総統地下壕
総統地下壕(そうとうちかごう、独: Führerbunker)は、ドイツのベルリンにあった総統官邸の地下壕を指す。
総統地下壕 | |
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Führerbunker | |
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概要 | |
自治体 | ベルリン |
国 |
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座標 | 北緯52度30分45秒 東経13度22分53秒 / 北緯52.5125度 東経13.3815度座標: 北緯52度30分45秒 東経13度22分53秒 / 北緯52.5125度 東経13.3815度 |
着工 | 1943年 |
完成 | 1944年10月23日 |
倒壊 | 1947年12月5日 |
建設費 | 135億ライヒスマルク |
所有者 | ナチス・ドイツ |
設計・建設 | |
建築家 | アルベルト・シュペーア, Karl Piepenburg |
建設者 | Hochtief AG |

概要編集
1935年、総統アドルフ・ヒトラーは総統官邸の中庭に地下壕を設置させた。当時は主要施設に地下壕を設けるのは特別なことではなかった。戦況の悪化を受けて、1943年に防御機能を高めた地下壕が新たに建造された。二つの地下壕は階段で接続されており、約30の部屋に仕切られていた。新造部分は「Führerbunker」(フューラーブンカー、総統地下壕)と呼ばれ、旧造部分は「Vorbunker」(フォアブンカー、旧地下壕。字義通りに解釈すれば、総統地下壕の手前に位置する地下壕)と呼ばれた。
地下壕は総統大本営としての役割を果たしており、国防軍最高司令部や陸軍総司令部・空軍総司令部といったドイツ軍の中枢に関わる人物がここで勤務していた。ヒトラーが関係者以外の立ち入りを禁じたため、ヒトラーの恋人で後に妻となるエーファ・ブラウンら部外者は空襲時に避難する以外は地下壕に立ち入らなかった。
1945年1月16日からヒトラーはここでの生活を始めた。ヒトラーと宣伝相のヨーゼフ・ゲッベルスらが総統地下壕に居住し、ゲッベルスの家族やナチ党官房長マルティン・ボルマン等他の者は旧地下壕に居住した。ソビエト軍がベルリンに迫った4月15日、疎開先のベルクホーフからベルリンに移っていたエーファ・ブラウンは家具を地下壕の自室に運び入れさせ、ヒトラーの側で生活することを決めた。ヒトラーや軍需相アルベルト・シュペーアが避難を勧告したが、エーファは頑として応じなかった。
ヒトラーはベルリン市街戦末期の1945年4月30日にここで自殺した。なお、この直前にここでエーファと結婚していた。翌日には後継首相のゲッベルスも自決し、5月2日にはソ連軍に占領された。
総統地下壕は攻撃に耐えられるよう、厚さが上面で4メートル、四周と下面では最低でも2.5メートルものコンクリートによって造られ、深さは15メートルに達した。構造は強固で、空襲やソ連軍によるベルリンの戦いにも耐え抜いた。
総統地下壕は地下水位よりも低い深さに急ごしらえで建築されたため各所で水漏れが起きており、湿気が高くコンクリートが完全に乾ききらず、所々水溜りができる有様で、またヒトラー自身が毒ガス攻撃を恐れて換気を嫌ったため空調は良好ではなく、決して完璧な造りとはいえなかった。また、当初こそヒトラーが嫌っていた喫煙は固く禁じられ、利用者もそれを守っていたが、戦況が絶望的になるにつれてヒトラーの姿がない所では堂々とタバコを吸うようになってゆき、最末期にはヒトラーが目の前を通り過ぎてもタバコを吸うようになった。
ベルリン攻防戦当時の地下壕編集
総統誕生日編集
4月20日、ヒトラーは56歳の誕生日を地下壕で迎えた。ヒトラーの誕生日を祝うために空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング帝国元帥、海軍総司令官カール・デーニッツ元帥、国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥、外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップといった政軍の高官が集まった。同日午前、ベルリン市内に対するソ連軍の砲撃が始まり、いよいよベルリンが戦場となることは明白であった。
