紀元前327年
年
紀元前327年(きげんぜん327ねん)は、ローマ暦の年である。
世紀 | 前5世紀 - 前4世紀 - 前3世紀 |
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十年紀 |
前340年代 前330年代 前320年代 前310年代 前300年代 |
年 |
前330年 前329年 前328年 紀元前327年 前326年 前325年 前324年 |
当時は、「プロスルスとスカプラが共和政ローマ執政官に就任した年」ないし「レントゥルスとフィロが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元427年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前327年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
編集できごと
編集マケドニア帝国
編集- アレクサンドロス3世(大王)が、北部インドへ侵攻した。再度ヒンドゥークシュ山脈を越えるところで、大王は軍を二手に分けた。軍勢の半分と輜重隊は、いずれも騎兵指揮官であったヘパイスティオンとペルディッカスに委ねられ、カイバル峠を進み、残りの半分は、攻城戦の装備を伴い、大王自らが率いて、山々を越えて北進した。大王軍はスワート (Swat) 地方やガンダーラを通って進んだが、その際に、インダス川から数キロ西にあった難攻不落のアオルノス (Aornos) 砦の攻略が行なわれた。
- 大王とアリストテレスの関係は、アリストテレスの甥で歴史家であったオリュントスのカリステネス (Callisthenes of Olynthus) が反逆罪で処刑されたことを契機に悪化した。カリステネスは、遠征の年代記を記すために大王に同行していた。
共和政ローマ
編集- サムニウムの軍勢が、ネアポリス(現在のナポリ)を占領した。しかし、ローマ軍は、サムニウム勢がタレントゥム(現在のターラント)に手こずっている間に南進し、ネアポリスを奪還し、長い攻城戦の末にサムニウムの守備隊を排除してネアポリスをローマの同盟者とした。
中国
編集誕生
編集→「Category:紀元前327年生」も参照
- ヘラクレス (Heracles) - アレクサンドロス3世の庶子。母は、フリギア太守アルタバゾス2世 (Artabazos II of Phrygia) の娘バルシネで、後にマケドニアの王位を請求する。(紀元前309年没)
死去
編集→「Category:紀元前327年没」も参照
脚注
編集注釈
出典