第1次山縣内閣

日本の内閣

第1次山縣内閣(だいいちじ やまがたないかく)は、内務大臣陸軍中将伯爵山縣有朋が第3代内閣総理大臣に任命され、1889年(明治22年)12月24日から1891年(明治24年)5月6日まで続いた日本の内閣

第1次山縣内閣
内閣総理大臣 第3代 山縣有朋
成立年月日 1889年(明治22年)12月24日
終了年月日 1891年(明治24年)5月6日
与党・支持基盤藩閥内閣
施行した選挙 第1回衆議院議員総選挙
内閣閣僚名簿(首相官邸)
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内閣の顔ぶれ・人事 編集

国務大臣 編集

1889年(明治22年)12月24日任命[1]。在職日数499日。

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣総理大臣 3 山縣有朋   長州藩
陸軍中将
伯爵
内務大臣兼任
外務大臣 8 青木周蔵   旧長州藩
子爵
初入閣
内務大臣 1 山縣有朋   旧長州藩
陸軍中将
伯爵
内閣総理大臣兼任 留任
1890年5月17日免兼[2]
2 西郷従道   薩摩藩
海軍中将
陸軍中将
伯爵
転任[注釈 1]
1890年5月17日任[2]
大蔵大臣 1 松方正義   旧薩摩藩
伯爵
留任
陸軍大臣 1 大山巌   旧薩摩藩
陸軍中将
伯爵
留任
海軍大臣 1 西郷従道   旧薩摩藩
海軍中将
陸軍中将
伯爵
留任
1890年5月17日免[注釈 1][2]
2 樺山資紀   旧薩摩藩
海軍中将
子爵
初入閣
1890年5月17日任[2]
司法大臣 1 山田顕義   旧長州藩
陸軍中将
伯爵
留任
文部大臣 2 榎本武揚   幕臣
海軍中将
子爵
留任
1890年5月17日免[注釈 2][2]
3 芳川顕正   徳島藩 初入閣
1890年5月17日任[2]
農商務大臣 5 岩村通俊   土佐藩 初入閣
1890年5月17日免[2]
6 陸奥宗光   紀伊藩
衆議院[注釈 3]
無所属
初入閣
1890年5月17日任[2]
逓信大臣 2 後藤象二郎   旧土佐藩
伯爵
留任
班列 - 大木喬任   肥前藩
伯爵
枢密院議長 初入閣
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

内閣書記官長・法制局長官 編集

1889年(明治22年)12月26日任命[3]

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣書記官長 3 周布公平   長州藩
貴族院[注釈 4][4]
男爵
法制局長官 2 井上毅   肥後藩 枢密顧問官[注釈 5][5] 留任
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

勢力早見表 編集

※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。

出身藩閥 国務大臣 その他
くげ公家 0
さつま薩摩藩 3
ちょうしゅう長州藩 3 内閣書記官長
国務大臣のべ4
とさ土佐藩 2
ひぜん肥前藩 1
ばくしん幕臣 1
その他の旧藩 0 法制局長官
- 10 国務大臣のべ11

内閣の動き 編集

前内閣の黒田内閣は1889年(明治22年)10月25日、条約改正交渉の失敗を契機として総辞職を決意、黒田清隆首相は閣僚の辞表をまとめて提出した。しかし明治天皇は、内大臣三条実美を内閣総理大臣に任命し、黒田内閣の閣僚はそのまま大臣職にあった。12月24日、内閣職権を廃して内閣官制が導入され、同日に三条は病痾を理由に首相を辞任、内務大臣であった山縣が首相・内務大臣に任命された[6]。この内閣官制の導入により、「大宰相主義」は否定され内閣総理大臣は「同輩中の首席」と位置づけられた。

1890年(明治23年)11月29日大日本帝国憲法が施行、同日に第1回帝国議会が開かれ、議会制度が開始される。衆議院第1回衆議院議員総選挙(同年7月1日投開票)を経て立憲自由党板垣退助党首)や立憲改進党大隈重信党首)らの野党勢力(民党)が多数を占め、山縣内閣は、地盤を持たない衆議院における法案や予算案の審議で苦労を重ねることとなった。

予算案審議において、政府提出案ではおよそ26%を陸海軍経費に充て、その理由として「主権線の守護と利益線の防護」を挙げた[7][注釈 6]。これに対して、議会多数派は「民力休養・政費節減」を主張、予算委員会審議において、予算案の削減を行う。松方蔵相は議会の予算案に対して不同意を表明、議会多数派と対立する[9]

一方、自由、改進両党と距離をとる大成会は、憲法67条の規定を根拠に、予算案修正には政府の同意が必要ではないか、と問いただすと、山縣首相も同意の答弁を行う。この間、政府は議会活動の方向性をめぐって内紛状態にあった自由党内に手を伸ばして、旧愛国公党系(土佐派)の議員との間で妥協を成立させる。1891年2月20日、大成会が上述の67条の解釈について、事前同意を必要とする旨の緊急動議を提出すると、土佐派の議員26名が造反して賛成、動議が可決する。これらの議員は、板垣を担いで自由党を離脱、自由倶楽部を結成し、大成会らとともに準与党の立場で政府との予算交渉にあたった。3月2日、衆議院本会議で予算案は可決される[10]

初の議会を辛くも乗り切った山縣内閣は、4月9日に内閣総辞職を決意。後任には山縣は伊藤博文元首相を推し、29日にいったんは伊藤に大命が降ったが、伊藤の固辞を受け、松方蔵相が後任となる。5月6日、内閣総辞職[11]

備考 編集

  • 1890年(明治23年)12月6日、山縣首相は衆議院において施政方針演説を行った。また、松方蔵相も財政演説を行う。これが、現在にまで続く政府演説の初例となった[12]
  • その他政策としては、教育勅語の発布、府県制郡制の導入などを行った。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ a b 同日付で海軍相から内務相に横滑り。
  2. ^ 同日付で枢密顧問官に就任。
  3. ^ 1890年7月1日から衆議院議員を兼任。
  4. ^ 1890年(明治23年)10月1日就任。
  5. ^ 1890年(明治23年)7月19日就任。
  6. ^ 「主権線」は国境を意味し、「利益線」は「主権線の安全と密接に関係する区域」を意味した[8]

出典 編集

参考文献 編集

  • 升味準之輔『日本政治史 2 藩閥支配、政党政治』東京大学出版会東京都文京区、1988年5月25日。ISBN 4-13-033042-X 

関連項目 編集

外部リンク 編集