美幸線

かつて日本の北海道に存在した鉄道路線

美幸線(びこうせん)は、かつて日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線地方交通線)である。北海道中川郡美深町宗谷本線美深駅を起点とし、同町内の仁宇布駅に至る路線であった[1]。計画では、美深より仁宇布を経てオホーツク海沿岸枝幸郡枝幸町興浜北線北見枝幸駅に至る予定で、仁宇布から枝幸方にかけて一部工事が行われたものの、1980年の日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)施行を受けて第1次特定地方交通線に指定され、1985年(昭和60年)9月17日に全線廃止された[2]

Japanese National Railway logo.svg 美幸線
概要
現況 廃止
起終点 起点:美深駅
終点:仁宇布駅
駅数 4駅
運営
開業 1964年10月5日 (1964-10-05)
廃止 1985年9月17日 (1985-9-17)
所有者 日本国有鉄道
路線諸元
路線総延長 21.2 km (13.2 mi)
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
最小曲線半径 300
電化 全線非電化
最急勾配 16パーミル
テンプレートを表示
停車場・施設・接続路線(廃止当時)
宗谷本線
eABZq+l BHFq
0.0 美深
exBHF
4.3 東美深
exBHF
6.3 辺渓
exBHF
21.2 仁宇布
exLSTR
未成区間
exBHF
北見大曲
exBHF
上徳志別
exBHF
志美宇丹
exBHF
辺毛内
exBHF
歌登
exBHF
下幌別
exDST
南枝幸(信)
exLSTR
未成区間
exBHF
北見枝幸
exSTR
興浜北線

線名は予定線の起終点から採られており、「美」は起点の美深、「幸」は終点の北見枝幸である。

警報機のある踏切は宗谷本線と共用のものを除けば1箇所(道道)のみで、人跡のまれな地帯をゆく路線であった。

路線データ編集

  • 区間(営業キロ):美深 - 仁宇布 (21.2km)
    • 未成区間の仁宇布 - 北見枝幸間は57.5km
  • 駅数:4駅(起終点駅含む、未成区間7駅除く)
  • 複線区間:なし(全線単線)
  • 電化区間:なし(全線非電化
  • 閉塞方式:タブレット閉塞式(全線1閉塞)

歴史編集

構想から着工へ編集

北海道北部開発の拠点であった枝幸と宗谷本線を短絡する目的で計画された鉄道路線で、1953年(昭和28年)8月1日に鉄道敷設法別表第144号の2「天塩国美深ヨリ北見国枝幸ニ至ル鉄道」として予定線に追加された。枝幸へは興浜北線浜頓別天北線に接続、予定線の興浜線雄武興浜南線に接続し、興部名寄本線に連絡する予定であったが、大消費地である旭川札幌に出るには遠回りとなることから長年にわたって請願が続けられていたものである。

1931年(昭和6年)4月、美深町長と美深町議会議員、美深町役場吏員が仁宇布から山越えし、上徳志別、志美宇丹、歌登、枝幸と踏査したのが鉄道敷設構想の始まりで、1935年(昭和10年)5月9日に美深町長と枝幸村長が鉄道大臣、鉄道省建設局長、札幌鉄道局長らに請願した。同年6月には鉄道省の測量班が現地測量を行い、その後も鉄道敷設運動は進められたが、戦争により中断された[3]

戦後の1946年(昭和21年)4月5日、美深町長、歌登村長、枝幸村長が集まり、鉄道敷設運動の開始を打ち合わせた。1948年(昭和23年)9月には美深町長と美深町議会議員らが戦後初の現地踏査を実施し、運輸大臣、建設大臣、衆議院、参議院に請願書を提出し、同年11月30日に衆参両院で請願が採択された[3]

1949年(昭和24年)4月と9月に運輸省札幌地方施設部が経済調査を実施し「産業開発路線として有望である」と評価した。1950年(昭和25年)8月9日から9月4日にかけて国鉄旭川鉄道管理局の現地測量隊が測量調査を実施した[3]

1953年(昭和28年)8月1日に予定線となり、1956年(昭和31年)2月24日に調査線、1957年(昭和32年)4月3日に建設線となると同時に、美深 - 仁宇布間の着工が認可され、同年7月4日に美深駅で着工記念式典と杭打ち、1958年(昭和33年)7月30日に起工鍬入れ式、1959年(昭和34年)8月20日に国鉄札幌工事局美深工事区が開設され、建設工事が本格化した[3]

