦に従事する。多号作戦とは、ルソン島からレイテ島への陸軍兵力増援作戦である[69]

11月22日、五十鈴は駆逐艦桃に護衛されてシンガポールに到着した[18][22]。同日、第三十一戦隊司令部は秋月型駆逐艦の霜月(第二水雷戦隊・第41駆逐隊所属)に旗艦を変更した[22]。11月24日午後、江戸少将は駆逐艦2隻(秋月型〈霜月〉、松型〈桃〉)でシンガポールを出発、ブルネイに向かう[22]。11月25日未明、「霜月」は米潜水艦・カヴァラに撃沈される[20][21]。霜月沈没により、第三十一戦隊司令官江戸兵太郎少将をふくめ戦隊司令部は全滅した[27]。 そこで同年12月1日、鶴岡信道少将を司令官として内地で第三十一戦隊司令部が再建され、12月22日に空路でマニラに進出した[22]。この間、五十鈴はシンガポールからスラバヤに回航され、同地で修理をおこなった[8]

同年12月8日には麾下の第933海軍航空隊がルソン島北部カナンカに進出したが、護衛関係航空部隊の大規模な整理統合に伴い、第三十一戦隊から除かれて第936海軍航空隊に吸収された[70]。多号作戦に投入された第三十一戦隊の駆逐艦は、(12月3日)[71]卯月(12月12日)[72]夕月(12月13日)[73]など、次々に撃沈された。 同年12月15日、連合軍はミンドロ島に上陸してミンドロ島地上戦がはじまり、多号作戦は中止された[74]。当時の南西方面における健在水上兵力は航空戦艦2隻(日向、伊勢)・巡洋艦(足柄、大淀、羽黒)・駆逐艦(朝霜、清霜、霞、初霜、樫、杉、檜、榧)であった[74]。第三十一戦隊のうち数隻は第二水雷戦隊司令官木村昌福少将の指揮下に入り、礼号作戦部隊として12月28日深夜の礼号作戦に参加した[74]

昭和20年編集

1945年(昭和20年)1月初旬、連合軍はリンガエン湾に進出し[75]、上陸作戦を開始した(ルソン島の戦い[76]南西方面艦隊(司令長官:大川内傳七中将)は第三十一戦隊所属艦を含めた第二遊撃部隊に水上突入作戦を命じたが[76]、第52駆逐隊(檜[77]、樅[78])が空襲と水上艦艇による攻撃で撃沈された[79][80]。 1月8日、大川内長官は第三十一戦隊残余(梅、樫、杉)の進出を命じたが翌日には取り消し、駆逐隊は第二遊撃部隊から除かれた[80]。第三十一戦隊各艦は、南西方面から内地や台湾への撤退を開始した[80][81]。香港で修理中の梅は、1月20日に高雄港に到着し、姉妹艦(樫、杉)と合流している[80]。だが翌日、航空兵力撤収作戦に従事した際に空襲を受け撃沈され[82]、駆逐艦[83]も損傷した[84]

2月5日、第五艦隊は戦時編制からのぞかれ、第二遊撃部隊の残存部隊は新編の第十方面艦隊(司令長官:福留繁中将)に編入された[23]。ただし、第三十一戦隊は連合艦隊直属に戻された[23][24]。そして、同年3月15日には日本本土の第二艦隊(司令長官:伊藤整一中将、旗艦:大和)に編入された[24]。ただし、スラバヤで修理中の五十鈴は損傷のため3月25日附で第十方面艦隊に編入されて第三十一戦隊から除かれ[8]、駆逐艦としては大柄な秋月型駆逐艦の花月が旗艦として第三十一戦隊に与えられた[24]。 4月初旬の天一号作戦における三十一戦隊は、豊後水道を通過する第一遊撃部隊(第一航空戦隊〈大和〉・第二水雷戦隊〔軽巡洋艦〈矢矧〉[85]、第17駆逐隊〈磯風、雪風、浜風〉・第21駆逐隊〈朝霜、初霜、霞〉・第41駆逐隊〈冬月、涼月〉〕)を援護するため、対潜掃討を実施する(坊ノ岬沖海戦)。坊ノ岬沖海戦で主力艦艇を失った第二艦隊が解隊されると、第三十一戦隊は再び連合艦隊直属となった[25]。同じく第二艦隊に所属していた第二水雷戦隊も解隊されて、残存駆逐艦(第7駆逐隊〈潮、響〉・第17駆逐隊〈雪風、初霜〉・第41駆逐隊〈冬月、涼月〉)は第三十一戦隊に編入された[25]