ヒトラーに祝意を表明した後、ゲーリングとカイテルは国防軍最高司令部と陸軍総司令部・空軍総司令部の大部分の機能をベルリンから避難させる許可を求めた。ヒトラーは許可を与え、ゲーリングらの同行も認めた。さらに北部ドイツの軍指揮権をデーニッツ元帥に委託した。この時点では南部ドイツの指揮権については言明せず、ボルマンをはじめとして、ヒトラーがやがて南部に避難すると見る者も存在した。しかし翌21日未明になってベルリンを離れない意志を言明し、オーバーザルツベルクに「狼はベルリンにとどまる」という電文が打電された。狼はヒトラー個人を指す暗号である(アドルフは「高貴な狼」という意味であり、またヒトラーはしばしば「狼」という意味のヴォルフという偽名を使用していたため)。しかしゲーリング、デーニッツら軍高官は決定に従い、ベルリンを離れることになった。
ベルリンの孤立編集
4月22日午後3時、総統地下壕で作戦会議が開かれた。しかし、ベルリン防衛の不活発さに激怒したヒトラーは自殺をほのめかし、その意志はボルマンを始めとする幹部にも伝えられ、壕内の人々にも伝わった。カイテルとヨードル作戦部長、ボルマンが説得したためヒトラーの精神は落ち着きを見せたが、カイテルらの避難勧告には応じなかった。同日午後8時45分、総統副官のプットカマー海軍少将・シャウブ親衛隊大将、ヒトラーの主治医モレル、女性秘書官のヴォルフとシュレーダーなどの職員が地下壕から退去し、オーバーザルツベルクのヒトラー山荘ベルクホーフに避難した。しかし、エーファや秘書官のユンゲ夫人らはヒトラーの勧告にも関わらず、退去に応じなかった。一方、午後8時にはゲッベルスの夫人マクダとその6人の子が地下壕に入り生活するようになった。
4月23日、ヨードルから「ヒトラーの自殺意志」を聴いたコラー空軍参謀総長が地下壕を脱出し、オーバーザルツベルクのゲーリングの元に向かった。これを受けたゲーリングは連合軍との降伏交渉を始めるべく、ヒトラーに総統権限の委譲を確認する電文を送る。激怒したヒトラーはゲーリングの逮捕と監禁を命じた。この日のうちにリッベントロップはドイツ北部に疎開し、翌4月24日未明にはシュペーアが地下壕から退去した。
この頃の地下壕の様子をシュペーアは「英雄気取りのゲッベルス、疲れ切ったヒトラー、権力闘争に燃えるボルマン、異常な多数者の中で、エヴァだけが冷静であった」(原文からの翻訳)と回顧している。同日、ベルリンの北、ラインスベルク近郊ノイルーフェン基地にカイテルやヨードル、国防軍最高司令部と陸軍総司令部の人員が集まった。ヒトラーの許可を得て陸軍総司令部の統帥任務は解除され、国防軍最高司令部が陸軍総司令部を吸収してベルリン防衛の指揮を取ることになった。
4月25日正午頃、ベルリン市はソ連軍によって完全に包囲された。
最期への日々編集
4月26日、グライム空軍上級大将が女性飛行士ハンナ・ライチュの操縦する飛行機に乗ってベルリン市に入った。ソ連軍の対空砲火を切り抜け、砲撃で破壊された滑走路を使っての着陸であり、地下壕の人々は大いに沸き立った。グライムは即日元帥に昇格し、ゲーリングの後任の空軍総司令官に任命された。
4月27日、エーファ・ブラウンの妹グレートルの夫であり、親衛隊全国指導者連絡官のフェーゲライン親衛隊中将が国外逃亡を図ったとして逮捕された。28日には親衛隊全国指導者ヒムラーが単独で和平交渉を行っていることが発覚した。フェーゲラインは処刑され、ヒムラーは全ての役職から解任された。
4月29日午前0時頃、新空軍司令官グライム元帥とライチュがヒトラーの指示でベルリンを脱出した。この時、地下壕にいた者たちがライチュに手紙を託している。その後、ヒトラーは秘書官のユンゲ夫人を呼び出して政治的遺言と個人的遺言の口述を行った。
政治的遺言では自らのこれまでの運動を総括し、自らの死後に発足する新内閣の閣僚指名を行い、大統領にデーニッツ、首相にゲッベルス、ナチ党担当大臣としてボルマンを指名した。また、個人的遺言ではエーファとの結婚や自殺後の遺体処理方法、遺産の管理を明らかにした。
遺言書の口述が終わった午前3時頃、ヒトラーとエーファは結婚式を挙げた。ゲッベルスとボルマンが立会人と介添えを行い、ベルリン大管区監督官ヴァルター・ワグナーによって結婚登録が行われた。その後、小会議室で簡単な披露宴が行われた。午前4時、ユンゲ夫人はヒトラーに清書した遺言書を見せ、ヒトラーやボルマンらの署名を受けた。ゲッベルスは遺言書に補遺として自らがベルリンで死ぬことを書き記した。
4月29日午前8時、ヒトラーは遺言書をデーニッツ、中央軍集団司令官シェルナー元帥、そしてナチス党発祥の地であるミュンヘンの党本部に届けるよう使者を送り出した。このほか幾人かの総統副官に脱出許可を与えた。