枝幸側では、1960年(昭和35年)9月に現況調査を実施。1961年(昭和36年)12月28日に全線の着工が認可され、1962年(昭和37年)6月17日に北見枝幸駅で北工区起工杭打ち式が行われた[3][4]

部分開業と工事継続、凍結編集

工費8億4,800万円を投入し、1964年(昭和39年)10月5日に第1期線である美深 - 仁宇布間(延長21.2km)が部分開業し[1][3]、以遠も日本鉄道建設公団によって建設が進められた。美深 - 仁宇布間には1935年(昭和10年)から殖民軌道美深町営軌道があったが、美幸線開業に先立ち1962年(昭和37年)に廃止された。

北工区の北見枝幸 ‐ 志美宇丹間(延長27.2km)は1965年(昭和40年)10月21日に工事実施計画が認可され、10月30日に着工した[5]。歌登トンネル(延長700m)の掘削工事から始まり、1966年(昭和41年)5月9日に貫通。1968年(昭和43年)秋には志美宇丹トンネル(延長1,520m)の掘削工事に着手し、1970年(昭和45年)に北見枝幸 − 志美宇丹間の路盤工事が完成した[4]。この時点では1975年(昭和50年)の全線開業予定とされていた[3]

志美宇丹 ‐ 仁宇布間(延長30.4km)は1970年(昭和45年)11月27日に工事実施計画が認可され、12月7日に着工した[5]。志美宇丹側から工事が始まり、第1上徳志別トンネル(延長260m)、第2上徳志別トンネル(延長825m)の掘削工事に着手し、1971年(昭和46年)に第1大曲トンネル(延長343m)が着工され、志美宇丹 − 第2大曲トンネル間の路盤工事も進められた[4]。最難工事といわれた第2大曲トンネル(延長1,337m)は1971年10月に着工し、1973年(昭和48年)7月2日に貫通した[4][6]。1973年4月には第3大曲トンネル(延長610m)も着工した[5]

1973年に仁宇布側からも工事が始まり、同年5月16日、仁宇布に鉄建公団の美深鉄道建設事務所を開設した[7]

1974年(昭和49年)6月7日には美深町・枝幸町境界の黒岩トンネル(延長750m)の起工式が行われたが、第2大曲トンネルと同様に地盤が軟弱で断層があるため、最大の難所となった。掘削方法も両側に2本の細いトンネルを掘り、コンクリートで固めて落盤を防ぎながら掘進するサイロット工法が採用された[8]

予定線が計画された歌登町(現・枝幸町)内では、同町が経営し中頓別町の天北線小頓別駅に通じていた歌登町営軌道が美幸線建設促進のため、1970年(昭和45年)に廃止された。

1973年(昭和48年)時点の計画では、1976年(昭和51年)までにレールを敷設し、1977年(昭和52年)に全線開業予定であったが[4][6]、渓谷や山岳が多く、難工事で順調に進まなかった。その後、全線開業の予定時期は1975年(昭和50年)の時点で1978年(昭和53年)[9]、1977年の時点で1980年(昭和55年)とずれ込んだ[10][4]

1979年(昭和54年)の時点では1982年(昭和57年)の全線開業予定とされたが[11][12]、完成間近で予算と工事は凍結され、開業することができなかった[12]

1980年(昭和55年)の工事凍結時点では、仁宇布 ‐ 北見枝幸間の路盤は全て完成し、トンネル12ヶ所、橋梁41ヶ所も完成し、あとはレールと枕木の敷設、駅舎の建設などが残された段階だった[13]

支線として北見大曲駅 - 興浜線北見音標駅間の建設が予定されていたが、美幸線自体が廃止されたためこの支線は計画だけに終わった。

ほぼ路盤が完成していた北見枝幸 - 歌登間を先行開業させるという話もあったが、興浜線や越美南線(現長良川鉄道)と越美北線のように、分断されたままになってしまうことを危惧した地元住民により、一括開業にこだわって開業は見送られた。

既開業区間自体の輸送量はきわめて少なく、同じ北海道の深名線白糠線、そして九州の添田線などとともに、国鉄全路線中最悪レベルの赤字線であった。1972年(昭和47年)度の営業係数は3,270と初めて全国ワーストワンとなった[14]1974年(昭和49年)度の営業係数は3,859、すなわち100円の収入を得るのに3,859円の費用を要する状態であった[15]

