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美濃部 正(みのべ ただし、旧姓:太田(おおた)、1915年7月21日 - 1997年6月12日)は、日本の海軍軍人航空自衛官である。海兵64期。最終階級は海軍において少佐、自衛隊において空将

美濃部 正
350
ショートランド諸島ブカ島での美濃部、第938航空隊飛行隊長時代
渾名 特攻に反対した指揮官[1]
生誕 1915年7月21日
大日本帝国の旗 大日本帝国 愛知県碧海郡高岡村吉原(現豊田市吉原町
死没 1997年6月12日
日本の旗 日本 愛知県豊田市高岡町
所属組織

大日本帝国海軍の旗 大日本帝国海軍


Flag of the Japan Air Self-Defense Force.svg 航空自衛隊
軍歴 1937 - 1970
最終階級 少佐(日本海軍)、空将(航空自衛隊)
除隊後 日本電装学園(現デンソー工業学園)学園長
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目次

生涯編集

戦前編集

1915年7月21日、愛知県高岡村(現豊田市)で自作農の太田家に六人兄弟の次男として生まれる[2]。父親の太田喜四郎は若くして、今の農業協同組合にあたる信用購買販売組合を立ち上げたり、消防団の創設に関わったりと地元の名士であったが、家業の養蚕の不振や、投機の失敗により多額の負債を抱えたのにも関わらず、名士の活動に熱心で家業は妻に任せっきりにしており、美濃部が物心ついたときには生活に困窮していた[3]。美濃部が小学2年生の夏、8歳になったときに、逢妻川オオウナギを捕まえて、自宅に持ち帰ったところ、その日の夕食のおかずとなり、家族全員で蒲焼にして食べた。すると美濃部だけが食中毒となってしまい、下痢と高熱が1か月も続いて髪の毛も抜け落ちてしまった。医者からは腸チフスと診断され一時期は命にもかかわる重症となったが、どうにか全快した。しかし、このときの後遺症は終生美濃部を悩ませることとなり、学生時代は虚弱児に認定され、成人しても胃腸はずっと弱く太れない体質となり、体力増強が人生での最優先の課題となってしまった[4]

1928年4月に地元の新設校刈谷中学に入学、第一次世界大戦青島の戦いで、青島要塞に設置されたドイツ軍要塞砲へのモーリス・ファルマン水上機による爆撃任務で活躍した父親を持つ同級生がおり、その同級生から父親の武勇伝を聞かされたことにより、パイロットへの憧れが強くなっていったが[5]、腸チフスにより体力増強が必要だった美濃部は、担任の薦めもあり学業よりは柔道に精を出しており、成績は決してよくはなかった。そのため、パイロットになるためには海軍兵学校への入学が必要ながら、美濃部本人および父親にも担任からは合格は難しいという進路指導があっていた[6]。しかし、一足先に海軍兵学校に入学していた兄の太田守からの励ましもあり試験に合格して、1933年4月1日に海軍兵学校64期生として入学した。同期に川島立男(首席)、石田捨雄(後の海上幕僚長)らがいる。海軍兵学校でも虚弱体質の問題は解消されず、厳しい訓練についていくことができずに、3学期には2か月余りも病院に入院しての加療が必要となり単位不足となって留年も危ぶまれた。留年するぐらいであれば退学しようとも考えたが、どうにか進級できるとその後は徐々に体力もつき訓練や教練にもついていけるようになった。得意・不得意分野の差が大きく、成績は教官よりしばしば苦言を呈されるほど悪かった[7]。1937年3月23日、同期生160名と卒業、少尉候補生となる。1937年11月5日、軽巡洋艦「由良」乗組。1938年3月10日、海軍少尉に任官。

 
美濃部が搭乗した水上偵察機、手前が二座の九五式水上偵察機、奥が三座の九四式水上偵察機

1938年7月28日、第31期飛行学生を拝命し、1939年3月4日に卒業。三座の九四式水上偵察機の搭乗員となる。3月9日、館山空に着任。1939年8月10日、佐世保空に着任し、二座の九五式水上偵察機の操縦を学ぶ。11月1日、水上機母艦「千歳」乗組。1940年11月1日、軽巡洋艦「名取」の分隊長に着任し、援蒋ルートの拠点となっていた深セン港への攻撃任務に従事したが、ある日の任務中に中国軍の対空機銃により乗機が被弾したこともあり、うち1発は美濃部の飛行服の左ももを貫通していたが、幸運にも負傷はしなかった[8]。1941年1月31日、タイ・フランス領インドシナ紛争の一時停戦協定が名取艦上で締結されることとなり、名取は仏印(ベトナム)沖に停泊していたが、美濃部は艦長の山澄貞次郎大佐より、中央からの特命として、仏印駐留のフランス軍航空基地の調査任務を命じられたという。美濃部はサイゴン日本領事館が手配したベトナム人運転手が運転するハイヤーでフランス軍のツーラン基地に乗り付けると、不敵にもハイヤーを出入り口に待たせ、堂々と基地の入り口から入って中を見て回ってから急いでハイヤーに乗り込んで逃走し、調査任務を成功させたと回想している[9]

1941年2月には馬祖島に構築された仮設の水上機基地に第5水雷戦隊の水上機部隊を率いて着任、主に福建省福州市に対する偵察と爆撃任務に従事した。この頃美濃部は、中国との戦争目的に対する不審の念と、戦いへの虚無感を抱きつつあり、日本が提唱する大東亜共栄圏を心中で批判し、中国を侵攻する日本軍を「山犬のごとき日本占領軍」と称していた[10]。陸軍は1941年4月19日に福州上陸作戦を行うことになり、美濃部はその支援を命じられて、福州の砲台や中国軍守備隊の根城とされた集落を爆撃した。4月21日に陸軍が福州を攻略すると、次には深セン港への爆撃が命じられたが、美濃部機が目標上空に達すると、住民らがクモの子を散らすように逃げ惑う様子を見て「こんな所に4発ばかり爆撃して何の価値ありや。殺生の悲しみ、家財を焼かれた恨み増すばかり。この日爆撃中止、引き返す」と任務を放棄して帰還したという[11]。しかし、美濃部らが集落を爆撃した福州においては、空襲により380人以上の市民の犠牲者が出ていた[12]

1941年9月10日、軽巡洋艦「阿武隈」乗組、分隊長に着任。1941年(昭和16年)11月、美濃部貞功の娘篤子と見合いによって結婚した[2]。美濃部家は会津藩下級武士の末裔で鎌倉に居を構えていたが、子供は篤子が長女の4人姉妹であったので、美濃部家の意向により婿養子となって、太田から美濃部姓となった[13]

