第5回帝国議会

1893年11月に開会した帝国議会

第5回帝国議会(だい5かい ていこくぎかい)は、1893年明治26年)11月28日開会された大日本帝国帝国議会(通常会)。会期終了は同年12月30日

経緯・概要 編集

 
当時の仮議事堂

第2次伊藤内閣は、第3回帝国議会第4回帝国議会と2会期にわたって軍艦建造費等の軍事予算の削減を迫られていたところ、第4回帝国議会において、明治天皇から和衷協同の詔勅(在廷ノ臣僚及帝国議会ノ各員ニ告ク詔勅)が発出された。その結果、宮中は皇室費の一部の30万円を6年にわたって支出して軍艦建造費の財源とすること、政府は高級官吏の俸給の10%を削減するなど民党が要求する行政費の減額に応じること、衆議院の第一党である自由党が予算案に賛成することで、宮中・政府・政党の三者がいわば「三方一両損」的譲歩をして予算をめぐる紛争が解決されるに至った[1]。第4回帝国議会は、1893年(明治26年)2月28日に閉会した。

第4回帝国議会の閉会と相前後して、政府はハワイ王国との間での条約改正交渉に取り組んでいた。第4回帝国議会の会期中である1893年(明治26年)1月にハワイ事変が発生した際に、王党派が日本に対して援助を求めてきており、駐日ハワイ大使が日布修好通商条約の対等化を申し出ていた。政府は、この申出を受け入れ、日本にとって2つ目の対等条約となる改正条約を同年4月にハワイ王国との間で締結した[注釈 1]

政府は、その後、欧米列強との間の条約改正交渉を本格化させた。陸奥宗光外相は、同年7月5日の閣議に条約改正案を提出し、同月19日に明治天皇の裁可を得た。交渉方針としては、これまでと同様、国別談判方式を採用し、日本と最も利害関係の深いイギリスから交渉を開始した。陸奥宗光は、駐独公使に転任した青木周蔵元外相を条約改正委員に任じて駐英公使をも兼務させ、交渉の任にあたらせた。

そのころ、条約改正交渉を背景とした政府の欧化政策に反発して、世論では国粋主義対外硬)が台頭しており、同年10月1日には、安部井磐根らが、条約改正拒否・内地雑居反対を掲げて、大日本協会と呼ばれる超党派の政治結社を設立した。大日本協会の動きに対しては、衆議院第一党の自由党を除く、立憲改進党国民協会などの他の会派も呼応し、日英通商航海条約締結の反対を掲げる党派連合(硬六派)が結成されるに至った(現行条約励行運動)。

同年11月28日に第5回帝国議会が開会すると、翌11月29日、硬六派が相馬事件などを理由として自由党出身の星亨衆議院議長の不信任決議案を提出した。同議案の理由としては、相馬事件のほかにも、取引所法の実施にあたって、後藤象二郎農商務相斎藤修一郎農商務次官らとともに、星亨が取引所当事者から収賄していたのではないかという疑惑も指摘されていた[2]。衆議院は、賛成166票、反対119票にて、同議案を可決した[3]。しかし、星亨が議長辞職を拒否したため、12月1日には、衆議院において、議長不信任上奏案が提出され、同上奏案は、賛成152票、反対126票にて、可決された[4]。これに対し、翌2日、上奏の趣旨について、議長を更迭せよと天皇に対して請願する趣旨か、議院の不明を天皇に対して謝する趣旨か、と土方久元宮相を通じて明治天皇から楠本正隆衆議院副議長に対して「御沙汰」があったため、同日、衆議院は、後者の意とする奉答案を可決した[5]。12月5日、衆議院は、秘密会を開き、衆議院規則203条及び206条の規定に基づき、星亨に対して一週間の登院停止の懲罰を議決し[6]、さらに、同13日には、再び秘密会を開いて、最も重い懲罰である議員除名を議決した[7](なお、後任の議長選挙では楠本正隆副議長、安部井磐根の順で得票し、その結果、楠本正隆が議長に、安部井磐根が副議長に、それぞれ選任された[8]。)。