「日本一の赤字線」を逆手に取って、美深町の長谷部秀見町長が美幸線の宣伝活動を東京銀座で行ったこともあり[16] 、1979年(昭和54年)度には営業係数1,917でワースト6位となり[17]、日本一の赤字路線(営業係数ワーストワン)からは脱却したものの、経営環境自体に改善は見られなかった。1983年(昭和58年)度の営業係数は4,780、輸送密度は32人/日[18]1984年(昭和59年)度の営業係数は4,731、輸送密度は24人/日[19]と再びワーストワンに転落した。

第三セクター構想と全線開業断念、廃止編集

1979年(昭和54年)には日本鉄道建設公団が「順調にいけば、1982年(昭和57年)度には全線開業」の目処を明らかにしたことが報じられ[11]1981年(昭和56年)に第1次特定地方交通線として指定された後も、同じく第1次特定地方交通線となった興浜北線興浜南線、未成区間の興浜線と合わせて第三セクター化した「オホーツク縦貫鉄道構想」と関連付けて全線開業による存続を目指したが、北海道が委託したコンサルタント(計量計画研究所)による収支見込みで黒字に転換する可能性はないとされた[20]

収支見込みでは、1985年(昭和60年)に第三セクター化するとし、全線開業予定年の1987年(昭和62年)は収入1億3,000万円に対し支出4億2,000万円で2億9,000万円の赤字、2000年(昭和75年〈平成12年〉)には赤字が3億2,000万円に増加、累積赤字では37億円に上るとした。運賃は1985年に現行の50%増し、以後2年ごとに15%ずつ値上げ、経費の上昇率は年4%を見込んだ。営業は1日7往復(1両ワンマン運転)、要員は39人とした。輸送密度は1987年に211人/日、2000年でも249人/日に留まるとした[20]

一方、地元が委託した民間調査機関(東日交通コンサルタント、現・トーニチコンサルタント[21])による収支見込みでは、1985年に第三セクター化し、1987年に1億5,000万円の赤字を出すが、1995年(昭和70年〈平成7年〉)には9,000万円の黒字に転換するとし、運賃は1985年で現行の100%増し、以後2年ごとに20%ずつ値上げ、経費は抑えめに想定。営業は1日7往復(1両ワンマン運転)、要員は30人とした。輸送密度は1985年に264人/日だが、観光客の急増で2000年には418人/日になるとした[20]。収支の試算では、沿線3町の2000年の人口予測が1980年の1.4倍、2000年の鉄道需要予測が開業時(1985年)の1.5倍、2000年の北オホーツク圏への観光客入り込みが1981年の2倍と見込んだ[22]

だが、特定地方交通線対策協議会のメンバーからは「人口増、観光客の見積もりが甘い」「運賃値上げによる旅客減が見込まれていない」と指摘された[22]

そのため、地元は修正案を提示。要員を25人(うち一般職22人)に減らし、運賃は開業時(1985年)に現行の50%増し、開業6年目で現行の100%増し、以後2年ごとに15%ずつ値上げすると、開業1年目は1億2,600万円の赤字、6年目は6,600万円の赤字を出すが、11年目に3,100万円の黒字に転換し、以後は黒字幅が増えるとした[22][23]

それでも「冬場に運休するならともかく、保守要員が少な過ぎる。国鉄OBを採用するというが、高齢者のワンマン運行では安全性に不安がある。地元の試案は都合の良い数字を並べた机上の空論だ」と元国鉄機関士が指摘していた記事もあった[22]

地元では第三セクター設立に向け、北海道に1億円の出資を求め、転換交付金の一部から5,000万円、美深町・歌登町・枝幸町から各1,000万円、民間から2,000万円の合計2億円の資本金で会社設立を目指す構想を打ち出し、1984年(昭和59年)9月18日の美幸線敷設促進期成会の総会で正式決定したが[24]、大赤字が確定的なことを理由に、北海道は第三セクターへの出資を見送った[25]。そのため3町と民間資本で第三セクター設立を目指し、1985年(昭和60年)1月14日の美幸線敷設促進期成会の臨時総会で決定した[26]

