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セレベス島メナドにて撮影された一〇〇式司令部偵察機の緑十字機(1945年10月3日)

緑十字飛行(みどりじゅうじひこう)とは、太平洋戦争大東亜戦争)の終戦連絡事務処理のため、1945年(昭和20年)8月14日から同年10月10日まで日本機でもって行われていた行為の呼称。また、本航空運行に使用された機体緑十字機と称される。

概要編集

由来編集

1945年8月14日のポツダム宣言受諾により、後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)最高司令官となるダグラス・マッカーサーは、日本の大本営に対し、日本政府、大本営の代表使節団のアメリカマニラへの派遣を要請した。混乱を避けるため、マッカーサーは、代表使節団の使用機材、外装、通信波長に至るまで細かく指定し、機体の塗装に関しては『全面を白色に塗り、胴体の中央部に大きな緑十字を描け』とした。「緑十字飛行」「緑十字機」という名称はこれに由来する。

この飛行は本土と伊江島伊江島飛行場間であり、伊江島からマニラまでは米軍機で移動した[1][2]。当時は厚木航空隊事件が発生し抗戦派からの妨害が予想されたため、緑十字機には米軍機が護衛として随伴した[2]が、最後まで緑十字機への攻撃は無かった。この輸送指揮官として佐藤守の義理の父である寺井義守海軍中佐が任命されている[2]後述)。

機材・路線編集

 
ティモール島の飛行場で故障したため放置された九七式重爆撃機の緑十字機(1945年10月2日)

連合軍の日本上陸後、日本による飛行は禁止されていたが、日本政府の要請により、終戦処理連絡飛行がGHQの許可(SCAPIN23号)により実施されることになった。許可されたのは次の機材・路線である。

この緑十字飛行は、1945年10月10日のGHQによる航空機の全面飛行禁止の指令が出されて運行を終了し、1951年(昭和26年)に日本航空による民間飛行が開始されるまで日本の航空機関は皆無となった。

多くの緑十字機は役目を終えると飛行場に放置され、後に解体された。

事故編集

敗戦直後、参謀次長河辺虎四郎中将を筆頭とする降伏全権団はフィリピンにて連合軍と会談し最高指揮官マッカーサーによる降伏要求文書を受領、連合軍の進駐詳細や全軍武装解除を中央に伝達するため、8月20日、伊江島から専用の緑十字機にて東京へ飛行中であった(当初、木更津海軍飛行場を出発した1番機一式大型陸上輸送機と2番機一式陸上攻撃機の緑十字機は、伊江島で2番機が故障したため1番機のみで帰還[1])。しかし途中で燃料が切れ、20日深夜に現在の遠州灘天竜川河口(鮫島海岸)に不時着水した。全権団に怪我人はなく降伏要求文書も近隣の住民の助けを得て全て回収し、一行は手配されたトラックで浜松陸軍飛行場へ移動、代替機として同地にあった四式重爆撃機「飛龍」を急遽使用することとなり、翌21日朝に出発したのち調布陸軍飛行場に無事到着している。この一行には寺井も随行していた[1]

事故機は放置されていたが、部品は持ち去られたうえ、台風の影響で流されて水没し行方不明となっていた。その後2006年に尾翼の一部が海岸で見つかり、2011年に燃料タンクの一部が発見された。残骸は磐田市が保管している[3]

脚注編集

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  1. ^ a b c 「緑十字機」謎に迫る 磐田の郷土史家、調査分析一冊に|静岡新聞アットエス
  2. ^ a b c 平和へのラストフライト~緑十字機が運んだ“終戦”~ 静岡朝日テレビ制作 2016年
  3. ^ 磐田発 いわた歴史の風景 緑十字機と磐田 ~磐田市役所で特別公開~」『いわた文化財だより』第82号、1ページ。

参考文献編集