細川立之

日本の江戸時代の大名

細川 立之(ほそかわ たつゆき)は、肥後宇土藩の第7代藩主。

 
細川 立之
時代 江戸時代後期
生誕 天明4年5月14日1784年7月1日
死没 文政元年6月18日1818年7月20日
改名 与松(幼名)→立之
戒名 泰崇院心渓義安
墓所 東京都品川区北品川の東海寺清光院
官位 従五位下、和泉
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
肥後宇土藩
氏族 細川氏
父母 父:細川立礼(斉茲)
母:八千姫(恵眼院、岩城隆恭の娘)
兄弟 立之斉詮斉樹、浜次郎、猪八郎
栄昌院土井利厚の娘)
立政(斉護)之寿(行芬)、娘(渡辺潔綱正室)、女子
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生涯 編集

天明4年(1784年)5月14日、第6代藩主・細川立礼(のちの細川斉茲)の長男として生まれる。天明7年(1787年)9月19日、父・立礼(改め斉茲)が宗家の熊本藩を継いだため、わずか4歳で宇土藩主となった。寛政11年(1799年)10月1日、将軍徳川家斉に拝謁する。同年12月18日、従五位下・和泉守叙任する。しかし藩政においては父の倹約財政政策と違って、新田開発検見法の採用、緊縮財政政策など、本家と違う財政政策を行なって成功を収めた。

父に先立って文政元年(1818年)6月18日に死去した。享年35。跡を長男の立政が継いだ。立政(のちの細川斉護)ものちに、熊本藩主を継いでいた立之の弟・斉樹の跡を継いだため、その跡は次男の之寿改め行芬が継承している。

系譜 編集

父母

正室

子女