結城 満広(ゆうき みつひろ)は、室町時代中期の武士下総結城氏第10代当主[1]通称は七郎、官職中務大輔[2]

 
結城 満広
時代 室町時代中期
生誕 天授6年/康暦2年(1380年
死没 応永23年3月9日1416年4月6日
別名 七郎
戒名 雲叟聖竜
官位 中務大輔
幕府 室町幕府
主君 足利満兼持氏
氏族 藤原秀郷結城氏
父母 父:結城基光、母:小山氏政の娘
兄弟 満広小山泰朝
満義(光義)?
特記
事項
家督は、満広の弟・泰朝の子・氏朝猶子として結城氏を継いでいる
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生涯 編集

天授6年/康暦2年(1380年)、第9代当主・結城基光の子として誕生した[2]。母は小山氏政の娘[2]

父と同様に鎌倉公方に臣従した。父にならって、2代公方・足利氏満偏諱を受け満広[注 1]と名乗り、親子ともに重用された[要出典]。詳しい時期は不明だが、父から家督を譲られて10代目の当主となっている。氏満亡き後も3代満兼、4代持氏に臣従した[要出典]

応永23年(1416年)3月9日あるいは4月9日、父に先立って死去した[1][2]。37歳[1]

「結城系図」[注 2]には「院号紛失」とあり、「後年瑞光院殿、法名聖竜道号雲叟」としている[1][4]下妻市光明寺所蔵の「結城系図」では「道号雲叟聖竜」と記されている[2][5]

家督は、満広の弟で、小山氏を継いだ小山泰朝の子・氏朝猶子として継承した[1]

多賀谷満義について 編集

「多賀谷系図」では、満広の子・満義(光義)が多賀谷政朝の娘を娶り、その間に生まれたのが、祥賀[注 3]と祥英(または祥永)[注 4]の兄弟としているが、このことは他の史料によって裏づけられていない[6][7]。また、満義(光義)という人物の存在自体、検討を要する[6]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 「広」は鎌倉時代の当主が代々使用していた字。
  2. ^ 東京大学史料編纂所架蔵謄写本。原本は松平基則氏旧蔵[3]
  3. ^ 多賀谷氏家?
  4. ^ 多賀谷高経(朝経)?

出典 編集

参考文献 編集

  • 結城市史編さん委員会 編『結城市史』 第一巻《古代中世史料編》、結城市、1977年3月30日。NDLJP:9641592 (要登録)
  • 結城市史編さん委員会 編『結城市史』 第四巻《古代中世通史編》、結城市、1980年10月30日。NDLJP:9642041 (要登録)
  • 関城町史編さん委員会 編『関城町史』 上巻《通史編》、関城町、1987年3月31日。NDLJP:9644036 (要登録)

外部リンク 編集