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羅 憲[1](ら けん、? - 270年)は、中国三国時代から西晋にかけての軍人。蜀漢・晋に仕えた。令則荊州襄陽郡の出身。父は羅蒙。兄は羅式。子は羅襲。甥は羅尚(羅式の子)。

羅憲
西晋
西鄂県侯・冠軍将軍
出生 不詳
荊州襄陽郡
死去 泰始6年(270年
拼音 Luó Xiàn
令則
諡号 烈侯
主君 劉禅曹奐司馬炎
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正史の事跡編集

父は乱を避けて蜀に移住し、広漢太守となった。

羅憲は13歳にして文章を良く書き、早くに学問で名を知られた。譙周に師事し、門人からは子貢の如しと称された。「性は厳正、倦むことなく士を求め、財産を軽んじて施すことを好み、利殖を営まなかった(性格は極めて真面目で、積極的に才能のある人物を求め、財産を他人に快く与え、私腹を肥やす真似はしなかった。)」と評される。蜀に仕え、劉禅の即位時に太子舎人となり、ついで庶子・尚書吏部郎に移った。宣信校尉としてに使いすること二度、呉人から称賛された。

当時、黄皓が蜀の実権を握っていた。しかし羅憲は黄皓に阿らなかったため、恨みを買って巴東太守に左遷され、巴東を都督していた閻宇の副将となった。が蜀を討つ(蜀漢の滅亡)と閻宇が召還されたため、羅憲が永安を守った。成都が陥落すると永安城要塞でも擾動が起こり、城を捨てて逃げる官吏が多発した。羅憲は「成都が混乱している」と言った者一人を斬り、民を安んじた。劉禅が降伏したことを知ると、配下の将兵を伴い都亭に赴き、三日間喪に服した。

景元4年(263年)冬10月、呉帝の孫休は蜀(蜀漢)から、魏より攻撃を受けているという連絡が入った。11月[2]、蜀を救援するため[3]、大将軍の丁奉に魏の寿春を攻撃させると共に、将軍の留平を南郡の施績の元に派遣し、軍をどの方向に出すべきかを検討させた。丁封と孫異に沔中を攻撃させ。同月、劉禅が魏に降伏した。呉は蜀漢が滅亡したという知らせが入り、これらの軍事行動のすべてが中止された[4]

景元5年(264年)2月、孫休は鎮軍将軍の陸抗・撫軍将軍の歩協、征西将軍の留平、建平太守の盛曼らに命じて魏に下った巴東監軍の羅憲を永安要塞で包囲した。魏の羅憲は「漢(蜀漢)の滅亡は呉の命運に関わることであるのに、呉は我が難を救わず、利益を求め盟約を違えようとする。既に漢は滅び、呉も永くは保たれないであろう。どうして呉に降ることができようか」と言って永安要塞を堅守した。兵士たちがこの状況に動揺していたため、鎧を繕い、城壁を修復し、兵糧を集め、節義を説いて激励したところ、みな命令に従った。呉は魏の鍾会鄧艾が死んだ事を知り、さらに征西軍を派遣し、歩協に永安城要塞を包囲させた。羅憲は魏の陳騫に使者を送る一方、歩協の軍を大いに破った。

孫休は、陸抗らに兵3万を与えて永安城をさらに囲ませた。およそ半年の間、魏の援軍は至らず、また城内の者の大半が病に罹った。ある者が羅憲に脱出の策を説いたが、羅憲は「人主とは民が仰ぎ見る者であり、危急に臨んで民をよく安んぜず捨て去ることは、君子のなすところではない」として容れなかった。司馬昭胡烈を援軍として派遣し、陸抗らを退却させた。司馬昭は羅憲に旧職を委ね、陵江将軍に任命し、万年亭侯に封じた。折りしも武陵郡の四県が呉に叛いたため、羅憲は武陵太守・巴東監軍となった。

泰始元年(265年)に西鄂県侯に封ぜられた。妻子を洛陽に住まわせ、子のは給事中に任命された。翌2年(266年)に入朝し、冠軍将軍・仮節に昇進した。泰始4年(268年)、司馬炎(武帝)の詔に応じて陳寿を始め、常忌・杜軫・寿良・高軌・呂雅・許国・費恭・諸葛京・陳裕ら蜀漢の旧臣を推挙した。羅憲が推挙した者たちは、みな西晋に採り立てられた。羅憲の入朝後、呉の武陵太守孫恢が南浦に攻め込んできた。安蛮護軍で羅憲の参軍であった楊宗がこれを討ち敗走させた。これにより羅憲は楊宗を武陵太守にするように上表した。また任地に還って、南浦に駐屯し武陵蛮を呼応させて三県とその民を得た[5]。呉の巫城も攻略し、呉を討つ策を進言した。泰始6年(270年)に死去し、使持節、安南将軍を贈られ、西鄂侯に追封、烈侯と諡された。子の羅襲が父の私兵を受け継ぎ、陵江将軍となったが、早くに亡くなり、広漢太守を追贈された。孫の羅徽は、順陽内史となったが、永嘉五年(312年)、晋に反乱を起こした王如によって殺された。

注釈編集

  1. ^ 羅憲の事績は『蜀書』巻41・霍峻伝が引く『襄陽記』と、『晋書』巻57・羅憲伝とに見える。ここでは『襄陽記』に拠る。
  2. ^ 「丁奉伝」
  3. ^ 「孫休伝」
  4. ^ 『呉書』「三嗣主伝」『資治通鑑』
  5. ^ 華陽国志』巴志