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第1次桂内閣(だいいちじ かつらないかく)は、陸軍大将桂太郎が第11代内閣総理大臣に任命され、1901年(明治34年)6月2日から1906年(明治39年)1月7日まで続いた日本の内閣である。

第1次桂内閣
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内閣総理大臣 第11代 桂太郎
成立年月日 1901年(明治34年)6月2日
終了年月日 1906年(明治39年)1月7日
与党・支持基盤 官僚内閣帝国党
施行した選挙 第7回衆議院議員総選挙
第8回衆議院議員総選挙
第9回衆議院議員総選挙
衆議院解散 1902年(明治35年)8月10日(任期満了)
1902年(明治35年)12月28日
1903年(明治36年)12月11日
内閣閣僚名簿(首相官邸)
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1903年(明治36年)に西園寺公望が政友会総裁に就任し、元老・山縣有朋に支えられた桂と同じく元老の伊藤博文に支えられた西園寺が交互に首班となって組閣したことから、1913年(大正2年)の大正政変までの時期は桂園時代(けいえんじだい)と呼ばれている。

また、日露戦争が勃発したときの内閣であり、在任期間は1681日で1つの内閣としては日本憲政史上最長である(現在では総選挙が行われるたびに内閣が総辞職するため、衆議院議員の任期である4年(約1460日)を超えるのは不可能である)。

内閣の顔ぶれ・人事編集

国務大臣編集

1901年(明治34年)6月2日任命[1]。在職日数1681日。

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣総理大臣 11 桂太郎   陸軍大将
子爵
内務、文部大臣兼任
外務大臣 - 曾禰荒助   貴族院
無所属
臨時兼任
(大蔵大臣兼任)
1901年9月21日免[2]
12 小村壽太郎   外務省
男爵[注釈 1][3]
初入閣
1901年9月21日任[2]
内務大臣 16 内海忠勝   内務省
男爵
初入閣
1903年7月15日免[4]
17 児玉源太郎   陸軍中将
男爵
台湾総督 1903年7月15日任[4]
1903年10月12日免[5]
18 桂太郎   陸軍大将
子爵
内閣総理大臣兼任 1903年10月12日兼[5]
1904年2月20日免兼[6]
19 芳川顕正   貴族院
無所属
子爵
1904年2月20日任[6]
1905年9月16日免[7]
20 清浦奎吾   貴族院
無所属
研究会
農商務大臣兼任 1905年9月16日任[7]
大蔵大臣 10 曾禰荒助   貴族院
無所属
外務大臣臨時兼任
農商務大臣兼任
陸軍大臣 6 児玉源太郎   陸軍中将
男爵
台湾総督 留任
1902年3月27日免[8]
7 寺内正毅   陸軍中将 初入閣
1902年3月27日任[8]
海軍大臣 5 山本権兵衛   海軍中将
海兵2期
留任
司法大臣 11 清浦奎吾   貴族院
無所属
(研究会)
農商務大臣兼任 1903年9月22日免[9]
12 波多野敬直   司法省 初入閣
1903年9月22日任[9]
文部大臣 16 菊池大麓   貴族院
無所属
(研究会)
男爵[注釈 1][3]
初入閣
1903年7月17日免[10]
17 児玉源太郎   陸軍中将
男爵
内務大臣兼任
台湾総督
1903年7月17日任[10]
1903年9月22日免[9]
18 久保田譲   貴族院
無所属
(研究会)
初入閣
1903年9月22日任[9]
1905年12月14日免[11]
19 桂太郎   陸軍大将
子爵
内閣総理大臣兼任 1905年12月14日任[11]
農商務大臣 18 平田東助   貴族院
無所属
茶話会
男爵[注釈 1][3]
初入閣
1903年7月17日免[10]
19 清浦奎吾   貴族院
無所属
(研究会)
司法大臣兼任 1903年7月17日任[10]
逓信大臣 12 芳川顕正   貴族院
無所属
子爵
1903年7月17日免[10]
13 曾禰荒助   貴族院
無所属
大蔵大臣兼任 1903年7月17日任[10]
1903年9月22日免[9]
14 大浦兼武   貴族院
無所属
1903年9月22日任[9]
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

内閣書記官長・法制局長官編集

1901年(明治34年)6月2日任命[12]

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣書記官長 12 柴田家門   貴族院[注釈 2][13]
無所属
法制局長官 9 奥田義人   農商務省 内閣恩給局長 留任
1902年9月26日免[14]
10 一木喜徳郎   貴族院
無所属
内閣恩給局長 1902年9月26日任[14]
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

勢力早見表編集

※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。

出身 国務大臣 その他
きぞくいん貴族院 5 内閣書記官長
国務大臣のべ6
ぐんぶ軍部 3
かんりょう官僚 0
その他 1 法制局長官
9 国務大臣のべ10

内閣の動き編集

前の第4次伊藤内閣の崩壊後、当初井上馨大命降下されたが、期待していた渋沢栄一大蔵大臣就任が実現せず、同じく立憲政友会も混乱状態にあったため、井上は組閣辞退を表明した。元勲世代からの総理大臣擁立は困難と考えた元老によって、新たに推されたのが桂であった。山縣有朋系官僚を中心とした内閣であり、「二流内閣」と揶揄された。議会における与党帝国党のみであり、伊藤博文立憲政友会大隈重信憲政本党野党に回った。伊藤博文の立憲政友会は軍備増強の必要性は認めたものの、桂の進める地租増徴ではなく行財政改革の徹底を求めた。

外交では1902年(明治35年)1月30日に日英同盟を締結してロシアとの対決姿勢を強め、内政では1903年に伊藤博文を枢密院議長に祭り上げ立憲政友会総裁を辞めさせることに成功した。政友会は代わりに総裁になった西園寺公望の元で党内融和が進んでいくことになった。

しかし親政友会の奥田義人法制局長官による行財政改革案を葬って辞任に追い込んだことが伊藤を含めた政友会の怒りを買い、内閣は攻撃され、一時は帝国憲法の停止を検討する程(1903年(明治36年)5月19日山縣有朋宛の桂書簡(「山県有朋関係文書」))の危機的状況を迎えていた。

また立憲政友会側では同年、衆議院議員3名が詐欺事件で有罪となり議員資格を喪失する事件が発生した[注釈 3]。同年の第19回帝国議会は12月5日から11日まで僅か7日間であった。

第1次桂内閣における最大の事跡は日露戦争である。桂太郎首相は、戦争中の政局の安定を図るため、立憲政友会との提携を希望して原敬との間で次の政権は政友会総裁の西園寺公望に禅譲するという政権授受の密約を交わす(ただし近年の原と桂の双方の日記の研究によって、当初はその時期を明確にしていなかったこと、日比谷焼討事件後の桂内閣の弱体化に危機感を抱いた双方の合意によって具体的な時期が定まったことが明らかになっている)。政友会の支持を得た第1次桂内閣は日露戦争を乗り切る。だが、多くの死傷者と度重なる非常特別税などの増税に苦しんだ民衆の不満は日比谷焼討事件となって爆発、また外交面ではポーツマス条約第2次日韓協約日清満州善後条約の締結によって一応の役割を果たした。このため、1905年(明治38年)12月に総辞職して、約束通りに西園寺公望に組閣の大命が下ることとなった。

脚注編集

参考文献編集

外部リンク編集