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他の紀年法編集

できごと編集

地域別編集

共和政ローマ編集

  • カルタゴの将軍ハンニバルがイタリア半島を南に進軍し、オファント川沿いのカンナエにある大規模な兵站所を包囲した。
  • 8月2日 - カンナエの戦いが終結する。ハンニバル率いる40000名のカルタゴ軍が、ルキウス・アエミリウス・パウルスガイウス・テレンティウス・ウァロ両執政官の率いる70000名のローマ軍を破り、勝利した。パウルスはこの戦いにおいて戦死した。
  • この勝利の後、ハンニバルは各地で征服を続け、その結果として多くの地域はローマから離反し始めた。アプリアおよびブルッティウムにおいて、ハンニバルは多くの支援者を得た。
  • ローマを攻略するために必要な投石機や破城槌が不足していたため、ハンニバルはローマ周辺の農地を荒廃させることに焦点を置き、ローマ人たちに穀物を高値で輸入する事を強いた。
  • カンナエでの敗戦後、ローマの将軍マルケッルスはカノーザにおいてローマ軍の敗残兵の指揮権を握り、ノーラ市およびカンパーニャをハンニバルによる占領から解放した。
  • カプア市はハンニバル側に乗り換えたため、カルタゴ軍は同市で越冬した。
  • ローマの歴史家のクィントゥス・ファビウス・ピクトルは、カンナエでの敗戦の後にローマはどうするべきか助言を得るためにギリシアのデルポイの巫女のもとに送られた。

ギリシア編集

  • マケドニアのピリッポス5世イリュリアの政治へのローマの介入に対して未だに憤りを感じており、機に乗じてイリュリアを侵略した。そして、ピリッポス5世はイタリアに本拠を構えるハンニバルに外交官を送った。これらの出来事はローマとマケドニア間における第1次マケドニア戦争の幕開けであった。

エジプト編集

誕生編集

死去編集

  • パウルス、ローマの執政官および将軍(カンナエの戦いで落命)。

脚注編集

注釈

出典

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関連項目編集