午後3時、ヒトラーはムッソリーニ処刑の報道を知った。午後6時、ゲッベルスの子供らも招いた「ベルリン市民とのお別れ」パーティーが行われた。午後10時には作戦会議が行われ、ベルリン防衛軍司令官のヴァイトリング大将から戦闘は4月30日夜までしか継続できないという連絡が入った。午後11時、総統副官ニコラス・フォン・ベロー空軍大佐がヒトラーのカイテル宛て書簡を持って地下壕を脱出した。ただし、ベローは危険を感じて書簡を破棄したため正確な内容は伝わっていない。
終焉編集
4月30日午前2時、地下壕に残った女性秘書たちのためのパーティーが行われた。このパーティーの最中、ヒトラーは内科主治医であるハーゼ親衛隊中佐に自殺方法について相談している。ハーゼは青酸カリと拳銃を併用する自殺方法を提案した。すでにヒトラーは主治医のシュトゥンプフエッガー親衛隊医師から自殺用の青酸カリのカプセルを受け取っていたが、ヒトラーは青酸カリの効力に疑問を抱いていた。そこでヒトラーの愛犬であるブロンディが実験台となり、青酸カリで薬殺された。
正午、ヒトラーはボルマンとギュンシェ親衛隊少佐に、午後3時に自殺することを伝え、遺体を焼却することと、地下壕は爆破せずにそのまま残すことを命令した。午後1時、ヒトラーはユンゲとクリスティアン、栄養士のマンツィアリを同席させて最後の食事を取った。
午後3時、総統地下壕の廊下に側近が整列し、ヒトラー夫妻との最後の別れを行った。居合わせた全員が無言であり、ただ握手を交わすのみであったという。ヒトラーとエーファはヒトラーの居間に入り、リンゲ親衛隊少佐が扉の鍵を閉めた。午後3時40分、ゲッベルスらが居間に入るとソファの手前でエーファ、奥にヒトラーが死んでいた。主治医シュトゥンプフエッガー親衛隊医師がヒトラー夫妻の検死を行い、死亡を確認した。
午後4時、総統官邸中庭に掘られた穴にヒトラー夫妻の遺体が置かれ、ガソリン180リットルを注いだ上でボルマンが点火を行って遺体は焼却された。ヒトラーがいなくなると地下壕には虚脱感が広まり、今までヒトラーに遠慮していた喫煙者はおおっぴらにタバコを吸い始めた。午後6時、ボルマンは新大統領に指名されたデーニッツ元帥に連絡を取り、大統領就任を伝えた。
5月1日、地下壕から参謀総長クレープス大将が脱出し、ソ連軍第8親衛軍司令官チュイコフ上級大将に停戦の申し入れを行った。クレープスはベルリン防衛軍の無条件降伏を条件とする一時停戦で合意したが、降伏を認めない首相ゲッベルスは拒否した。午後3時15分、ゲッベルスはデーニッツにヒトラーの自決とデーニッツによるヒトラーの死の公表を委任する電報を送った。午後5時頃、ゲッベルスの6人の子供たちが青酸カリで毒殺された。午後6時半、ゲッベルスは最後の閣議を行い、午後8時半にゲッベルスと夫人マクダは拳銃で自殺した。
ベルリン防衛軍司令官ヴァイトリング大将はソ連軍に降伏を申し入れ、その交渉の間に地下壕の人々は脱出することになった。クレープスと総統副官ブルクドルフ大将は地下壕で自決したが、残った地下壕の人々は10組に分かれて脱出した。
5月2日、ベルリン防衛軍は正式に降伏し、地下壕はソ連軍に占領された。
戦後編集
戦後はソ連や旧東ドイツ政府によって取り壊そうと試みられたが、あまりにも強固な作りだったために完全に撤去することはできなかった。1980年代の大規模宅地開発の際にも掘り起こされたが、後に埋め戻されている。
ネオナチの聖地になる懸念から長年跡地を示すものは特に無かったが、2006年6月8日に案内板が設置された。現在の跡地には駐車場などが存在する[2]。
ギャラリー編集
脚注編集
- ^ David Sim (2016年10月28日). “Replica of Adolf Hitler's bunker goes on show in Berlin”. International Business Times. 2018年8月31日閲覧。
- ^ “第5回 ヒトラーが最後の日々を過ごした地下壕 ドイツ・ベルリン”. ナショナル・ジオグラフィック日本版. 2015年3月2日閲覧。
参考書籍編集
- 児島襄 『第二次世界大戦・ヒトラーの戦い』(文春文庫)
関連項目編集
- 総統官邸
- トラウデル・ユンゲ :総統個人秘書官。5月1日まで地下壕で勤務した。
- ゲルダ・クリスティアン :総統個人秘書官。5月1日まで地下壕で勤務した。
- ローフス・ミシュ :総統地下壕に勤務し、5月1日まで地下壕にいた兵士。跡地案内板の除幕式に参列した。
- ヒトラー 〜最期の12日間〜 :総統地下壕が舞台の映画。同作はユンゲの回想が元になっている。