太平洋戦争編集

分隊長編集

1941年12月、太平洋戦争劈頭の真珠湾奇襲作戦に参加。真珠湾爆撃の写真を日本へ運ぶ[14]。機動部隊本隊より先に本土に帰ってこれたので、12月21日から25日まで休暇をもらって、鎌倉の妻の実家で一家挙げての歓待を受けて凱旋の幸せを存分に味わった[15]。年が明けて1942年となってからはで「阿武隈」を迎えたが、汽車で後を追ってきた篤子と1か月半遅れの新婚旅行を楽しんだ[16]。1942年1月に美濃部を乗せて出航した「阿武隈」はビスマルク諸島攻略作戦の支援を行ったが、作戦従軍中の1月11日に同姓の戦死者と間違われ実家に美濃部の戦死公報が届けられて母親や篤子を驚かせている。1942年4月に一旦「阿武隈」が内地に帰還したため、美濃部は篤子を伴って実家に帰省して母親を安心させている[17]。息つく暇もなくジャワ攻略作戦、インド洋作戦に参加、セイロン沖海戦では第一航空艦隊が英空母「ハーミス」を撃沈した時に、美濃部は九四式水上偵察機で10時間飛行し、沈没する「ハーミス」の写真を撮影している[18]。 美濃部によれば、第一航空艦隊を去る際に艦上高速偵察機10機による側方警戒を進言したが無視されたという[19]。しかし、当時供給可能な二式艦上偵察機(艦上高速偵察機、艦上攻撃機の試作機を改修したもの)は2機しか存在せず[20]、また、これによる側面警戒も最初の作戦打ち合わせの段階ですでに計画されていた[21]

 
美濃部が陸軍兵士と上陸したアッツ島の「アッツ村」(1937年の写真)

1942年6月、AL作戦日本軍によるアッツ島の占領作戦に参加。美濃部は陸軍部隊によるアッツ島上陸に先立った偵察任務を命じられたが、偵察飛行中にアメリカ軍兵士の姿や軍事施設を発見できなかったため、美濃部は水上機から降りると、数名の陸軍兵士とともにチャチャコブ港 英語版に上陸した。当時のアッツ島にはアメリカ軍兵士は1名もおらず、気象観測員チャールズ・フォスター・ジョーンズと教師をしていた妻のエタ・ジョーンズのアメリカ人2名と、アレウト族の原住民42名が居住していたが、チャールズは日本軍の上陸を確認すると、慌てて自宅にある無線機で「Japs coming Japs coming」と打電したのを阿武隈が傍受している。美濃部によれば、兵士を連れてアンテナが立っているチャールズの家を訪ねると、出てきたエタが命乞いをしてきたので、美濃部は笑顔で心配は要らないと声をかけて、日本軍の情報を発信できないよう無線機の使用だけを禁じてジョーンズ邸を後にした。任務を終えた美濃部は、この後上陸した陸軍部隊が、罪のないジョーンズ夫妻やアレウト族の住民をどう扱うつもりなのか嫌な思いを抱えながらアッツ島を離れたという[22]

しかし、妻のエタの証言では、上陸してきた日本兵は小銃を撃ちながら前進し、アレウト族の住民数名が軽傷を負っている。やがてジョーンズ邸に近づくと、窓や壁に小銃を撃ち込んできたが、チャールズはそれに構わずアメリカ軍のダッチハーバー基地に日本軍上陸の打電を続けたのちに、日本兵がジョーンズ邸に達すると自分から家を出て投降している。その後日本兵はジョーンズ邸に踏み入り、指揮官が銃剣をエマに突き付けながら、「ここには何人いる?」と質問し、エマは「2人」と答えている。日本兵はこの日は一旦引き上げたが、翌早朝に再度ジョーンズ邸を訪れるとチャールズを連行し、その後チャールズは日本軍の尋問を受けたが、尋問の途中で死亡している[23]。エタは日本軍からチャールズが尋問中に手首を切って自殺したと説明を受けたが、日本軍はチャールズをスパイと疑っており、拷問の上に殺害した可能性も指摘されている[24]。エタも数日後に日本軍に連行され、アレウト族の住民と一緒にそのまま捕虜として横浜に移動させられ、終戦まで日本本土の捕虜収容所で拘束されることとなったが、アレウト族の住民は栄養失調や病気などにより16人が死亡している[25]

1942年7月20日、小松島空分隊長を拝命。基礎課程を終えた海軍飛行予科練習生に水上機の実戦運用についての訓練を施している。美濃部はこの小松島で結婚後殆ど一緒に生活する機会がなかった妻篤子と、ようやく落ち着いた家庭生活を営むことができた[26]。この頃に連合艦隊司令長官山本五十六大将から、海軍士官に広く斬新な戦法や兵器についての意見募集があり、美濃部は、8機の彗星を搭載可能な大型潜水艦を50隻建造、1年間の訓練ののちに、アメリカ本土東海岸沖まで進出し、合計400機の艦載機でアメリカ本土の航空機生産工場を粉砕して、アメリカの航空機生産を中断させて戦局の打開をはかるべきとする斬新な意見を提出したが、採用されることはなかった。しかし、この美濃部の意見は図らずも、極秘裏に進められていた伊四百型潜水艦によるアメリカ本土やパナマ運河への攻撃計画と同じような内容であった[27]

938空編集

1943年10月20日、ソロモン諸島方面に展開する第938海軍航空隊の飛行隊長に着任。しかし、着任する予定であったショートランド島はすでにアメリカ軍に奪われて、航空隊はショートランド諸島のブカ島に撤退していた。ブカ島でも特に成果を上げることなく所属機は消耗してしまい、陸上でアメリカ軍の侵攻に備える日々が続いたが、まともな武器もなく、部下将兵に対して玉砕覚悟の悲壮な訓示を行っている[28]。しかし、美濃部はマラリアに感染してしまい、部下を残して1944年1月にラバウルの野戦病院に収容された。マラリアは持病となり、この後も度々発症して美濃部を悩ませることになった。野戦病院では小松島で教えた少年航空兵と再会したが、その少年航空兵は激戦の中で精神を病んで戦闘ストレス反応を発症しており、野戦病院でも言うことをまったく聞かないと匙を投げられるほどの重症であった。しかし、美濃部を見ると「教官もおられたんですか」と話しかけてきて、美濃部が見舞い品の羊羹をすすめると、少年航空兵はにこにこして羊羹をほおばりながら「こいつらは私を気狂いというんですよ」「教官、退院できるようにしてください。水上機に250㎏爆弾と20㎜機銃4門をつけて銃爆撃にいきたい」と懇願してきた。この精神を病んだ少年兵に教えられた攻撃方法は美濃部に強烈な印象を与え、のちの芙蓉部隊に繋がる航空機による夜襲作戦のヒントとなった[29]

1月末、美濃部は退院すると、ブーゲンビル島東端のブインに赴き、所属機の零式水上偵察機1機にニュージョージア島のアメリカ軍飛行場への夜間爆撃を命じた。アメリカ軍は油断しきっており夜間爆撃は成功して、美濃部は人材豊富な水上機搭乗員を零戦に搭乗させて、アメリカ軍基地に夜襲をかけるべきという、戦闘ストレス反応を発症させた教え子からヒントを得た戦術に自信を深めた[30]。美濃部はさっそく南東方面艦隊司令部に、美濃部の考案した戦術に基づき、水上機部隊である第983海軍航空隊に零戦の配備を上申したところ、成功経験に基づく上申であったので、司令長官草鹿任一中将名で水上機部隊に零戦を配備するという異例の発令がなされた[31]。2月6日、204空に臨時編入され、第二六航空戦隊司令長官酒巻宗孝中将に夜襲戦闘機としての夜間訓練を申し出ると251空の夜間戦闘機隊との訓練を紹介された[32]。2月17日、トラック島空襲により、美濃部の部隊に配備された零戦5機は全機が失われて計画は頓挫した。2日間に及ぶ猛攻で270機の航空機を撃破し、停泊していた41隻の艦船を沈めたアメリカ軍機動部隊の猛威は美濃部の心中に深く刻まれ、アメリカ軍機動部隊への対抗策を考えさせる大きな要因にもなった[33]。酒巻中将の手配で、美濃部は航空機補充のため日本本土に帰国した[34]

