細川立孝
日本の江戸時代前期の武将・僧。豊前小倉藩初代藩主細川忠興四男。従五位下中務大輔
細川 立孝(ほそかわ たつたか)は、江戸時代前期の武将。官位は従五位下・中務大輔。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 元和元年(1615年) |
死没 | 正保2年閏5月11日(1645年7月4日) |
改名 | 立充、細川立孝 |
墓所 | 泰雲寺 |
官位 | 従五位下・中務大輔 |
藩 | 肥後熊本藩 |
氏族 | 肥後細川氏 |
父母 | 父:細川忠興、母:清田鎮乗娘幾知 |
兄弟 | 長、忠隆、興秋、古保、忠利、多羅、万、立孝、興孝、松井寄之 |
妻 |
正室:五条為適娘鶴 側室:慈広院(布施野氏)、斎藤氏 |
子 | 行孝、亀松、大炊御門経光正室 |
生涯
編集細川忠興の四男(庶子)として誕生した。はじめ僧籍に入り、立充(りゅういん)と名乗った。
晩年の父忠興に溺愛され、兄忠利が熊本藩に移封されると、寛永9年12月(1633年)に隠居の父忠興と共に八代城に入城した。忠興は北の丸に、立孝は本丸に住した。また、還俗して立孝(たつたか、「孝」は祖父・藤孝の1字)と名乗る。寛永11年12月(1635年)、五条為適の娘・鶴と八代にて婚儀を執り行う。寛永15年(1638年)1月4日に島原の乱に出陣する。寛永16年(1639年)、将軍に拝謁後、還俗した。忠興は自分の隠居料の八代7万石を立孝に与えようとしていたが、正保2年(1645年)に江戸表で没し、同年に後を追うように忠興も没した。翌年、遺児・宮松(行孝)を宇土に移し、立孝の内分領の宇土3万石が与えられ、宇土藩が立藩した。
兄の忠利の子孫である肥後細川家の嫡流は細川治年で途絶え、立孝の子孫が宇土藩から熊本藩に入って本家を継いだため、熊本藩9代藩主細川斉茲から現在の当主細川護熙(元首相)までの歴代当主は立孝の子孫である。