この間、12月8日には、安部井磐根が「現行条約励行建議案」のほか、「外国条約取締法案」、「外国条約執行障害者処罰法案」の2法案を衆議院に提出しており[9]、硬六派は、政府との対決姿勢を強めていた。

これに対し、政府は、帝国議会の停会を命ずる詔書を発することとした。12月19日、衆議院本会議が当初の議事日程を変更し、安部井磐根が「現行条約励行建議案」の提案理由説明の演説を開始した途端、同日から同月28日までの10日間帝国議会の停会を命ずる旨の詔書が朗読され、そのまま衆議院本会議は散会となった[10]

その後、12月29日に衆議院本会議が再び開かれると、冒頭、陸奥宗光外相が次のとおり演説を行った。

○外務大臣(陸奥宗光君)
 畏れながら今上皇帝御即位の初に当り深く叡慮を悩まされ断然開国の主義を以て国家の大計を定められたのでございます、而して当時廟堂に奉仕するの先輩諸氏も深く右の叡旨を奉体し、爾来国歩幾多の艱難あるにも拘らず此大計此国是を奉体するの一点に至りましては未だ曾て毫も躊躇致したことがござりませぬ、諸君、試に維新の初め聖天子が煥発致されました所の詔勅若くは政府が叡旨を奉じて布告致した所の法令に徴せられよ、凡そ従来我国家が経営し来った所の大進歩若くは大改革は一に此開国の主義に基かぬものがないのでござります、維新の初め我国民中には尚攘夷鎖国的の気象隆んなるの間に於て深く国家将来の大計を慮らせ給ひて、其時代の詔勅には
 外国交際の儀は宇内の公法を以て之を取扱ふべく、云々
又は
 方今万国の事情始めて分明に相成候上は広く公平至当の御条約を以て海外諸国に御交際相立ち第一皇威弥よ振興候様との叡慮に候云々
又は「列国と対峙すべし」とか「開化の域に進み富強の基随って立てば列国と駢馳する難からざるべし」云々等の文字を含有せられるる詔勅若くは法令は一にして足らない、殊に夫の有名なる明治元年三月十四日に煥発せられました所の御誓文の第五項には
 広く智識を世界に求め大に皇基を振起すべし
と詔らせ給ひ、此御誓文に対しては
 朕󠄁躬を以て衆に先んじ天地神明に誓ひ大に此国是を定む
と仰せられ、当時総裁以下の奉答書には
 勅意宏遠誠に以て感銘に堪へず今日の急務永世の基礎此他に出つべからず臣等謹んで叡旨を奉じ死を誓ひ黽勉従事希くは以て宸襟を安じ奉らむ
と誓ひたり、爾来国家に内外幾多の出来事もあって其間には種々の失敗もありました、又種々の国難もありました、即ち其失敗其国難の由来する所を尋ねますれば政府の失錯もありましたろう(清水文二郎君「ありました」と呼ふ)其通り――国民の誤解もありました(清水文二郎君「それはない」と呼ふ)併し茲に既往の得失を追究するも益もない、諸君、試に明治初年に現在したる所の日本帝国を以て今日に現在する所の日本帝国と比較して御覧なさい、其進歩の程度は如何に大なるや、其開化の効力は如何に著しきやを知るに難からぬと思ひます、先づ経済の点により言ひますれば、明治初年に於て内外交易の高と云ふものは其金高三千万円に足らなかったのが、明治二十五年には殆ど一億六千有余万円になり、又陸には三千哩に近い鉄道が敷き列れられ、一万哩に近き電線を架け列べたり、又海には数百艘の西洋形の商船が内外の海面に浮んで居る、軍備の点より言へば将士訓練機械精鋭にして殆ど欧州強国の軍隊にも譲らぬ常備兵が十五万も出来て居る、海軍も殆ど四十艘に近い軍艦が出来、将来尚ほ国計の許す限は之を増進せんと思ひます、若し之に加ふるに人文の自由を拡張し、制度文物を改良し、学術工芸の進歩したるものを以てすれば、実に枚挙に遑あらぬと思ひます、特に其一大特例として云ふべきものは立憲の政体茲に立ち、則ち今日、本大臣が諸君と国家須要の政務を論ずるに至るまでに進歩したるは亜細亜州中何れの国にありますか、斯の如く二十年来長足の進歩をなし来りたることは欧州各国の人民或は政府が世界無比の国であると驚嘆をして居るが、我々は未だ之に満足せず、尚ほ今日に幾倍するの改革及進歩をなさんとするの気象あるは吾れ人と共に自負してあまりあることであらうと思ひます、是れ偏に今上皇帝陛下が夙に国是を定められ、先輩諸氏が之を輔翼し奉ったると、我忠愛なる四千万同胞が国是大計に従ひ拮据勉励致して今日の開化を致した結果ではありませぬか、以上言ふ所は本大臣が空論を誇張して諸君を眩惑するのではありませぬ、即ち諸君、之を事実に徴せられたれば、其事実を誣ひざることは御分りになるだらうと思ひます、さて前にも申しました所の先日より本日の議事日程に登って居る所の議案並に是と同一の精神を以て居る所の二つの議案は其提出者は無論に多少の杞憂を抱かれ、所謂愛国の至情より之を発せられたるものたることは疑を容れぬ、然れども不幸にして右の議案並に之に関係する議案の精神は上来述ぶる所の維新依頼の国是に反対するものであります(「誤解々々」と呼ふ者あり)委しく言はば進んで取るの精神にあらずして、寧ろ退いて守るの気象を顕はすものである、(鈴木万次郎君「それは内閣だ」と呼ふ)斯の如く自ら屈し自ら退くの気象を一と度人民に伝染しまするときは内外国民の心想を紊し、二十有余年組織し来ったる所の進歩の気象を沮喪せんとすることを恐るるのである、茲に本大臣は今区々条目に就いて其得失を論ずるにあらずして、大体上斯の如き議案が本院の議場に提出されたことを哀しむものである、条約励行と云ふ、無論に政府は従来条約に違背したるものを等閑に付し去ったことはない、併ながら現今の条約と云ふものは諸君も御承知の通り多くは安政年間より慶応年間に至るまでに締結され、又御維新の初めに外交の道未だ今日の如く進歩せざる間に締結されたものが多いのである、故に僅に墨斯哥の条約を除くの外は一も完全のものはない、真に我国今日進歩の程度に適応せざるものである、さりながら其現行条約にして未だ実行の効力を失はざる間は外交上諸般の取扱は之に依って――遵行せざるを得ぬは無論のことである、唯前にも言ふ通り之を締結したる時代と今日とに於ては内外の時勢大に変換し、又我邦の進歩は著しく変換したるが故に、明に条約の条文に違背せざる限は弛張操縦其宜しきを得て、内外臣民の利便を図るが外交上必要の得策と信ずるのである、茲に我邦開港依頼今日に至るまで外交上の進歩の歴史を簡単に説きますことも亦無用の業でないと思ふ、安政年間より王政復古に至りまするまでの間は幕府は内外の事情に迫られて、其外交手段として用ひたる所のものは外人遮断を以て目的としたるものの如し、成丈外国に近かず外国人に触れないと云ふ手段を取ったゆえに、国権の彼に移るに論なく、国利の彼に占めらるるに論なく、苟も外人と相触れ相近かざるの道があれば之を採用することに怠らなかった、彼の居留地制度の如き、遊歩規程の如き、無条約国人民の取扱の如きは此例であります、維新の初めに於ては外交上別に言ふべきなし、明治五六年の頃、即ち岩倉大使が欧州より帰朝されたる前後より政府は既に失ひたる権利を回復せんとし、又条約以外に従来放棄して居った権利を確めんとすることに就いては孜々汲々として務めたのである、其数例を此処に挙げることが必要であります、即ち此無条約国人の取扱である、幕府の時代には例の外国人遮断主義に依って成丈近けない様に人任せにすることが多い、故に無条約国人民を裁判管轄するには外国領事の干渉を許した取極めがある、然るに明治六年より政府は断然無条約国民を裁判管轄することを以て、我が主権の下に属したのであります、又幕府の頃より横浜を始め各居留地には外国人を以て組織したる取締役若くは委員と云ふものがありて、各居留地を取締して居ったのであります、是は明治十年より大阪神戸の居留地を除く外総て我政府に於て之を取締る