301空編集

 
第301海軍航空隊司令八木勝利中佐、美濃部が育成した戦闘316飛行隊の運用方針で美濃部と対立し更迭した。マリアナ諸島で戦闘316を消耗したのち、残った戦闘601飛行隊で硫黄島でF6Fヘルキャット相手に敢闘、21機を撃墜を報じたのち壊滅し解隊となった

1944年(昭和19年)2月、戦地から帰国した美濃部は軍令部に出頭、実兄で軍令部情報部に勤務していた太田守中佐に相談すると、軍紀違反になると忠告され、軍令部作戦第1課航空作戦部員源田実中佐に相談するように勧められた。零戦交付を掛け合うと源田中佐は「水上機部隊に零戦は渡せるものか」と否定的なので[35]、美濃部が「航空機の生産が低下し、しかも陸上機パイロットの激減により、もっぱら迎撃に終始し、進攻兵力がすくなくなった。しかし、水上パイロットは、なおも人材豊富である。その夜間技量と零戦を併用すれば、敵中深く侵入して攻撃が可能である」と進言すると[36]、源田中佐は判断が早く「特設飛行隊を編成せよ。NTF(南東方面艦隊)から外し22sf(第22航空戦隊)に編入する」と言い、その場で人事部、航空本部部員が呼ばれて決定された[37]

1944年2月25日、美濃部は301空戦闘316飛行隊長着任した。戦闘316飛行隊には、美濃部の希望通り熟練水上機搭乗員多数が配属された。美濃部は気心知れた熟練水上機搭乗員の分隊長を通じて、自分の構想通りの猛訓練を行い、人生で一番の充実感を味わったが[38]、戦闘316飛行隊が配属されていた第301海軍航空隊は局地戦闘機雷電を主力とする対戦闘機の要撃任務が主であり、司令の八木勝利中佐は戦闘316飛行隊に「グラマンとの空戦をやってくれ」と要求したのに対して、あくまでも301空所属は便宜的なものであり「夜間攻撃隊の目標は空母です」と譲らない美濃部の対立は決定的となり、運用方法の相違から美濃部は戦闘316飛行隊隊長を解任された[39]。戦闘316は美濃部考案の夜襲に特化した訓練しか行っておらず、搭乗機は新型の零戦52型ながら、水上機あがりの搭乗員たちには対戦闘機空戦技術は殆どなく、先遣隊の18機が1944年6月11日にテニアン島でアメリカ軍艦載機の迎撃に出撃し10機未帰還、遅れてテニアン島に到着した八木に直卒された主力18機も、6月15日にアメリカ軍艦載機60機を迎撃したが、一方的に17機が撃墜されるという惨敗を喫して壊滅した[40]。美濃部は、敵機動部隊に対する独自の特攻戦術(「特攻」の節を参照)を考案し、あ号作戦で実施するべく準備を進めており、司令のせいでそれを実施できなかったことがあ号作戦敗戦の一因と語っており[41]、戦後になって、このときの更迭人事をおこなった八木と人事担当者を許せないと回想している[42]

302空編集

5月25日、第302海軍航空隊第2飛行隊長(夜間戦闘機月光で編成)に着任。美濃部はマラリアのぶり返しで40度の高熱を出して寝込み、海軍の除隊まで考えていたが、司令の小園安名大佐から励まされて翻意した[43]。月光隊にはラバウルで小園の下で活躍した遠藤幸男大尉が分隊長として所属していたので、B-29邀撃任務の指揮は遠藤に任せて、美濃部は夜襲部隊の再編に注力した[44]

1944年7月4日に硫黄島父島を襲撃したアメリカ軍機動部隊に対して、夜襲戦術を始めて活かす機会に恵まれ、美濃部は、7月5日未明に索敵に月光6機、攻撃隊として月光1機と零戦2機の3機小隊6個の合計18機(含む偵察機で24機)を出撃させた。しかし、本来はB-29の邀撃のための訓練をしてきた302空の月光にとって、60㎏爆弾を2発搭載したうえで、速度が速い零戦を伴って夜間の洋上を進攻するのは大変な負担であった[45]。結局、アメリカ軍機動部隊とは接触できずに、月光1機、零戦4機を損失したが、攻撃隊が向かっていたときにはすでにアメリカ軍機動部隊は父島近辺から離脱しており、初めから敵を発見できる可能性は皆無の出撃であった。唯一称えられるのは、出動命令とはいえ、不慣れで困難な任務に立ち向かった搭乗員の精神力だけという結果に終わってしまった[46]。この攻撃と同時期に、実質的に月光隊を指揮してきた遠藤は、3機の月光を率いて本来の任務であるB-29迎撃のために大村航空基地に派遣されており、この攻撃には出撃していなかった[47]。8月20日に北九州に来襲したB-29を迎撃した遠藤は、撃墜確実2機、不確実1機、撃破2機の戦果を挙げる活躍を見せて軍内にその名を轟かせている[48][49]。この攻撃直後に美濃部が在任わずか2か月弱で第302海軍航空隊第2飛行隊長から異動したことについて更迭だったとする意見もある[50]

153空編集

捷号作戦前編集
 
1944年10月下旬、マニラ・ニコラスフィールド基地での戦闘901飛行隊集合写真、前列でステッキを持っているのが美濃部

1944年7月10日、第一航空艦隊第一五三海軍航空隊戦闘901飛行隊長に就任。美濃部は第一航空艦隊の司令部のあるダバオに出頭し、かつて美濃部の海軍兵学校時代の教官であった第一航空艦隊主席参謀の猪口力平中佐と面談したが、敵が目前まで迫っているにも関わらずその緊張感のなさと[51]、対空警戒能力、哨戒能力への関心の低さに呆れている[52]。8月、美濃部によれば、戦闘901飛行隊に零戦5機と月光7機が補充され、アメリカ軍機動部隊への夜襲を目指して夜間哨戒を強化したというが[53]、猪口によれば、この頃の美濃部は、激化していたアメリカ軍のB-24による夜間爆撃に対する邀撃任務に熱心であり、猪口ら第1航空艦隊幕僚に「探照灯で敵を捕捉してさえくれれば、一撃のもとに撃墜してみせる」と強気な発言をし、その発言を実行するため、毎夜明け方まで自ら月光に搭乗して目標機となって、防空隊の探照灯訓練に協力していたという[54]

しかし、B-24は大編隊を組んで昼間に堂々と来襲するようになり、1944年9月1日には55機のB-24が来襲した。昼間は戦力温存策をとっていた美濃部ら日本軍戦闘機隊は迎撃を自重していたので、B-24は海軍の高角砲で2機を撃墜されながらも、悠々と爆弾を投下してゆき、日本軍は3機の航空機が地上で撃破され、そのうちの2機が戦闘901の月光だった[55]

