篠沢 恭助(しのざわ きょうすけ[1]1937年昭和12年)3月1日[2] - )は、日本官僚。元大蔵事務次官

来歴 編集

東京教育大学附属中学校・高等学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)、東京大学法学部第二類(公法コース)卒業後、大蔵省入省(為替局総務課)。

当時の事務次官候補の異動としては珍しく、大臣官房文書課長秘書課長地方支分部局の局長などを経ずに主計局総務課長から、いきなり同局の末席次長に抜擢された[注 1]。同期の千野忠男主計官補佐主査)、主計局総務課企画官、主計官、文書課長、近畿財務局長を経験していたが、他の同期より年齢が上で、主計局長→事務次官の順番待ちの最中に定年の壁に引っかかるため、篠沢を主計コースとし、千野を財務官となる国際金融コースへと変更した[3]。その後は大臣官房総務審議官理財局長。篠沢が理財局長時に千野が上記の定年の壁にぶつかり、1991年平成3年)6月に篠沢は大臣官房長となった[4][注 2]1993年(平成5年)6月に主計局長。1995年(平成7年)5月 大蔵事務次官に就任。斎藤次郎が任期を2ヶ月残して辞任した後を受けて事務次官に就任したが、中島義雄田谷廣明ら主計局幹部による過剰接待問題や、大和銀行ニューヨーク支店巨額損失事件における銀行局西村吉正局長)と国際金融局榊原英資局長)の米国側への通報が遅れた事で問題とされた件、住専国会を経て住専への公的資金投入など、これら一連の「大蔵スキャンダル」でマスコミや政界、国民などの大きな反発を受けていたため、歴代の大蔵事務次官では最短となる在任7ヶ月での辞任となった(但し、のちに小村武が事務次官在任6ヶ月で辞任した)。

1996年(平成8年)に退官し、その後1998年(平成10年)海外経済協力基金総裁、1999年(平成11年)国際協力銀行副総裁、2001年(平成13年)国際協力銀行総裁を歴任し、同総裁退任後、2008年(平成20年)から資本市場研究会理事長を務める。

亀井静香とは東大時代の同級生でツーカーの仲で有名とされていた[7]

略歴 編集

現在は、一般財団法人生涯学習開発財団評議員を務める[14]

入省同期 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 地方支部局の局長を未経験で主計局長→事務次官になったのは、2代前の事務次官である保田博以来だが、文書課長、秘書課長を未経験のまま、主計局総務課長のみで主計局長→事務次官になったのは、17代前の事務次官である相澤英之以来。
  2. ^ 理財局長から大臣官房長→主計局長→事務次官の前例は西垣昭のみであるが、21世紀に入ると、丹呉泰健が官邸から戻ってきた際に空きポストが無く、理財局長に就いており[5]、後任の勝栄二郎大臣官房総括審議官も丹呉の後を追う形で理財局長から大臣官房長に就いている[6]

出典 編集

  1. ^ a b c d 顧問就任に関するお知らせ システム・ロケーション株式会社 2008年4月16日
  2. ^ a b c I. 国際協力銀行の概要 国際協力銀行平成17年度業務報告書
  3. ^ 栗林良光『大蔵省権力人脈』講談社、1994年3月発行、84・85頁
  4. ^ 『月刊政治と経済 第21巻、第1~6号』政治と経済社、1995年発行、24頁
  5. ^ 接待汚職事件から権力奪還にひた走った「沈黙の軍隊」財務省 DIAMOND online 2018年4月11日 横田由美子
  6. ^ 現代 第9~10号』講談社、2007年発行、209頁
  7. ^ 『月刊官界 第21巻』1995年発行、110頁
  8. ^ https://www.ide.go.jp/library/Japanese/Info/Memorial50/Ayumi/pdf/30_07ob.pdf
  9. ^ 『職員録 第1部』大蔵省印刷局、1971年発行、476頁
  10. ^ 『職員録 第1部』大蔵省印刷局、1975年発行、489頁
  11. ^ 『月刊官界 第12巻、第5~8号』1976年発行、44頁
  12. ^ 『月刊官界 第9~12号』1988年9〜12月発行、43頁
  13. ^ 『官報』号外第151号、2019年11月3日
  14. ^ 平成28年度 一般財団法人 生涯学習開発財団 役員名簿

関連項目 編集