篠脇城(しのわきじょう)は、岐阜県郡上市大和町にかつて存在した日本の城山城)。現在は岐阜県指定史跡になっている[1]

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篠脇城
岐阜県
篠脇城本丸
篠脇城本丸
別名 郡上城
城郭構造 山城
築城主 東氏村
築城年 鎌倉時代末期(1310年頃)
主な城主 東氏
廃城年 天正14年(1541年
遺構 曲輪土塁、碑
指定文化財 岐阜県指定史跡
再建造物 なし
位置 北緯35度48分15.45秒 東経136度55分29.02秒 / 北緯35.8042917度 東経136.9247278度 / 35.8042917; 136.9247278
地図
篠脇城の位置(岐阜県内)
篠脇城
篠脇城

概要編集

この地域一帯を支配していた東氏が8代・約230年間にわたって居城とした。栗巣川左岸の標高約523メートルの篠脇山山頂にあり、北は牛道郷(現・郡上市白鳥町)、北東は寒水(現・同市明宝)、東は小駄良(現・同市八幡町)にそれぞれ通じ、西方2キロメートル弱に長良川がある要衝だった。北側の麓には東氏館跡庭園がある。

歴史編集

『大和村史』によれば初代・東胤行の晩年に築城が始まり、14世紀前半の四代・東氏村のとき本格的に城が完成して移住したとされる。1468年応仁2年)には斎藤妙椿に攻められて落城したが、関東に在陣していた東常縁がこれを伝え聞いて詠んだ歌が妙椿に伝わり、贈歌10首と引換えに城を返還した、と『鎌倉大草紙』にはある。1471年文明3年)から1477年(文明9年)にかけて、宗祇が篠脇城に常縁を訪ねて古今伝授を受けている。

1540年天文9年)に越前国から朝倉氏が来攻したが、城主・東常慶の指揮の下、放射状竪から巨石を投下し、撃退したといわれている。しかし、これによって[要出典]城自体の破損が著しく、翌1541年に朝倉氏の再来攻の際は、油坂峠で迎撃している。常慶は篠脇城を修復せず、同年に八幡(現・八幡町)の赤谷山に築城して移転し、篠脇城は廃城となった。

後に遠藤氏が東氏の後を継ぎ、郡上八幡城を本拠としている。

構造編集

年不詳の『篠脇城跡略図』によると、麓の東西に土井(土居)、中央に門口、東方に矢場、西方には馬場があったとされる。土井囲の中には東氏の館があった。現在は山麓の登り口に表門跡とされる礎石がある。山頂の三段の平地のうち最上段が本丸跡と推定される。城郭を囲む放射線状の30本余の竪堀がこの城の特徴で、の目堀ともよばれる。ほとんどは現状の深さ2-3メートル、底幅2メートル、長さ10-40メートルで、その内2本が山麓まで達する。前述のとおり、この防御施設によって朝倉氏の来攻を撃退している。二の丸の西北に湧水があり、城の飲料水だったと考えられる。

現地情報編集

所在地編集

交通アクセス(登城口)編集

鉄道

脚注編集

  1. ^ 篠脇城跡”. 岐阜県. 2019年9月12日閲覧。

関連項目編集

参考文献編集