一方的に地上で月光を撃破されて激昂した美濃部は、第153空司令の高橋農夫吉大佐に、夜間戦闘機隊である戦闘901での昼間出撃を申し出て、翌9月2日には三号爆弾を搭載した月光4機、零戦2機を出撃させた。しかし、美濃部が命じた夜間戦闘機隊の昼間出撃は全くの裏目に出て、B-24の護衛についていたP-38の20機が上空より夜間戦闘機隊に襲いかかった[56]。奇襲を受けた月光と零戦は慌てて三号爆弾を投棄すると、B-24の迎撃を諦めて離脱しようとしたが、零戦1機がたちまち撃墜され、月光1機も被弾して不時着水して機体と操縦士が失われた。そんななかで、中川義正一飛曹が操縦する月光は、雲のなかに突入して一旦P-38の追撃をかわすと、空襲を終えて帰還しようとしていたP-38の1機を捉えてこれを撃墜した。中川の個人的な活躍はあったが戦闘としては惨敗であり、全く敵戦闘機の護衛を想定していなかった美濃部は「これは大変なことになった」と考えて、自分から申し出た夜間戦闘機による昼間出撃をたった1回の出撃で断念せざるを得なくなった[57]

殊勲の中川は、次に9月5日に夜間爆撃に来襲したB-24に体当たり(対空特攻)を敢行、幸運にも中川の月光は損傷しただけで無事帰還し、体当たりされたB-24はバランスを崩して高度を下げていったので撃墜と認定されたが、この対空特攻がのちの特別攻撃隊編成の機運を盛り上げることになったと猪口は回想している[58]。この撃墜と認定されたB-24「ミス・リバティ号」は、甚大な損傷で油圧系統のパイプが切断されながらも、ローランド・T・フィッシャー中尉の巧みな操縦で最寄りのオウィ島に不時着したが、全損で廃棄となった[59]

1944年9月10日早朝4時に、海岸の監視哨から「湾口に敵上陸用舟艇が見える」との報告があった。にわかには信じがたい情報に第一航空艦隊司令部は夜明を待って偵察機を飛ばすことにしたが、夜明を待たずに敵発見の第一報をした第32特別根拠地隊が「敵上陸開始」「敵戦車15,000mまで接近」と具体的な続報を送ってきて、機密書類焼却や戦闘準備を始めたので第一航空艦隊司令部も浮き足立ってしまい、美濃部らがいた第2ダバオ飛行場に撤退してしまった[60]。10日夕方になって、敵上陸はまったくの誤報であることがわかり、のちに海軍最大の不祥事のひとつとして、平家の大軍が、水鳥が羽音を源氏の襲来と誤認して逃げ散った「富士川の戦い」の故事に因んで「ダバオ水鳥事件」とよばれることになった[61] 。この日は早朝から、美濃部はダバオ第2飛行場で9月9日のアメリカ軍艦載機による空襲の跡片付けをしており[62]、第一航空艦隊司令部からの撤退命令があったとき偶然にもダバオ湾が一望できる山腹中央の指揮所にいたが、敵の上陸を目にしていなかったので撤退命令を不審に思い、自ら運転してダバオの司令部に向かった。途中で撤退してきた第一航空艦隊の車列と鉢合わせになったので、運転してきた車で進路を遮って停車させ、司令長官の寺岡謹平中将に「長官、第二ダバオに水陸両用戦車近接中と言われますが、湾内に船1隻見えません」と進言した、そこに猪口が「サマール島の陰になっていよう」と口を挟んできたので美濃部はダバオ第1飛行場に残されていた1機の零戦で偵察飛行をすることも提案し、寺岡らに第2ダバオ基地で自分が偵察飛行してくる間待機しておくよう進言、美濃部はその後にダバオ第1飛行場まで行くと16時30分に自らの操縦で零戦を飛ばして偵察を行い、アメリカ軍上陸は誤報であったことを確認のうえ報告したと主張している[63][64]

しかし、寺岡と一緒にダバオを発った猪口の著書と第一航空艦隊司令部付で寺岡の副官であった門司親徳海軍主計少佐の著書のいずれにも移動中に美濃部に引き止められたなどとする記述はなく、寺岡は猪口ら参謀らを第2ダバオ基地に残し、“大事をとって”第三十二特別根拠地隊司令部が撤退したミンタルまで一部の司令部要員と移動して、そこで敵上陸は誤報であったとの報告を受けている[65][66]。また、美濃部は第1ダバオ基地で201空副長玉井浅一中佐と会い、零戦の貸与を要請したが、セブ島まで撤退する玉井が使用するので貸与できないと拒絶され、他の零戦を工面するのに1時間かかったなどと回想している出典もあるが[67]、美濃部の遺稿には玉井とのやり取りの記述はなく、出典によって美濃部の主張が相違している[68]

また、美濃部率いる戦闘901は9月9日に美濃部が前から計画してきた夜間戦闘機によるアメリカ軍機動部隊への夜襲を行うため、稼働全機となる月光9機、零戦2機をレイテ島タクロバン飛行場に集結させ、まずは同日深夜に森国雄大尉を指揮官として三号爆弾を搭載した月光3機をフィリピン東方洋上に索敵攻撃に出撃させている[69]。この攻撃は、美濃部の遺稿によれば、森が率いる「レイテ島分遣隊」単独の作戦とされているが[70]、実際には戦闘901の月光の稼働機全機が集結しての総力攻撃作戦であった[71]。月光隊はアメリカ軍機動部隊に接触することなく2機が未帰還で指揮官森国雄大尉を含む4名が戦死、もう1機もF6Fヘルキャットの攻撃で偵察員が戦死し、操縦の陶三郎上飛曹が損傷した機体でどうにか10日の未明に生還するという一方的な惨敗を喫しており[72]、10日未明に大損害を被った戦闘901を置いたまま、同日早朝には自分の飛行隊がいない第2ダバオ飛行場にいて9日のアメリカ軍による爆撃の後始末を行い、そのときに誤報事件に巻き込まれたことになるが[73]、戦闘901が属する第一五三海軍航空隊戦時日誌戦闘詳報によれば、ダバオにあった戦闘901の月光3機と零戦1機は9日の空襲で全機被弾し、うち1機が大破、2機が中破しタクロバンには集結できなかったとされており、美濃部が温めてきたアメリカ軍機動部隊への夜襲作戦を、自分の指揮下の航空隊が実施しながらまったく関与していなったことになる[74]