ことになったのであります、 一番甚しき例を此処に挙げますれば幕府の時代には彼の鎖国攘夷の徒が甚だ盛なるがために、其横行の結果として英仏両政府より横浜に若干の兵隊を上げて置いて、幕府は国費を以て此兵隊の居る兵営並に之に付属する病院を維持せねばならぬと云ふまでに屈辱を受けたのである、維新後政府は数回の照会を重ね遂に此兵隊を撤去することになったのであります、其他尚数例を挙げますが余り長く言ふ必要がないと思ふ、それで外国人犯罪人引渡しのこと若くは領事裁判を施行することを怠った国に対して、我が裁判権を適用することに関し、若くは外国人狩猟のこと等に関して我政府が国権を伸張したるの例は甚だ少なからないのであります、而して外国交際のことは其寛猛彼我共に均一ならんければならぬものである、故に政府は旧幕府の彼の外人の遮断主義を変じて開国主義となしました以上には、其結果として多少外国人に自由を与へるの必要が生じたのであります、即ち夫の病気保養若くは学術研究等のために我政府より旅券を渡して外国人に内地旅行を許すと云ふやうな自由が是であります、此外国人に内地旅行を許すに就いては無論外国人は多少の便利を得たに違ひないが、是がために我国民は何等の損害を生じたとも思はれませぬ、昨年中内地を旅行した所の外国人の数は凡そ九千人である、而して確な統計は無論此に得ませぬが、其筋に巧者なる人より聞くに、其外国人一人前が凡そ五百円ばかりの旅費若くは小遣を使ふだらうと云ふことであります、然らば殆ど四五百万円の金額は我国中の労働者若くは製造者を知らず識らずの間に富まして居ると云ふことであります、そこで先づ夫等のことは措いて条約を励行すると云ふ一事に就いて若し此条約を我に於て励行するとすれば、彼に於て励行するの虞なきを期せられませぬ、所が此に重要なる問題は日墨日清を除くの外は我国の条約は所謂一方に偏したる条約であります、一方に偏する条約と云ふものは彼国人にして我国に在留する者のためには条約上許多の権利を確められて居るに拘らず、我国人の彼国に在留する者に就いては条約上殆ど何等の権利も確められて居らぬと云っても宜しい、若し彼我共に条約を励行したる暁には我国民の損害する所――損失する所のものは彼国民の損失する所よりも大なることを恐れるのであります、況や此条約励行と云ふことの精神を追究すれば到底近日世間に唱道する所の非内地雑居とか、少くも旧幕時代の外人遮断主義に外ならぬのである、(「無礼なことを言ふな」と呼ふ者あり)到底維新以来国家の大計国是の基礎たる開国主義と反対するものである(「然らず然らず」と呼ふ者あり)(「汝が反対するのだ」と呼ふ者あり)(「汝の如きは其目的を異にするから外国人が蔑視するのだ」と呼ふ者あり)故に条約励行と云ふことを以て所謂国利民福を計ることになれば本大臣は却て反対の結果を生ずることを恐れる、然るに――もう少し御聴き下さい、然るに条約励行と云ふことを以て一の手段とし、例の条約改正を促さんとするの希望を懐く人がある(「有る々々」「大有りだ」と呼ふ者あり)(清水文二郎君「しっかり言へ、分らない」と呼ふ)是等の冀望を懐く人は以為らく、条約励行をするならば外国人に沢山の不自由を与へるであらう、外国人に沢山の不自由を与へたならば其結果として彼より条約改正を促し来るであらうと想像するのであります、本大臣の考に於ては此現行条約なるものは前にも言った通り一方に偏する条約であるものを、矢鱈千万に励行をした時に外国人に何程の不自由を感ずると云ふことを知らないのである、又多少の不自由を感ずることがあるとしても、それがために外国政府より条約改正を促し来るなどと云ふ想像は付かぬのである(此時早川龍介君「一寸……事外交に渉りますが余り公会も如何と思ふ」と述ふ「否々」と呼ふ者あり「大公会」と呼ふ者あり)(笑