本土決戦準備が進められる中、同年5月20日に第三十一戦隊(第17駆逐隊欠)を基幹として海上挺進部隊の軍隊区分が設置され、本土決戦時の敵上陸船団攻撃任務に充てられることになった[86]。しかし、燃料不足で行動は極めて制限されていた。同年7月15日には最後の水雷戦隊である第十一水雷戦隊(新造駆逐艦の練習部隊)が解隊されたため[86]、第三十一戦隊は日本海軍で唯一、駆逐艦以上の艦艇多数を擁する水上戦部隊として終戦の日を迎えた。

編制編集

編成の基幹となったのは第三水雷戦隊の残存艦艇であった[2]。編制上の特色は、水上艦艇が水雷戦隊時代から引き継いだ旧式駆逐艦(峯風型駆逐艦神風型駆逐艦睦月型駆逐艦)、新造の松型駆逐艦、対潜能力に優れた海防艦の混成であること、対潜航空部隊を編入されていることである。また、旗艦用として軽巡洋艦および秋月型駆逐艦を割り当てられている。

なお、福井静夫(海軍技術将校、艦艇研究家)は、第十三号型駆潜艇5隻(17号、18号、23号、37号、38号)も対潜・対空装備を増強した上で、第三十一戦隊に編入されたと述べているが[28]、『戦史叢書第46巻』に掲載の戦時編制や第31戦隊基幹の部隊についての軍隊区分表(1944年8月20日[27]・10月27日[87]・12月15日[27]・1945年7月15日[86]等)には駆潜艇の記載はなく、大井篤の回想にも駆潜艇が所属していた旨の記述はない[41]。1944年(昭和19年)9月7日のGF電令作第292号による「敵潜掃蕩部隊」(指揮官は第三十一戦隊司令官)の部署で、第21駆潜隊が同部隊に編入され、第三十一戦隊司令官の指揮下に入っている[10]

1944年末頃には海防艦や航空部隊は編制から除かれ、ほとんど駆逐艦だけの部隊に変わった。

1944年8月20日時点での編制[27]
1944年11月20日時点での編制[18]
  • 軽巡洋艦:五十鈴
  • 第30駆逐隊:夕月、卯月
  • 第43駆逐隊:桐、梅、竹、桃、槇
  • 海防艦
    • 第21海防隊:笠戸、干珠、満珠、三宅、生名
    • 海防22、29、31、43
  • 九三三空
1944年12月15日時点での編制[27]
  • 軽巡洋艦:五十鈴(旗艦)
  • 第30駆逐隊:卯月、夕月
  • 第43駆逐隊:、梅、竹、桃、
  • 第52駆逐隊(1944年11月25日編入):
  • 海防艦
    • 第21海防隊[注 7]:干珠、満珠、笠戸、三宅、生名
    • 第22号、29号、31号、43号
  • 第933海軍航空隊佐伯海軍航空隊の一部を改編):三座水上偵察機16機
1945年7月15日時点での編制[86]

歴代司令官編集

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 第22駆逐隊(皐月、夕凪)を解隊し、第30駆逐隊に編入した。
  2. ^ 将来的には竹級駆逐艦5隻(杉、樫、樅、檜、楓)で駆逐隊を編成し、31戦隊に編入予定。
  3. ^ この海防艦5隻は連合艦隊附属。将来、甲型海防艦2隻を加えて海防隊を新編予定
  4. ^ 第22号海防艦は、連合艦隊附属。将来、丁型海防艦5隻を編入し、海防隊を新編予定。船団護衛用部隊。
  5. ^ 連合艦隊司令長官豊田副武大将と参謀副長高田利種大佐一行は台湾に出張滞在中、沖縄大空襲台湾沖航空戦に遭遇して足止めされていた。横浜市日吉慶應大学司令部から、連合艦隊参謀長草鹿龍之介中将が実質的に指揮をとった。
  6. ^ 松は1944年8月4日のスカベンジャー作戦で戦没しており、書類上のみの所属となっている。
  7. ^ 『戦史叢書』の『大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期』に掲載の1944年10月27日頃の戦時編制に従った[87]。ただし、『戦史叢書』の『海上護衛戦』では第21海防隊ではなく、第21号海防艦となっている[27]
  8. ^ 宵月を第43駆逐隊所属とする資料があるが、宵月は昭和20年内令第447号で第41駆逐隊に編入されている。