また、猪口によれば、敵上陸の情報に確信が持てなかったため、残っていた零戦で航空機の操縦ができる操縦士あがりの小田原俊彦参謀長と松浦参謀に偵察を要請、美濃部らがいた第2ダバオ飛行場に撤退したところで、両参謀及び独自判断で偵察飛行した201空副長玉井浅一中佐から誤報であったとの報告を受けて「敵上陸の報告は全部取り消し」と全部隊に打電したとのことで、美濃部の名前は登場しない[75]。この不祥事件については、後日その調査のために軍令部参謀の奥宮正武中佐らが査察にダバオを来訪している。美濃部の遺稿によれば、このとき美濃部は奥宮から事情聴取を受けたと記述されているが[76]、奥宮の著書には美濃部と面談したという記述はなく、第一航空艦隊司令部に事情聴取を行ったとしている。奥宮らの事情聴取に対して司令長官の寺岡や猪口ら司令部幕僚らは多くを語らなかったが、玉井からは、「一発の砲声も聞こえなかった。敵機の姿もなかった。そこで、不審に思って、残っていた零戦を操縦して、サランガニ湾の内外を見たが、敵影はなかった。その結果、誤報であることが判明した」と詳細な状況説明があり、奥宮は明快な説明という感想を抱いた。そののちに「陸・海軍を合わせて、大ぜいの参謀がいるのだから、誰か高いところに上がって、状況を確かめればよかった。机の上の作戦とはそんなものだよ。」との嘆きも聞かされたとと記述しており、美濃部の主張とは違っている[77]

 
クラーク基地に放置されアメリカ軍に鹵獲された第153海軍航空隊の月光、戦闘901飛行隊の所属機かは不明

9月21日には、マニラを襲撃したアメリカ軍機動部隊を偵察攻撃任務に就いていた月光隊が捕捉に成功、薄暮にアメリカ軍空母を攻撃し、9日の出撃でF6Fヘルキャットの攻撃から辛くも生還した陶の月光が250㎏爆弾1発の命中を報告したが[78]、月光1機が撃墜され、零戦1機も未帰還となり、この日をもって戦闘901は壊滅状態に陥った[79](アメリカ軍側の記録では、1944年9月21日に被害なし[80])。2か月間に14機という損失に加えて[81]、搭乗員の損失が壊滅的であり、分隊長ら士官は全員戦死しパイロットも当初の1/3になるまで消耗してしまった[82]。美濃部は逆境下でも、夜襲隊の構想を諦めず、海軍省功績調査部に「今次数度の戦闘において丙戦(主に夜間戦闘機のこと)訓練と用法により新しき戦闘方策を樹立せるを実証せり。即ち、敵空母に対し未明発艦前の敵飛行機を甲板上に破壊し、爾後わが昼間戦闘を有利にす」という戦闘日誌を提出している[83]。9月下旬に美濃部はニコルス飛行場いたが、そこで、クラーク基地の指揮を執っていた第二六航空戦隊司令官有馬正文中将より「美濃部君、君の主張する夜戦隊の夜襲計画は極めてよい」と声をかけられて、美濃部が構想していた夜襲部隊の編制についての支援を得られることとなり、美濃部は水上機搭乗員10名を連れクラーク基地で水上機から零戦への機種転換訓練を行うことになった[84]

10月10日、アメリカ軍機動部隊(第38任務部隊)が沖縄本島に攻撃を行ったことを受け、第二航空艦隊長官福留繁中将は索敵を命じ、11日正午に機動部隊を発見、敵情から12日に台湾が空襲されると予測されたため、作戦要領を発令し、主力のT攻撃部隊には「別令に依り黎明以後、沖縄方面に進出し台湾東方海面の敵に対し薄暮攻撃及び夜間攻撃を行う」と意図を明らかにした[85]。12日、13日にT攻撃部隊は敵機動部隊に攻撃を行い、14日の総合戦果判定で大戦果を報告したため、敵は空母の大半を失ったと考えられた[86]。しかし、報告された戦果の大部分は誤認であり、元来目標や戦果の確認が困難である夜間攻撃が原因の大半だった[87]。正確な戦果確認がほぼ不可能な夜間攻撃では、過大な戦果報告となってしまうのは、戦果確認任務で飛行したソロモンで美濃部も痛感していたという意見もある[88]

14日、大戦果の報を受けた連合艦隊司令部は、徹底的に戦果拡充する好機と判断し、第5(第一航空艦隊)、第6(第二航空艦隊)各基地航空部隊に索敵と追撃を命じた[89]。10月15日、第二十六航空戦隊司令官有馬正文少将は第1航空艦隊の総力を挙げて、ルソン島東方海上に現れた敵機動部隊を攻撃することとし、第1次攻撃隊には零戦25機(うち250㎏爆弾を搭載した爆戦6機)、第2次攻撃隊として一式陸上攻撃機13機、零戦16機を出撃させ[90]、有馬自身も「指揮官にはおれが行く」といって一式陸攻の一番機に搭乗して出撃した[91]。有馬は美濃部の意見に同調し、美濃部に夜襲部隊編成と訓練を命じていたが、この日の出撃は白昼となり、アメリカ軍機動部隊の150㎞前方でレーダーで発見されて、艦載戦闘機の迎撃で一式陸攻隊は全滅し、有馬は敵艦隊に達することなく戦死した[92]。クラーク基地からの全力出撃で、水上機搭乗員の訓練に尽力していた美濃部も有馬から「武人は死ぬべきときに死なぬと恥を残す。もう訓練しているときではないよ」と出撃を打診された。美濃部は所属部隊である153空の許可を得るためマニラに飛んだが、クラーク基地に帰ってきたときにはすでに有馬は出撃した後だった[93]。美濃部は、有馬をのちの芙蓉部隊誕生の恩人としているが、一緒に出撃することはできなかった[94]

捷号作戦編集

10月25日、第1航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将によって編成された神風特別攻撃隊が最初の特攻を行い、アメリカ軍護衛空母撃沈を含む大きな戦果を挙げた。その夜、第一航空艦隊の航空隊指揮官が集められ、跳梁する敵のPTボート対策について話し合われた。司令部に有効な対策なく、大西は参加した指揮官らに意見を求めた。誰も発言しないなかで、先輩に遠慮して発言を控えていた美濃部が「やります。敵の懐セブ島に進出します。オルモック湾までわずか60キロ。昼間は飛行機をジャングルに隠し、夜間に出撃します」と自分の部隊に任せてほしいと発言すると、大西は「うむ、よし。魚雷艇は153空に任す、634空の水爆隊も協力せよ」とPTボート対策を、美濃部の夜間戦闘機隊と、江村日雄少佐率いる第六三四海軍航空隊の水上機瑞雲 に任せることとした[95]。1944年10月末、戦闘901は零戦4機、月光3機の稼働機全機をもってセブ島の基地に進出し、11月1日より零戦2機ずつをPTボート狩りに出撃させた。PTボートは高速航行するので、航跡でヤコウチュウの光が帯となり上空からは容易く発見でき、またガソリンエンジンで発火しやすいため、エンジンを狙って機銃を撃ちこめば簡単に炎上・爆発すると美濃部は考え[96]、PTボート狩りに出撃する零戦搭乗員に「思い切って肉薄せよ、一撃でよい。」と低空飛行でPTボートに肉薄し弱点であるエンジンに銃撃せよと命じている。美濃部の指示通りPTボートを攻撃した零戦隊は、11月1日~7日のわずか1週間の間で6隻の撃沈を報告した。この損害によりアメリカ軍PTボートは鳴りを潜め、日本軍の夜間の損害は激減し[97]、この成功体験が夜襲部隊構想に対する自信に繋がり、のちの芙蓉部隊編成のきっかけともなったと美濃部は主張している[98]