声起る)条約改正の目的を達せんとするには畢竟我国の進歩、我国の開化が真に亜細亜州中の特例なる文明強力なる国であると云ふ実証を外国に知らしむるに在り、是が条約改正を達する大目的であります、而して右等の実証は今日迄幾分か知らしめたと云ふことは先程より述ぶる所の我政府が従来執来ったる所の開国主義を実際に行ふたる結果であります、条約改正の目的、否な外交上の目的は第四回の議会に於て総理大臣が宣言しました通り、凡そ国として受くべき権利を受け、凡そ国として尽すべき義務を完うすると云ふにあります、是が実際より言へば則ち此日本帝国が亜細亜州中にありながら欧米各国より一種特別なる待遇を受けむと云ふ趣意である、既に外よりして一種特別なる待遇を受けむとするものは内にあっても一種特別なる政略を行ひ、其人民も一種特別なる気象を現はさなければならぬのである、故に今日の外交の要務は自尊自重何人をも侮らず、何人をも怖れず(「然り」と呼ふ者あり)彼此互に相当の尊敬を尽して文明強国の侶伴に入らんとするのである(「其通り」「それに外ならぬ」と呼ふ者あり)諸君、近来の歴史、近来欧州及亜細亜に関する歴史を御覧なさい、或一国が外交のことに関し其国の安危存亡の関る場合に於て、其人民中内心実に小胆臆病外国人を畏懼しながら外には傲慢の意志を現はし、区区小事に就いて外国人を軽侮するの形跡を存し、而して一朝事あるに当っては逡巡して自立することが出来ない(「逡巡したる者は誰か」「政府自らだ」と呼ふ者あり)何でも宜しいまあ御聴きなさい、もうさう長くは申しませぬ(鈴木万次郎君「一朝事あるに当って逡巡したのは今の政府ではないか」と呼ふ)即ち一朝事あるに当って逡巡して自立する能はず(「夫子自らだ」と呼ふ者あり)大に外交上の葛藤を生じ、一敗地に塗れて国辱を貽し、国運を縮めたる例は鮮なからぬ(「政府自らなり」と呼ふ者あり)(「今の政府常に然り」と呼ふ者あり)然るに此外交の政略と云ふものは多くは其時代の国民の気象に応ずるものである、曩にも申す通り幕府は鎖国攘夷と云ふ気風に感染せられ、為めに其外交政略は事々物々外国人を遮断する主義に外ならなかったのであります、故に耐忍力あり、進取の気象ある人民を有する国にあらずんば且つ大なる外交政略を執ることは出来ないのである、偖て最早大抵申尽し余り長く時を取らぬを必要と思ひます、茲に最後に本大臣は政府を代表して言ふ、到底彼の条約励行若くは其他之に付随する所の議案は、維新以来の国是に反対し、政府は此国是を阻格するものに対しては之れを排斥するの責任あるが故に、苟も斯の如き議案の議場に提出せらるるに当っては、之を論駁することに於て寸毫も仮借せぬのであります、故に茲に政府が外交上の方針を宣べて以て諸君の反省を求むるのである

陸奥宗光外相の演説後、直ちに第一の日程である「現行条約励行建議案」の審議に入ったが、提出者の安部井磐根が提出理由の説明に入ったところで、この日から翌1894年(明治27年)1月11日までの14日間帝国議会の停会を命ずる旨の詔書が朗読され、そのまま衆議院本会議は散会となった[11]

政府は、この翌日の12月30日に衆議院を解散し、第5回帝国議会は閉会した。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ なお、当時の外相は、陸奥宗光であった。陸奥宗光は、1888年(明治21年)、駐米公使兼駐メキシコ公使として、メキシコとの間に日本最初の平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功していた。

出典 編集

参考文献 編集

  • 岡, 義武『明治政治史(下)』岩波書店〈岩波文庫〉、2019年。ISBN 978-4-00-381262-4 

関連項目 編集