紀元前263年
年
紀元前263年(きげんぜん263ねん)は、ローマ暦の年である。
世紀 | 前4世紀 - 前3世紀 - 前2世紀 |
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十年紀 |
前280年代 前270年代 前260年代 前250年代 前240年代 |
年 |
前266年 前265年 前264年 紀元前263年 前262年 前261年 前260年 |
当時は、「マニウス・オタキリウス・クラッススとマニウス・ウァレリウス・マクシムスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元491年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前263年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
編集できごと
編集共和政ローマ
編集- マニウス・ウァレリウス・マクシムスの指揮する共和政ローマは、シラクサのヒエロン2世との協定を保証した。ローマとのこの条約により、ヒエロン2世の王国はシチリア南東部とタオルミーナまでのシチリア東部に制限された。この時から死去するまで、ヒエロン2世はローマに忠誠を保った。
- 共和政ローマは、アドラーノを占領した。
ギリシア
編集- エピロス王アレクサンドロス2世は、マケドニアを攻め、その大部分を征服した。しかし、彼はマケドニア王アンティゴノス2世の息子のデメトリオス2世によって、マケドニアとエピロスから追放された。
- アテナイとスパルタは数年間に及ぶ戦争で消耗し、領土は荒廃し、アンティゴノス2世のギリシアでの支配を認めて和平を結んだ。
- アテナイのストア派の学校で、クレアンテスがゼノンの後を継いだ。
小アジア
編集中国
編集誕生
編集→「Category:紀元前263年生」も参照
死去
編集→「Category:紀元前263年没」も参照
脚注
編集注釈
出典