しかし、アメリカ軍側の記録では、1944年11月のアメリカ軍PTボートの戦闘損失は、11月6日に戦闘901以外の日本軍機の水平爆撃によりPT-320の1隻が全損したのみである[99][100]。この他、10月26日にPT-132、27日にPT-523がいずれも急降下爆撃による被弾で損傷し、13人が戦死、オーストラリア軍従軍記者を含む多数が負傷しているが、これは戦闘901のセブ島進出前の損害である[101][102]。また、PTボートは航空機の機銃掃射で簡単に炎上・爆発すると美濃部は考えていたが[103]、航空機の機銃掃射で撃沈されたアメリカ軍PTボートは、1942年4月9日にフィリピンセブ島近海で、特設水上機母艦讃岐丸から発進した零式水上観測機4機に集中攻撃を受けて撃沈されたPT-34の1隻にすぎなかった[104]

美濃部の回想とは異なり、この後もアメリカPTボートの勢いが衰えることはなく、フィリピン戦において、主要任務の日本軍補給路の寸断や兵員の海上移動の阻止のための、大発動艇や他小型船への攻撃で、1945年3月までに大発動艇などを200隻以上撃沈して海上輸送を困難にさせたうえに、攻撃してきた日本軍機を逆に6機撃墜し[105]、魚雷攻撃によって駆逐艦清霜卯月を撃沈するなど暴れまわり[106]、他にも特攻艇の破壊やゲリラ支援任務などでも活躍し日本軍を苦しめて、アメリカ軍の勝利に大いに貢献している[107]

美濃部ら戦闘901飛行隊がセブ島に進出していたころ、レイテ島に上陸したアメリカ軍はタクロバンに飛行場を整備し、多数の航空機を配備して日本軍の脅威となっていたため、第1航空艦隊は航空機によるタクロバン飛行場攻撃を計画したが、正攻法では飛行場に近づくのも困難であるため、夜陰に紛れての零戦の夜間戦闘機による夜襲をかけることにした。これは、美濃部が構想して実際に部隊編成や訓練を行ってきた戦術そのものであったが、美濃部の901飛行隊には出撃の声がかかることはなく、 同じセブ島に配属されていた戦闘第165飛行隊の零戦12機が夜間に出撃し、戦艦武蔵の艦長として武蔵と運命を共にした猪口敏平中将の息子猪口智中尉機を含む11機が、黎明の攻撃で未帰還となっている[108]

11月10日、第1航空艦隊司令長官大西瀧治郎は美濃部を司令部に呼び出した。美濃部によれば、多号作戦で輸送艦隊の脅威となっているコッソル水道のアメリカ軍飛行艇とPTボート基地への攻撃を命じる際に特攻を示唆され、美濃部はこの命令を持って帰れないが、断ることもできないので、自分のやり方で攻撃はやってみせると返答し、結局大西は基地攻撃を取りやめたという[109][110][111]。大西中将は、美濃部の夜襲の主張に怒ることもなく「それだけの気概と抱負をもった指揮官であったか、よしすべて君に任せる」と夜襲戦法を容認した[112]

芙蓉部隊編集

天号作戦前編集
 
芙蓉部隊隊員の集合写真、前2列目中央無帽の人物が美濃部、ソロモンでアメリカ軍捕虜から譲り受けた革製のフライトジャケットを着用している。
 
芙蓉部隊の主要機「彗星」と部隊名の由来となった富士山、写真の水冷エンジン型「彗星」は艦上爆撃機としては高速であったので、戦闘機に転用されて芙蓉部隊などの夜間戦闘機隊に優先的に配備された

1944年11月25日、大西中将は美濃部を司令部に呼び出すと「君の所の夜襲隊はよくやっている。至急内地に帰って夜襲隊を錬成し、来年1月15日までに(フィリピンに)再進出せよ」と命じた。美濃部は部下を残していくことに抵抗を感じたが、大西の「中央には夜襲隊の育成について配慮するように手配する」と有無を言わさない命令であったため[113]、戦闘901飛行隊は、戦力の再編成のため内地の752空に編入されることとなり、美濃部はフィリピンを離れて12月1日に第三航空艦隊司令部のある木更津に帰還した[114]。このときに置き去りにされた本部及び地上勤務者は、1945年1月6日ルソン島に上陸してきたアメリカ軍を、153空司令の和田鉄二郎大佐の指揮のもと山中のゲリラ戦で迎え撃ったが、終戦までに和田以下大多数が戦死している[115]

戦闘901は戦力補充後、1945年1月にフィリピンに再進出することとなっていたが、752空は元々陸上攻撃機主体の航空隊であり、夜間戦闘機隊の扱いには慣れていなかったこともあり、901飛行隊は美濃部にほぼ一任された[116]。752空は既に攻撃3隊と偵察1隊を擁しており、木更津基地には901飛行隊を受け入れる余裕がなかったため、美濃部はまず自分らの基地探しから始めなければならなかった。美濃部は自ら零戦に搭乗し基地探しをしたが、空中から見つけた海軍建設中の藤枝基地が適地と考えて、基地司令の市川重大佐に直談判し快諾を得た。美濃部は根拠地となった静岡県藤枝基地から見える富士山にちなんでこの部隊を芙蓉部隊と命名した。752空は第三航空艦隊の所属であったが、司令は「ダバオ水鳥事件」の失態で第一航空艦隊司令を更迭されていた元上官の寺岡であった。美濃部は、物資不足の折、貴重な静岡蜜柑2箱を手土産に自ら零戦を操縦し、木更津基地の第3航空艦隊司令部の寺岡を訪ねて、芙蓉部隊という部隊名使用の許可と隊旗の揮毫を願い出たが、第一航空艦隊司令時代から美濃部を高く評価していた寺岡は「美濃部君が胡麻すりをする筈がない。副官、希望通りにするよう」と美濃部の異例の申し出を快く了承している[117]。寺岡筆の隊旗は以後藤枝の指揮所に掲げられた[118]

美濃部の部隊再建のため、編成や機材など軍令部作戦課が担当して取り掛かった。機材について美濃部は、使い慣れた月光の配備を希望したが、すでに生産が中止されており、十分な数が揃わないことが判明、次に新鋭陸上攻撃機銀河を希望したが、20機ぐらいしか準備できなかったので、整備が困難で、各隊が使いたがらなかった水冷エンジン彗星12型が大量に余剰している事を聞きつけ、彗星12型を主力機とすることにしたという[119]。しかし実際は、芙蓉部隊に主に配備された水冷エンジン型の彗星は、夜間戦闘機用に海軍直轄の工作庁であった第11航空廠で製造されていた生産されていた機体で、彗星の大増産計画に伴って開発された空冷エンジン型彗星33型と比較して速度性能や上昇性能に勝っていたものを[120]、夜間戦闘機隊として編成された芙蓉部隊に優先的に配備されたものであり[121]、扱いに困った余剰の機体を押し付けられたいうのは美濃部の誤認であった[122]。また、美濃部は人事局のリストから優秀な水上機搭乗員を指名し、その他の地上人員も人事局から厚遇された[123]

