美澤進

日本の教育者
美沢進から転送)

美澤 進(みさわ すすむ、1849年12月24日嘉永2年11月10日) - 1923年大正12年)9月16日)は日本の教育者。Y校の愛称で知られる横浜商法学校の初代校長であり、死没するその日まで同職を40年以上勤め続けた。は業卿。

みさわ すすむ
美澤 進
美澤70歳、1919年(大正8年)
生誕 1849年12月24日
嘉永2年11月10日
日本の旗 備中国
死没 1923年大正12年)9月16日
横浜
墓地 横浜市営久保山墓地(K39地区)
出身校 興譲館三叉学舎慶應義塾
職業 横浜商法学校校長
配偶者 津山よねゑ(小泉信吉の姪)
親戚
栄誉
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生涯 編集

備中国三沢村(現・岡山県高梁市川上町三沢)の生まれ。遠祖は宇多源氏とされる[1]。父・三村繁八郎、母・於美津の6人兄弟の長男で幼名を徳太郎[2]という。実家は代々庄屋を務めて酒造りを行い、成羽藩藩外の豪士として名字帯刀を許された家柄であったが、家業の酒造りの失敗や父と叔父による鉱山投資の失敗で貧困に喘いでいた。美澤は学問での立身を志し、満12歳の1862年(文久2年)に興譲館へ入学。阪谷朗廬の下で儒学を修める一方で永祥寺へも通いにつとめた。1868年(明治元年)の興譲館卒業後は家に帰り、同年姓を美澤へと改める。1872年(明治5年)には母親に「成羽へ芝居見物に行く」と嘘をつき上京。かつて永祥寺に寄宿し美澤と面識のあった元新見藩家老・新海義胤を訪ね書生となった[3]。8月、福沢諭吉の慶應義塾と並び称された洋学塾の双璧、箕作秋坪三叉学舎に入学。その後1875年(明治8年)1月には箕作の許しを経て慶應義塾に転じた。

1878年(明治11年)、29歳の年に慶應義塾を卒業すると、三菱商業学校校長の森下岩楠に聘せられ同校で英語を教授した。1881年(明治14年)にその職を辞したのち、翌年には横浜商法学校創立に際して福澤諭吉の推挙で校長に就任。開校は1882年(明治15年)3月20日で美澤はこの時32歳であった。ところが美澤を含め5名の教員に対し、当初の入学生は僅かに4名。当時5年間の商業専門教育を受けようという学生はまだ少なく、急遽夜学で修業年数2年の速成科が開設されることとなって、結果14名が入学した[4]。こうして始まった横浜商法学校だったが、当時の横浜には小学校卒業後に進む上級学校が他に無かったこともあり、徐々に商家の子弟以外も集まり横浜を代表する学校となっていった。

美澤の授業の思い出でよく挙げられるのは「天は自ら助くる者を助く」の序文で有名なサミュエル・スマイルズ自助論(Self-Help)である。美澤はこれを原書で朗読した上でその内容を論じた[4]。Y校のYの徽章が制定されたのは1891~1892年の頃で、これも美澤自身のアイデアだった。

1923年大正12年)9月1日関東大震災で校舎の大部分が壊滅。美澤は横浜の復興は一日も早い授業の再開から成るとし、校庭に建てられた仮テントで連日夜遅くまで指揮を執った。その甲斐もあって横浜商法学校は横浜中で最も早い9月15日より授業再開となったが、その当日脳溢血で昏睡状態となり、翌日9月16日の14時30分、73年の生涯を閉じた[5]。翌年の1924年9月28日には大規模な校葬が執り行われ、校歌合唱と校訓十則朗読の中、多くの教え子とその父兄、また市民ら計一千余名に見送られた[注 1]。従五位、勲五等瑞宝章受章[6]

慶應義塾の一年後輩で後に総理大臣も務めた犬養毅によると「美澤先生が来ると話はきまって卒業生の自慢。皆自分の子か孫だと思っている」とのことで、その校葬は一学校長としては福沢諭吉の葬儀以来の荘厳かつ盛大なものだったと語っている[7]。美澤は生前、山高帽、フロックコートにこうもり傘のスタイルで一年中通しており、Y校の教え子達が編纂した追悼誌『美沢先生』の表紙にはその懐かしい姿が描かれた。

人物評 編集

慶應義塾長も務めた小泉信三は美澤の親戚[注 2]であり、父を早くに亡くしていた信三は少年時代、夏の時期を美澤家で過ごすことが多かった。成人した信三が結婚する際の媒酌人を務めたのも美澤夫妻である。

「天才ではなく極めて平凡な人」と美澤を評した信三は、多くの生徒に感化を与えられた理由を誠実そのものな美澤の人柄だと語った[4]

平凡な人間も唯一つ「誠実」の心を持って「努力」すれば立派な人間になれる。能力も品性も、これを高めることができるのだ。美澤先生を視よ。これは私どもにとり非常な激励であります。 — 小泉信三『三田論評』 2018年12月号


脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 遠縁でもある犬養毅の他、前文部大臣の鎌田栄吉や日銀副総裁の木村清四郎など多くの政財界人も弔問に訪れた。
  2. ^ 美澤進の妻・米榮(よねゑ)は小泉信三の父である信吉の姉の娘。

出典 編集

  1. ^ 同窓 1937, p. 6.
  2. ^ 『川上町ふるさと読本』1999年、105頁。
  3. ^ 『川上町ふるさと読本』1999年、109-115頁。
  4. ^ a b c 三田 2018.
  5. ^ 『川上町ふるさと読本』1999年、123頁。
  6. ^ 同窓 1937, p. 598.
  7. ^ 『本多岩次郎先生伝』 p.473 西ケ原同窓会本多先生伝記刊行会、1938年

参考文献 編集

  • 山本和久三 編『美沢先生』Y校同窓会、1937年。 NCID BN14468844 
  • 『三田評論ONLINE』 2018年12月号”. 慶應義塾大学出版株式会社. 2023年3月18日閲覧。
  • 三田商業研究会編 編『慶應義塾出身名流列伝』実業之世界社、1909年(明治42年)6月、839-840頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777715 近代デジタルライブラリー
  • 『川上町ふるさと読本』ふるさと読本編集委員会編集、川上町生涯学習推進本部、1999年、104-124頁。
  • 『横浜今昔』毎日新聞横浜支局1957年11月15日刊行 194-197頁