米谷 常秀(まいや つねひで) は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将葛西氏の家臣。陸奥国米谷城主。

 
米谷常秀
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文4年(1535年
死没 天正19年(1591年
別名 亀卦川常秀
官位 右馬助左馬允
主君 葛西晴胤親信晴信
氏族 米谷氏
父母 父:米谷常時
兄弟 常秀常忠常久
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略歴 編集

米谷氏下総国千葉氏の一族。鎌倉時代に陸奥に移住した一族の一つである亀卦川氏の分流に当たる。

天文4年(1535年)、米谷常時の子として誕生。常秀は嫡流である亀卦川氏と共に葛西氏の有力被官となって活躍した。

主君・葛西晴信天正18年(1590年)に豊臣秀吉による奥州仕置で所領を没収され、常秀も没落する。その後、新領主として入封してきた木村吉清清久父子が領内において苛政を行ったため、常秀ら葛西旧臣は葛西氏と同じく改易された大崎氏の旧臣らと共に領民を煽動して一揆を起こす(葛西大崎一揆)。しかし、一揆は木村父子の救援を命じられた蒲生氏郷伊達政宗らによって鎮圧される。その後、常秀は桃生郡深谷で伊達政宗配下によって、弟・常忠ら米谷一族や同じく葛西旧臣の武鑓重信らと共に謀殺されたという。

出典 編集