1945年2月に入るとフィリピンより脱出してきた夜間戦闘機隊812飛行隊と804飛行隊も藤枝基地に配置されたが、901飛行隊と合わせて3個飛行隊が美濃部に委ねられた。美濃部の肩書は3個飛行隊の最先任飛行隊長に過ぎず、形式上の指揮官は関東空司令となっていたが、第3航空艦隊司令寺岡の方針もあり、美濃部が実質的な指揮官となっていた。この指示は口頭で伝えられており、大戦末期の海軍の部隊編成は混乱を極めていた[124]。美濃部は藤枝基地で、昼夜逆転生活、夜間洋上航法訓練、座学といずれも夜襲に特化した猛訓練を行い、やっと離着陸ができるようになった経験の浅い搭乗員でも、往復約1,700km、約5時間にも及ぶ夜間飛行が可能となるまで鍛え上げた[125]

藤枝で再編成を進めていた芙蓉部隊であったが、戦局の悪化により、フィリピン再進出は中止された[126]。本土防衛のため錬成途中の芙蓉部隊であったが、硫黄島にアメリカ軍機動部隊が侵攻してくると、その迎撃のため、美濃部は1945年2月17日に芙蓉部隊に出撃を命じた。その出撃で美濃部は部下に特攻を指示し、別れの盃(別盃)が交わされている。出撃を命じられた鞭杲則少尉によれば、「空母を見つけたら飛行甲板に滑り込め」と命令され、搭載機の破壊と発艦阻止、特攻機突入による火災で味方機に敵の位置を知らせるという狙いがあったという[127]。河原政則少尉によれば、指揮所に行くと、志願をしてもないのに自分の名前が出撃者名簿の中にあり、美濃部は別盃が並んだテーブルを前に、河原ら特攻出撃者に「機動部隊を見たらそのままぶち当たれ」と命じられ、河原らは美濃部と基地司令の市川大佐とひとりひとり握手を交わして出撃したが、結局出撃した全機が敵を発見できず引き返した。帰還した攻撃機を美濃部と市川が迎えたが、着陸後まもなくアメリカ軍艦載機が来襲し、帰還したばかりの芙蓉部隊の彗星6機と零戦1機を撃破した。美濃部と市川は間一髪のところで防空壕に飛び込み無事であったが、一度に7機もの作戦機を喪失した芙蓉部隊は再出撃することができなくなった[128]

空襲の後始末に追われる芙蓉部隊の隊員の間に、芙蓉部隊が第二御盾隊との名称で特攻出撃するという噂が広まった。2月17日に美濃部が特攻命令を下したことにより、他の航空隊での特攻隊編成指示の話を一部の隊員が早合点して、芙蓉部隊に特攻命令が下ったとの噂が広まったものという指摘もある。芙蓉隊員らは激情と不安を抑えきれず、酒宴を開いて夜の基地内に大きな歌声を響かせた。その騒ぎを巡検の当直士官も鎮めることができなかった。そこで、この噂の原因ともなった特攻命令を下した美濃部は、騒ぎを鎮めるため、搭乗員を集合させると「俺はお前らを特攻で絶対に殺さん」と約束している。美濃部の約束を聞いてまもなく芙蓉部隊の騒ぎは収まったが、坪井飛曹長は「すごいことを言う人だと思ったが、同時に気が抜けた」と証言している[129]。実際の第二御盾隊は第六〇一海軍航空隊で編成され、2月21日に、彗星12機、天山8機、零戦12機の合計32機(内未帰還29機)が硫黄島を支援するため出撃し、護衛空母ビスマーク・シーを撃沈、正規空母サラトガ大破、死傷者800名超など大戦果を挙げた[130]

1945年2月下旬、連合艦隊[131]もしくは三航艦司令部による沖縄戦の研究会が実施された。その会議で説明のあった練習機の特攻に対する反論[132]あるいは地上撃破を避けるための作戦機秘匿の提案を行った[133]。(詳細は「特攻」の節を参照)

第3航空艦隊司令の寺岡は、美濃部が指揮をとりやすくなるよう、3月5日に芙蓉部隊の901飛行隊と812飛行隊の2個飛行隊を752航空隊から131航空隊に編入し、美濃部を131空の飛行長に任じた。飛行長の肩書がつくと、航空隊の飛行機と整備科の地上指揮をとれるので、これまでの最先任飛行隊長という立場と比較すると格段に権限が強化された。3月20日には804空も131空に編入され、芙蓉部隊の3個飛行隊が正式に同一航空隊となり、名実ともに芙蓉部隊が統一運用されるようになった。131空の司令は浜田武夫大佐であったが、浜田が芙蓉部隊を指揮することはなく、芙蓉部隊の3飛行隊は131空から実質的に独立し指揮は美濃部に一任された [134]。美濃部は、海軍省人事局や海軍航空本部からも厚遇されて、若い優秀な搭乗員を優先的に芙蓉部隊に配置してもらっている。そのため芙蓉部隊は補充人員が定員を大幅に上回ることとなり、指揮官の美濃部が新入隊員を把握できないほどであった[135]

天号作戦編集
 
鹿屋基地に進出直前の芙蓉部隊幹部、前列中央が美濃部、美濃部の左が戦闘812の飛行隊長徳倉正志大尉、右が戦闘804の飛行隊長川畑栄一大尉、1945年3月30日藤枝基地での撮影

1945年3月26日、連合軍が慶良間諸島に上陸を開始し沖縄戦が開始されると、3月30日と31日に美濃部は、芙蓉部隊のうちで熟練した隊員らを零戦15機と彗星25機とともに、鹿児島県鹿屋基地へ進出させた。藤枝基地でも経験の浅い搭乗員らの訓練を行い随時要員を交代させて攻撃の継続を可能にした[136]

沖縄戦では第5航空艦隊の命令で、敵飛行場、敵艦隊に対する夜間攻撃、敵艦隊の索敵などの多様な任務をこなしたが、特に菊水二号作戦以降は、特攻援護のため陸軍航空隊第6航空軍の重爆撃機と協力しての敵飛行場夜間攻撃が主任務となった[137]。アメリカ軍飛行場は強力な対空砲火と、レーダー搭載の夜間戦闘機F6F-5N“ヘルキャット”とP-61“ブラックウィドー”などの夜間戦闘機により固く守られており、特に夜間戦闘機が芙蓉部隊最大の障害で[138]菊水作戦発令前の偵察任務で、彗星に搭乗していた偵察員鈴木昌康中尉が潜水艦らしき艦影を発見し、操縦員の坪井飛長に接近を命じたところ、退避する様子もなかったため、味方艦と判断し帰投した。その報告を聞いた美濃部は烈火のごとく怒り、「ばかもの!この時期に味方の艦艇がうろうろしているわけがない、敵に決まっている」と決めつけ「なぜ接近して機銃でも撃ちこまん」と激しく叱責した。鈴木はこのことを気にしてか、一週間後の特攻機誘導任務では深入りし未帰還となっている[139]。また、不調で引き返した機体については、美濃部が自らエンジン音を確かめて不調ではないと判断すると、すっかりと陽がのぼっていたのにもかかわらず再出撃を命じている。その機は無事に帰還することができたが、その搭乗員は後に「あのときほど指揮官(美濃部)がうらめしく、怖かったことはない」と述べている[140]。美濃部の任務に対する厳正な姿勢もあり、芙蓉部隊の損害は他の通常攻撃の部隊より大きいものとなったとする意見もある[141]。1945年4月12日の出撃で戦死した清原喜義上飛曹の父親より、戦死の状況について問い合わせがあったときには自ら長文の詳細を記述した手紙をしたため父親に送っている。この手紙は戦後に遺族から土浦駐屯地内にある予科練記念館「雄翔館」に寄贈されて今も展示されている[142]

