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細川 持隆(ほそかわ もちたか)は、戦国時代武将細川之持の子。阿波国守護細川阿波守護家9代当主。細川晴元は従弟にあたる。

 
細川持隆
時代 戦国時代
生誕 明応6年(1497年)または永正13年(1516年)頃
死没 天文22年6月17日1553年7月27日
別名 持重
官位 讃岐守
幕府 室町幕府 阿波守護
主君 細川晴元
氏族 細川阿波守護家
父母 父:細川之持(異説では細川澄元
兄弟 持隆久米義広
正室:大内義興
側室:岡本牧西娘・小少将
真之

目次

生涯編集

明応6年(1497年)、細川之持の子として誕生。永正9年(1512年)、父の死去により家督を継いで阿波守護となった。

細川高国と細川本家当主の座を奪い合っていた細川晴元(持隆の従兄弟)をよく補佐し、享禄4年(1531年)には軍を率いて和泉国に渡海し、高国の討伐戦(大物崩れ)で功績を挙げた。ところが、晴元が三好元長を攻めようとした時にこれに反対して晴元から離反して阿波に帰国してしまった[1]。その後、12代将軍足利義晴や阿波細川家から細川澄元に付けられていたことがある光勝院周適の仲裁で晴元と和解する一方で、足利将軍家の連枝である足利義維を阿波に迎え入れた。

天文8年(1539年)、赤松晴政(政村)の要請を受けて備中国に出陣し、出雲国尼子晴久(詮久)と戦ったが、このときは敗れた。

天文18年(1549年)、晴元が三好長慶に敗れて没落した後、天文22年(1553年)に長慶の弟・三好実休によって見性寺において殺された(勝瑞事件)。享年57(後述の異説によれば、37もしくは38)。

勝瑞事件の原因として三好長慶に対抗するため足利義栄(義維の子)を擁して上洛を謀ったが実休に漏れたとする説、阿波国内での実休の力の増大に脅威を感じて暗殺を謀ったのが実休に漏れたとする説、細川晴元の再起を持隆が支援しているのが実休に漏れたとする説があるが、晴元と長慶の戦いの最中に積極的な行動を起こさずに三好氏に好意的とも言える立場を採った持隆が突然長慶・実休と対立するに至った背景には不明な点が多い[2]

異説編集

近年、馬部隆弘が若松和三郎による細川之持の天文年間病死説を否定する過程で、『細川両家記』享禄5年3月3日条に讃州(持隆)を晴元の御舎弟と記していること、『細川高国晴元争闘記』という史料に持隆が享禄4年(1531年)当時に15歳か16歳であるという記事[3]を見出し、持隆が永正13年(1516年)または同14年(1517年)生まれである可能性があり、その場合、持隆は永正9年に没した之持の子ではないことになると指摘した。同時に現行の『尊卑分脈』にも之持の子の記述がなく、之持と持隆を父子とするのは後世に編纂された系譜類のみであるとした。馬部は持隆は澄元の子で晴元の実弟が正しく、船岡山合戦後に澄元が暫く高国との戦いを控えた原因の一つとして之持の後継者問題が決まらず阿波から離れられなかったことにあると論じている[4]

脚注編集

  1. ^ 『二水記』天文元年3月13日条
  2. ^ 若松、2013年、P441-446
  3. ^ 「六郎君(細川晴元)高弟讃州府君、齢僅十五六、眉宇秀発、友愛之情、汎眉睫間、擁万騎、救兄於危難間」
  4. ^ 馬部、2018年、P215-239.

参考文献編集

  • 若松和三郎『阿波細川氏の研究』(2013年、戎光祥出版(原著は2000年私家版)) ISBN 978-4-86403-087-8
  • 馬部隆弘「細川澄元陣営の再編と上洛戦」(初出:『史敏』通巻14号(2016年)/所収:馬部『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02950-6

関連項目編集