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紅嫌い(べにぎらい)とは、江戸時代天明末期から寛政期に流行した浮世絵の一種。紅色などの派手な色は敢えて使用せず、、淡墨、鼠(ねず)を基調として、黄色を僅かに加えた多色刷りを指す。特に、紫を主調としたものを紫絵といった。よって、紫絵は厳密に言えば紅嫌いの一種であるが、一般には両者を同義で用いる。

来歴と特色編集

紅嫌いは、浮世絵版画が歴史的により多く華やかな色彩を使うことを指向する中にあって、特異な趣向といえる。しかし、紅嫌いの手法そのものは水墨画やまと絵などの伝統的な技法により、紅嫌いの目新しさは、こうした伝統的な墨技を当世の美人風俗画に生かしたことによる。肉筆浮世絵にも見られ、版画の成果が肉筆画にも生かされたとする解説がしばしば見られるが、現存作品の検討から肉筆画の方が版画より先行する。鳥文斎栄之が創始したともいわれるが、現存最古の遺品は、天明5年(1785年)の酒井抱一「松風村雨図」(細見美術館蔵)であり、抱一は諸派の絵画を学んだ趣味人で、浮世絵師たちとの交流も活発であることから、抱一こそ紅嫌いの発案者として相応しいとする意見もある[1]。栄之のほか、勝川春潮窪俊満らも紅嫌いを得意とした。

紅嫌いが誕生した背景については、寛政の改革奢侈禁止令によって浮世絵が贅沢品として取り締まられたため、規制を回避するために制作されたとする説と、絵師や版元の工夫や趣向の結果生まれたとする2説がある。しかし、前者については、寛政の改革中には浮世絵の規制は時事問題などを直ぐに浮世絵に仕立てることや、いかがわしい品を板行する事は禁止したが、色数を制限するほど厳しいお触れは出されていない。更に松平定信の『宇下人言』には、紅嫌いが天明7年の定信の老中就任以前に板行されたと記し、紅嫌い絵は子供の玩具であった漆絵が発達した一様式で、絵師たちの新たな作意によって生まれた贅沢品と捉えていることから、後者のほうが妥当だと考えられる[2]

紅嫌いは渋く地味な色彩により、その上品で典雅な雅趣が当時の趣味人に好まれた。しかし、これが板行され一般に出まわるようになると、最初は目新しさにとびついた庶民も、そのうちに飽きられ廃れていった。窪俊満「六玉川」や勝川春潮「あふきや内たき川」は、初刷では紅嫌いだった作品を後刷りでは多色刷りに修正しており、こうした処置は大衆の好みに合わせた結果だと考えられる。

作品編集

鳥文斎栄之
  • 「風流やつし源氏」 大判錦絵各3枚続が10種ほど 東京国立博物館所蔵 
  • 「風流七小町」 大判7枚揃 東京国立博物館ほか所蔵
窪俊満
勝川春潮
  • 「秀句合四季之花」 中判4枚揃 東京国立博物館ほか所蔵
  • 「五節遊」 中判5枚揃 東京国立博物館ほか所蔵
  • 「江都八景」 中判8枚揃 シカゴ美術館ほか所蔵
  • 「あふきや内たき川」 大判 ウィーン国立工芸美術館所蔵

脚注編集

  1. ^ 松原茂 「"紅嫌い"の発生とその背景」『MUSEUM』第408号、1985年3月。
  2. ^ 松原茂 「"紅嫌い"と寛政の改革」『MUSEUM』第358号、1981年1月。

参考図書編集