細川 晴宣(ほそかわ はるのぶ)は、戦国時代武将畠山稙長の弟で、細川高国派の和泉国守護

 
細川 晴宣
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 不明
別名 五郎(通称[1]
幕府 室町幕府 和泉守護
氏族 畠山氏(尾州家)細川氏
父母 畠山尚順
兄弟 畠山稙長晴宣長経基信晴熙晴満?、政国徳大寺公胤室、日野内光室、細川氏綱[2]
女子(一色藤長の母)[3]
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生涯 編集

畠山尚順の子として生まれる[注釈 1]

永正4年(1507年)の細川政元暗殺以降、細川京兆家では家督をめぐって争いが起こり、和泉国では対立する細川高国派と細川澄元晴元派の守護がそれぞれ分立することとなった[4]

大永3年(1523年)に高国派の和泉守護である細川高基が病になると、晴宣は下守護とされる細川勝基とともにその跡を継ぐ[5]政長流畠山氏(尾州家)は晴宣の父・尚順の頃に和泉国内の寺社領に対し所領安堵を行うなどしており、晴宣の和泉守護就任も畠山氏と和泉国のその関わりが背後にあると考えられる[5][注釈 2]

大永4年(1524年)10月、晴宣は晴元派和泉守護の細川元常と和泉国大鳥郡菱木で合戦を行った[7]。この戦いで晴宣ら高国派は敗れ、香西元盛らは一時行方知れずになったという(『実隆公記』)[8]。しかし、晴元派に呼応して河内国で挙兵した畠山義堯をその香西元盛らが破ったことで晴元派は没落[9]。細川元常も阿波国に退いたとみられる[10]

大永6年(1526年)1月以降になると、晴宣は史料上姿が見えなくなり[11]、翌大永7年(1527年)2月の桂川の戦いで没落、または死亡した可能性が指摘される[12][注釈 3]

享禄4年(1531年)6月、細川高国敗死の際に和泉守護が討死している(大物崩れ[14][15]。一方の守護の勝基がこれ以後も活動していることから、この時死去した和泉守護は晴宣、もしくはその後継者の可能性があるとされる[16]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 「証如上人書札案」に「稙長弟」とある[1]
  2. ^ 畠山尚順については和泉守護として和泉支配を行っていたともいわれる[6]
  3. ^ 大永7年(1527年)10月には、細川氏綱が晴宣配下の和田氏に知行安堵の書状を送っているが、不在となった晴宣の代理を務めていたものと考えられる[13]

出典 編集

  1. ^ a b 岡田 2002, pp. 118–119; 森田 2006, p. 93.
  2. ^ 小谷利明 著「畠山稙長―細川氏綱擁立の仕掛け人」、天野忠幸 編『戦国武将列伝7 畿内編 上』戎光祥出版、2022年、298頁。ISBN 978-4-86403-446-3 
  3. ^ 両畠山系図」、塙保己一編『続群書類従 巻115-116』妻木頼徳写、1878年。
  4. ^ 岡田 2002, p. 113.
  5. ^ a b 岡田 2002, pp. 117–119.
  6. ^ 小谷利明 著「畠山稙長の動向」、矢田俊文 編『戦国期の権力と文書』高志書院、2004年、58頁。ISBN 4-906641-80-6 
  7. ^ 岡田 2002, p. 120; 岡田 2006, p. 110.
  8. ^ 岡田 2002, p. 120.
  9. ^ 岡田 2002, p. 121.
  10. ^ 岡田 2006, p. 110.
  11. ^ 岡田 2002, p. 122.
  12. ^ 馬部 2018, pp. 511, 668.
  13. ^ 馬部 2018, pp. 508–511.
  14. ^ 「東寺光明講過去帳」享禄4年6月5日、「二条寺主家記抜粋」享禄4年6月4日条 (岡田 2002, p. 122)。
  15. ^ 細川両家記』享禄4年6月条 (森田 2006, p. 88)。
  16. ^ 岡田 2002, pp. 121–122.

参考文献 編集

  • 岡田謙一「細川高国派の和泉守護について」『ヒストリア』第182号、2002年。 
  • 岡田謙一 著「細川澄元(晴元)派の和泉守護細川元常父子について」、小山靖憲 編『戦国期畿内の政治社会構造』和泉書院〈日本史研究叢刊16〉、2006年。ISBN 4-7576-0374-6 
  • 馬部隆弘『戦国期細川権力の研究』吉川弘文館、2018年。ISBN 978-4-642-02950-6 
  • 森田恭二 著「和泉守護代替り関連史料の再検討」、小山靖憲 編『戦国期畿内の政治社会構造』和泉書院〈日本史研究叢刊16〉、2006年。ISBN 4-7576-0374-6