しかし、特定地方交通線対策協議会の開始から2年以内に調わない際に認められる廃止申請とバス転換の強行を国鉄により示唆され、第三セクター化による全線開業と鉄道による存続は断念、路線バスに転換された。このときの転換交付金は開業区間の21.2km分6億3,600万円(1kmあたり3,000万円)とされ、美深町に約4億7,000万円、歌登町に約8,600万円、枝幸町に約7,900万円が交付された[27][28]。1985年(昭和60年)9月17日で廃止、バス転換となった[2][29]。第三セクター転換路線を除くと第1次特定地方交通線では最後の廃止路線であった。

美幸線の廃止直後の1985年(昭和60年)10月、鉄道建設公団は、歌登駅の建設予定地に積み上げられていたレール1,300本(単線16km分)と2万本以上のPC枕木を、青函トンネル関連工事(木古内駅から青函トンネルまでの区間用)に転用するべく移動しようとしたが、事前の照会が鉄道建設公団から無かったため歌登町が反発し、駅予定地への取り付け道路を除雪車などでバリケード代わりに封鎖し、トレーラーでの搬出が阻止されるなどの衝突が起きた。これは翌1986年(昭和61年)2月まで続いた[12]。美幸線の建設費は中止されるまでに、当時の額で133.4億円が投じられていた[30]

年表編集

駅一覧編集

営業していた区間は全駅北海道中川郡美深町に所在。事業者名は廃止時点のもの。

駅名 駅間キロ 営業キロ 接続路線
美深駅 - 0.0 日本国有鉄道:宗谷本線
東美深駅 4.3 4.3  
辺渓駅 2.0 6.3  
仁宇布駅 14.9 21.2  
 
未成区間に現在も残るトンネル

未成区間編集

仁宇布駅- 北見大曲駅 - 上徳志別駅 - 志美宇丹駅 - 辺毛内駅 - 歌登駅 - 下幌別駅 - (南枝幸信号場) - 北見枝幸駅

仁宇布駅以外のこの区間の各駅は北海道枝幸郡枝幸町に設置が予定されていた。

予定地・廃線跡の活用編集

 
天の川トンネル(2008年8月)

仁宇布駅構内を含むおおよそ5kmについて線路が残されることとなった[32]。そのまま放置されていたが、1996年(平成8年)に「旧美幸線を活用する会」が組織され、その翌年には任意団体「トロッコ王国美深の会」(2004年よりNPO法人「トロッコ王国美深」)が設立された[33]。この団体が1998年(平成10年)7月から、当該区間にてエンジン付きの保線用軌道自転車の運転体験ができる「トロッコ王国美深」を運営している[34]

未成区間にある第2大曲トンネルは、北海道道120号美深中頓別線の「天の川トンネル」(延長1,353m)として転用され、1990年(平成2年)10月に着工、総事業費53億円を投じて拡幅工事を行い、1995年(平成7年)7月7日に開通した[35]

未成区間のうち約7キロメートルは観光用の鉄道線として転用する計画も挙がっているが、実現には至っていない。

代替バスの状況編集

  • 1985年 名士バスが美深町からの委託で1日5往復の代替バス運行開始。
  • 1990年 仁宇布地区の終点を仁宇布待合所から仁宇布30線に延伸[36]
  • 2003年 仁宇布30線 - 仁宇布待合所間廃止[36]
  • 2006年4月 日曜日の運行を中止[36]
  • 2007年の年間輸送人員は7万7000人まで減少している[37]
  • 2012年4月1日 路線バス方式からデマンドバス(予約方式)に変更。車両を中型バス車両から、ワゴン車両での運行に変更[38]

脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c “喜びにわく開通式”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1964年10月5日)
  2. ^ a b c “最終列車 赤字線の象徴 美幸線フィナーレ”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1985年9月17日)
  3. ^ a b c d e f g 『美深町史』美深町、1971年11月、486-504頁。 
  4. ^ a b c d e f 『歌登町史』歌登町、1980年11月、890-902頁。 
  5. ^ a b c 草町義和 (2018). “幻の鉄路をたどる(21)美幸線”. 鉄道ジャーナル 2018年3月号: 138-143頁. 
  6. ^ a b “美幸線 第二大曲トンネル貫通 52年開業態勢整う”. 北海道新聞. (1973年7月3日) 
  7. ^ “美幸線開通に全力 美深 鉄建公団の事務所開設”. 北海道新聞. (1973年5月18日) 
  8. ^ “美幸線黒岩トンネル着工 路線中最大の難所 51年開通へラストスパート”. 名寄新聞. (1974年6月9日) 
  9. ^ “列車はいつ走る?焦る地元 工事遅れるローカル11線 響く国の抑制策 石勝3線も来秋以降に”. 北海道新聞. (1975年1月27日) 
  10. ^ “鉄建公団事業計画 石勝3線54年度開業へ 美幸線は55年度”. 北海道新聞. (1977年5月18日) 
  11. ^ a b 北海道新聞 1979年7月7日朝刊、1面「美幸線57年度に開業」、22面
  12. ^ a b c 『歌登町史第2巻』歌登町、1996年7月、509-520頁。 
  13. ^ “美幸線あくまで死守”. 名寄新聞. (1982年1月7日) 
  14. ^ “救いがたい“赤字線王国” 美幸線断然トップ”. 北海道新聞. (1973年11月14日) 
  15. ^ “美幸線また首位に”. 北海道新聞. (1975年8月27日) 
  16. ^ 『ローカル線で地域を元気にする方法』(鳥塚亮著、晶文社)pp.51,52より。但し町長の個人名を除く
  17. ^ “道内で全国赤字の25%”. 北海道新聞. (1980年8月28日) 
  18. ^ “道内国鉄「ワースト10」に6線 美幸線再び赤字全国一に”. 北海道新聞. (1984年8月28日) 
  19. ^ “道内国鉄59年度決算 営業係数は全国で最悪”. 北海道新聞. (1985年8月28日) 
  20. ^ a b c “美幸線 第三セクターでも大赤字 道調査、内容わかる”. 北海道新聞. (1984年9月23日) 
  21. ^ “大詰め迎える美幸線存続 第三セクターで近く報告書 岐路に立つ反対運動”. 名寄新聞. (1983年4月27日) 
  22. ^ a b c d “詰め甘い収支予測 美幸線の第三セクター転換 保守要員などに無理”. 名寄新聞. (1984年9月30日) 
  23. ^ “一次四路線 16日に問題点整理へ 道小委、地元の意見聴取”. 北海道新聞. (1984年9月30日) 
  24. ^ “セクター設立を再確認 美幸線敷設促進期成会総会 町出資、議会提案へ”. 名寄新聞. (1984年9月20日) 
  25. ^ “道 第三セクター断念 バス転換正式決定”. 北海道新聞夕刊. (1984年12月10日) 
  26. ^ “3町独自でセクターを 美幸線期成会の臨時総会で決定”. 名寄新聞. (1985年1月15日) 
  27. ^ “転換交付金配分を決定 美幸線協議会終わる”. 北海道新聞. (1985年8月30日) 
  28. ^ 3町は第6回対策協議会の中で、未開業区間について1kmあたり1,500万円の転換交付金を求めていた。
  29. ^ “21年の運行に終止符 サヨナラ美幸線に3500人 全線開通の夢果たせず”. 名寄新聞. (1985年9月18日) 
  30. ^ 森口 48頁
  31. ^ “美幸線代替バスが発車”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1985年9月17日)
  32. ^ 金尚之 2013, p. 603.
  33. ^ 渡邉亮 2017, p. 41.
  34. ^ 渡邉亮 2017, p. 41-42.
  35. ^ 『歌登町史第3巻』歌登町、2009年3月。 
  36. ^ a b c 4月から日曜日運休 沿線住民、乗客の減少 美幸線代替バス・平日運行確保で経費削減 - 名寄新聞、2006年3月7日
  37. ^ 北海道における鉄道廃止代替バス追跡調査 調査報告書(概要版) (PDF) - 北海道二十一世紀総合研究所、2009年3月
  38. ^ 仁宇布線デマンドバスについて - 美深町、2015年10月14日閲覧

参考文献編集

  • 森口誠之 編 『鉄道未成線を歩く:夢破れて消えた鉄道計画線実地踏査. 国鉄編』JTB、2002年、48頁。ISBN 4-533-04208-2 
  • 金尚之; 原口征人 (2013). “鉄道廃線跡における軌道を用いた利・活用事例に関する考察” (日本語). 土木学会北海道支部論文報告集 (土木学会北海道支部) 60: 602-603. http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00057/2004/60-0602.pdf. 
  • 渡邉亮、遠藤俊太郎、曽我治夫「鉄道廃線敷を活用した観光施設の現状~日独の事例から~」『交通学研究』第60巻、日本交通学会、2017年、 39-46頁、 doi:10.32238/koutsugakkai.60.0_39NAID 130007654985

外部リンク編集