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細川 藤賢(ほそかわ ふじかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。兄は細川京兆家(宗家)当主となった氏綱。子に元賢(もとかた)。摂津中嶋城主。初名は和匡。仮名は四郎。

 
細川藤賢
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正14年(1517年
死没 天正18年7月23日1590年8月22日
改名 和匡→藤賢
別名 仮名:四郎
官位 右馬頭
幕府 室町幕府
主君 足利義輝義昭織田信長豊臣秀吉
氏族 細川氏典厩家
父母 父:細川尹賢
兄弟 氏綱藤賢、勝国
元賢

氏綱の4歳下の弟で、当初は尹賢の弟の家系とされる駿州家を継ぐ予定であったが、兄の氏綱が細川高国の養子になったために典厩家の後継となり和匡と名乗った(駿州家は異母弟とみられる細川勝国が継いだ)。ただし、高国に実子が生まれれば氏綱(初名は清)が典厩家を継ぐ可能性も残されていたため、名実と共に典厩家を継ぐことになったのは高国・尹賢が討たれた大物崩れの後と考えられている[1]

室町幕府第13代将軍・足利義藤(後の足利義輝)に仕え、その偏諱を受けて藤賢と改名する。

永禄8年(1565年)、義輝が三好三人衆暗殺されると(永禄の変)、松永久秀に降伏。その後、義輝の弟の足利義昭織田信長に擁立されて15代将軍となると、京都に戻り義昭に仕えた。京都に義昭の居城・二条城を作る際は藤賢の屋敷の庭にあった「藤戸石」という名石が使われた。この石を運ぶ作業の指揮は信長自らが行った。

天正元年(1573年)に義昭が信長への兵を挙げようとした際にはこれを諌めた。しかし、聞き入れられずに義昭が挙兵すると藤賢も従う。その後は織田軍に城を包囲され、降伏。義昭は京都より追放されたが、藤賢は信長に許されて、近江坂本城を任された。天正9年(1581年)の京都御馬揃えにも旧公方衆として参加しており、中国地方に落ち延びた義昭とは行動を共にしなかった模様。

天正18年(1590年)、京都にて74歳で死去した。

脚注編集

  1. ^ 馬部隆弘「細川晴国・氏綱の出自と関係-「長府細川系図」の史料批判を兼ねて-」(初出:天野忠幸 他編『戦国・織豊期の西国社会』(日本史史料研究会、2012年)/所収:馬部『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02950-6) 2018年、P513-515.

関連項目編集