出典編集

  1. ^ a b c d 戦史叢書45巻、359-360頁「対潜機動部隊を新編す」
  2. ^ a b c d e 戦史叢書45巻、361-364頁「第三十一戦隊の新編」
  3. ^ a b c d e 戦史叢書37巻、76-78頁「対潜撃滅戦隊の創設」
  4. ^ 戦史叢書45巻、348-349頁「喪失船舶量と被害原因」
  5. ^ a b c d e f 日本海防艦戦史、66-68頁「連合艦隊の海防艦」
  6. ^ a b c 戦史叢書37巻、78-79頁
  7. ^ a b c d e 写真日本の軍艦8巻(軽巡I)、170-171頁「防空巡洋艦となった五十鈴」
  8. ^ a b c 写真日本の軍艦8巻(軽巡I)、175-176頁「軽巡洋艦『長良・五十鈴・名取』行動年表 ◆五十鈴◆」
  9. ^ a b c d e f g h 戦史叢書45巻、360-361頁「聯合艦隊司令部の要望」
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n 戦史叢書37巻、79-81頁「参考」
  11. ^ a b 戦史叢書45巻、471-472頁「発動 ― 十月十八日」
  12. ^ a b c 戦史叢書45巻、460-463頁「日吉司令部の決戦準備促進 ― 十月十七日」
  13. ^ a b c 写真日本の軍艦9巻(軽巡II)、158頁「軽巡洋艦『大淀』行動年表」
  14. ^ a b 戦史叢書45巻、499-500頁「機動部隊本隊 ― 二十日豊後水道南下」
  15. ^ a b 戦史叢書56巻、82-85頁「作戦要領」
  16. ^ a b 戦史叢書45巻、523-526頁「エンガノ岬沖の戦闘」
  17. ^ a b c 戦史叢書54巻、450-452頁「フィリピン沖海戦直後の水上部隊」
  18. ^ a b c d e f g 戦史叢書54巻、453-454頁
  19. ^ a b 軽巡二十五隻 2014, pp. 327-328五十鈴(いすず)
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  89. ^ 秘海軍公報 第5024号 昭和20年5月28日 p.41』 アジア歴史資料センター Ref.C12070511500 「内令第四四七號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年五月二十日 海軍大臣/第四十一驅逐隊ノ項中「冬月、」ノ下ニ「宵月、」ヲ加フ/第四十三驅逐隊ノ項中「榧、」ノ下ニ「椎、」ヲ加フ/第五十二驅逐隊ノ項中「楓、」ノ下ニ「梨、萩、」ヲ加フ|(内令提要巻一、六八頁参照)」
  90. ^ 秘海軍公報 第5027号 昭和20年5月31日  p.48』 アジア歴史資料センター Ref.C12070511500 「内令第四六四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年五月二十五日 海軍大臣/第十七驅逐隊ノ項中「磯風、」ヲ削ル/第四十一驅逐隊ノ項中「宵月、」ノ下ニ「夏月、」ヲ加フ|(内令提要巻一、六八頁参照)」
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参考文献編集

  • 大井篤『海上護衛戦』学習研究社〈学研M文庫〉、2001年。
  • 木俣滋郎『日本海防艦戦史』図書出版社、1994年9月。ISBN 4-8099-0192-0
  • 重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8
    • (255-342頁)戦史研究家伊達久『日本海軍駆逐艦戦歴一覧 太平洋戦争時、全一七八隻の航跡と最後
  • 原為一ほか『軽巡二十五隻 駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌』潮書房光人社、2014年12月。ISBN 978-4-7698-1580-8
    • (75-86頁)戦史研究家伊達久『航跡でたどる軽巡二十五隻の栄光と悲惨』
    • (185-206頁)「丸」編集部『外国戦史に見る日本軽巡の最後』
    • (263-280頁)当時五十鈴通信長・海軍大尉芝山末男『防空巡洋艦五十鈴エンガノ岬沖の血戦 主砲を撤去して高角砲六門に対空機銃と電探。大改装後の通信長の回想
    • (304-318頁)戦史研究家柏木浩『日本の軽巡洋艦かく戦えり』
    • (319-350頁)戦史研究家落合康夫『日本海軍軽巡洋艦戦歴一覧』
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍捷号作戦<1> 臺灣沖航空戦まで』第37巻、朝雲新聞社、1970年8月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『大本營海軍部・聯合艦隊<6> ―第三段作戦後期―』第45巻、朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1970年4月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『海上護衛戦』第46巻、朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1971年。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降』第54巻、朝雲新聞社、1972年3月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍捷号作戦<2> フィリピン沖海戦』第56巻、朝雲新聞社、1972年6月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『大本營海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期』第93巻、朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1976年。
  • 『写真 日本の軍艦 軽巡I 天龍型・球磨型・夕張・長良型』第8巻、雑誌『』編集部/編、光人社、1990年3月。ISBN 4-7698-0458-X
  • 『写真 日本の軍艦 軽巡II 川内型・阿賀野型・大淀・香取型 砲艦』第9巻、雑誌『』編集部/編、光人社、1990年4月。ISBN 4-7698-0459-8

関連項目編集