織田信定

日本の戦国時代の武将

織田 信定(おだ のぶさだ)は、戦国時代初期の武将尾張国の織田大和守家(清洲織田氏)に仕える清洲三奉行の1つである織田弾正忠家の当主。勝幡城城主。信定は信貞とも書く。織田信秀の父であり、織田信長の祖父。

 
織田信定
時代 戦国時代
生誕 生年不詳
死没 天文7年11月2日1538年11月23日
改名 月巌(法名)
別名 信貞、通称:三郎、織田霜台[注釈 1]、織田弾正忠、弾正左衛門尉
官位 弾正忠、弾正左衛門尉
主君 織田達勝
氏族 織田氏
父母 父:織田良信[2](または織田敏定[3]
母:京極持清の娘
兄弟 [諸系図] 敏信[注釈 2]敏宗[注釈 3]信定秀敏[注釈 3]
正室:いぬゐの方織田良頼の娘)[4]
側室:月静院殿(出自不明)
信秀信康信正[注釈 4]信光信実信次
秋悦院織田信安室)、女(松平信定室)、女(牧長義室)、おつやの方遠山景任室のち秋山虎繁室)

目次

略歴編集

越前国織田庄劔神社祠官の系譜を引き、越前や尾張の守護大名斯波氏被官織田氏の支流の出身。本姓はこの頃には藤原氏(越前織田氏は忌部氏を称す)を称していたが、後に信長が平姓に改めた。

信定は、尾張下四郡守護代に補任された織田大和守家の分家の生まれで、同家は重臣として仕え、清洲三奉行の1つ[注釈 5]として大和守家の執務を輔佐、実行する家柄であった。

江戸時代に書かれた諸系図では信定の父を織田敏定と明記するが、より信頼性の高い史料である『信長公記』の巻首に、月巌(信定の法名)の先代が西巌(法名)であると書かれていることから、敏定(法名は常英)は父ではないと考えられる。また文明14年(1482年)の清洲宗論の記録にある「織田弾正忠良信[5]」なる人物が、弾正忠家の当主であったと推定され、この西巌にあたると現在は考えられており、良信が信定の父であるというのが定説になりつつある[6]

信定も、清洲城を本拠とした織田大和守家当主の織田達勝のもとで奉行の地位にあり代々弾正忠通称とした。また、弾正左衛門尉とも称したという。

永正13年(1516年)中に発せられた妙興寺の寺領や末寺を安堵する2つの連署状に「織田弾正忠信貞」と署名がある[7]

中島郡海西郡に勢力を広げて津島の港を手中に収め、津島に居館を構えた。この港から得た経済力が戦国大名としての織田氏の発展の基礎となったとされる。

永正年間に勝幡城を築城し、大永年間に津島の館から拠点を移した。天文年間初めに嫡男・信秀に家督を譲って隠居した。この際、木ノ下城(犬山市にあり犬山城とも言う)に移り、勝幡城を信秀に与えたとされる。

『好古類纂』によれば、天文7年(1538年)11月2日に死去[8]

脚注編集

注釈編集

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  1. ^ 霜台は弾正忠の唐名
  2. ^ 系図上は敏定の嫡男。良信の父、または良信とは同一人物とする説がある。ただし年代を考えれば、敏信を敏定の弟として良信の父とした方が辻褄が合う。
  3. ^ a b 敏定の子。系図上は兄弟とされているが、信定が敏定の子ではないならば、兄弟ではなく叔父または大叔父。
  4. ^ 美濃国嶋村に住して嶋氏(島氏)を名乗る。信正は織田信雄の家臣として名が見える。子の島信重(嶋信重)、島一正(嶋一正)は簗田広正の家臣から、佐久間信盛の与力に転じ、その追放後に信長に仕え、本能寺の変後は秀吉に仕えた。子孫は旗本。
  5. ^ 織田因幡守家、織田藤左衛門家、織田弾正忠家の3つ。因幡守家は達定の子で達勝の弟でもある達広、藤左衛門家は敏定庶流の寛故の子信張が、この頃の当主であった。
  6. ^ なお、良信の法名は確定されていない。

出典編集

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  1. ^ 近藤瓶城編 国立国会図書館デジタルコレクション 『信長公記』第19巻 近藤出版部〈史籍集覧〉、1926年http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920322/65 国立国会図書館デジタルコレクション 
  2. ^ 『信長公記』巻首[1]
  3. ^ 『寛政重修諸家譜』『系図纂要』ほか。
  4. ^ 西ヶ谷 2000, p.238
  5. ^ 本圀寺誌』による[注釈 6]
  6. ^ 西ヶ谷 2000, p.224-225
  7. ^ 『妙興寺文書』
  8. ^ 和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』(中央公論新社〈中公新書〉、2017年)p.14

参考文献編集

関連項目編集