紀元前575年(きげんぜん575ねん)は、西暦ローマ暦)による年。紀元前1世紀共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元179年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前575年と表記されるのが一般的となった。

世紀 前7世紀 - 前6世紀 - 前5世紀
十年紀 前590年代 前580年代
前570年代
前560年代 前550年代
前578年 前577年 前576年
紀元前575年
前574年 前573年 前572年

他の紀年法 編集

できごと 編集

中国 編集

  • が講和し、武城で盟を交わした。
  • 鄭の子罕(公子喜)が軍を率いてに侵入した。宋の将鉏・楽灈が汋陵で鄭軍を撃破した。
  • が鄭に侵攻し、鳴雁に達した。
  • 鄢陵の戦い軍が楚と鄭の連合軍を鄢陵で撃破した。
  • 楚の子反(公子側)が敗戦の罪を問われて自殺した。
  • 晋の厲公霊公成公・衛の献公・宋の華元らが沙随で会合した。
  • 晋・斉・魯などの連合軍が鄭を攻撃した。晋の荀罃が別軍を率いてに侵入して鳴鹿に達し、さらにに侵入した。潁上にいた諸侯の軍は鄭の子罕の夜襲を受けて混乱した。
  • 晋によって成周に抑留されていた成公が帰国した。
  • 魯の叔孫僑如季孫行父を捕殺するよう晋の郤犨に要請したため、晋は苕丘で季孫行父を捕らえた。成公が叔嬰斉(子叔声伯)を派遣して季孫行父の釈放を求めると、季孫行父は解放された。
  • 魯の叔孫僑如が斉に亡命した。
  • 晋の郤犨と魯の季孫行父が扈で盟を結んだ。

誕生 編集

死去 編集

脚注 編集