美濃部が考えた敵航空基地への攻撃法は、「夜間、黎明に超低空で敵基地に接近、零戦は機銃で敵地上機を掃射し、彗星は超低空から三式一番二八号ロケット爆弾などを使用した必中爆撃」であり、菊水作戦開始当初はこれに基づいて、零戦や彗星が低空飛行での精密攻撃を行っていたが[143]、激烈なアメリカ軍航空基地の対空砲火で多大な損害を被ったことにより、大幅な作戦変更に追い込まれた。美濃部がソロモンで夜襲部隊の構想を抱いてからもっともこだわってきた零戦夜間戦闘機による敵航空基地への夜襲は、損害ばかりが増えて効果は乏しかったため断念し[144]、彗星による爆撃も、敵対空砲火が濃密な高度2,000m以下での精密爆撃を諦めて、高度4,000mで敵航空基地に接近後急降下し、高度3,000mで投弾するという戦術に切り替えざるを得なかった[145]。 急降下爆撃の投弾高度については、日本海軍は様々な実験で導かれた「800m以上(の投弾)にては命中率著しく低下する」という急降下爆撃の投弾高度の分析で[146]、急降下爆撃基準投下高度を700mと定め[147]、さらに太平洋戦争に突入すると、それまでの戦訓により「高度2,000mから角度45度以上の急降下で突入、高度400mで投弾」とさらに投弾高度を引き下げており[148]、芙蓉部隊の投弾高度3,000mでは明らかに高すぎて効果的な爆撃は望むべくもなかった。芙蓉部隊は主要兵装として海軍中央の反対を押し切ってまで採用した、命中率が高い三式一番二八号ロケット爆弾も射程500mに過ぎず[149]、使用できなくなっている。超低空からの必中攻撃で多くの未帰還機を出した4月中と比べると、3,000mからの爆撃が主となった5月以降は、芙蓉部隊機の出撃機数に対する損失率は減少しており、美濃部の対策が奏功することとなったが、逆に戦果報告も具体性を欠くものが多くなっている[150]

芙蓉部隊が所属していた鹿屋基地は、海軍航空隊特攻の最大基地であったため、特攻に苦しめられたアメリカ軍から目の敵にされ、B-29が日本の都市や工業地帯への絨毯爆撃から、 鹿屋基地などの九州の航空基地の攻撃に転用されるなど[151]、激しい攻撃を受けるようになったので、美濃部はたまりかねて、5月中旬、芙蓉部隊を鹿屋から約27kmに離れた岩川海軍航空基地に移動させた[152]。この岩川の移動については、美濃部は自ら車で相応しい基地を探して回った際に見つけて、美濃部が主導したと主張している[153]。しかし、当時の記録では、九州を襲ったアメリカ軍機動部隊に有効な反撃ができなかったのを重く見た第5航空艦隊司令部が5月15日に夜戦隊の配備を「岩川又は志布志」と定めている[154]

岩川基地は、海軍が1944年5月に飛行場建設を計画、その発表がなされた5月7日に、地権者に対して40日あまりで立ち退きしなければ住居を焼き払うといった海軍の恫喝により、総面積530haの土地が強制収用され、海軍の技術士官の指揮、地元の土木業者の施工により構築が進められた。近隣の福山小学校の生徒による勤労奉仕などの地元の住民の献身的な協力もあり、1945年4月中旬には1,300mの滑走路も完成して、発着陸も可能となっていた[155]。第5航空艦隊の命令により、岩川を基地とすることとなった美濃部は、完成していた飛行場を、ダバオや藤枝で多数の航空機を地上で撃破された反省を活かして、徹底したカモフラージュをすることとしている。移動式の家屋4棟に樹木10数本と牛10頭と大量の草や枝葉を準備し、航空機が離着陸したあとは、滑走路上に草を散布し、家屋や樹木や牛を設置して牧場に見せかけている。散布する草や樹木は、常に青々としたものを準備するため、農民に2万円(2017年当時で3,000万円相当額)を支払って草刈りや枝葉の収集を依頼していた[156]。 「岩川は夜戦隊のみにて使用し周囲に山林恵まれ居る故に好都合なり」との評価もあったが、美濃部は工夫と熱意によるものと主張している[157]。また、岩川基地は美濃部らが来るまでに、地元の業者の尽力及び地元の住民の協力により、分厚い竹筋コンクリートで覆われた地下発電所、通信室、食料貯蔵庫、退避壕などの数多くの地下トンネル、近隣を流れる菱田川から取水し浄化している上水道施設などの施設が整った飛行場となっており、直ぐにも使用できる状況であったが、兵舎のみが未施工であったので、防風林で囲まれた民家跡に木造で急造している[158]

 
アメリカ軍が1945年8月15日時点で作成した九州の日本軍飛行場の位置、大隅半島に付け根のところに「IWAKAWA a/f」(airfieldの略)と記されている

基地を完璧に偽装できたと考えていた美濃部は、沖縄から出撃し岩川基地周辺上空を通過して、宮崎・鹿児島などの南九州を好き放題に空爆していたB-25ミッチェルなどのアメリカ軍機に対して、基地の露見を恐れて迎撃を禁止していた。周辺の住民は「戦闘機隊なのになぜ上がらないのか」「逃げ隠れしているのか」と不満を抱いており、芙蓉部隊搭乗員も、何の妨害も受けず我が物顔で基地上空を通過していく敵機を見て口惜しさを募らせていたが、美濃部が迎撃を許可することはなかった[159]。美濃部主導のこの偽装によりアメリカ軍の目を欺き通し、終戦まで岩川基地が発見されることはなかったと言われることもあるが[160]、少なくともアメリカ軍は、1945年3月に建設中(符号u/c under constructionの略)の岩川基地を空撮して詳細な位置を把握し、目標番号2511番とナンバリングまでしており[161]、終戦時点では完成し稼働している飛行場(符号a/f airfieldの略)として把握していた[162]。しかし、結果的に岩川基地は終戦まで一回の爆撃も受けず、南九州の基地では唯一地上での損害がなかったといわれる[163]

芙蓉部隊が岩川に移動していた同じ時期に、菊水七号作戦が発令され、第5航空艦隊と陸軍の第6航空軍は、5月24日深夜から沖縄戦開始以降最大規模で沖縄の敵飛行場に攻撃をかけることとし、多数の爆撃機と飛行場への空挺特攻部隊義烈空挺隊を投入したが[164][165]、今まで飛行場攻撃を主要任務としてきた芙蓉部隊は、24日は岩川基地に移動完了した日であり、美濃部は移動で疲労した搭乗員を気遣って、この日は作戦会議開催等の名目で出撃を回避している。美濃部は搭乗員らが今でいうエコノミークラス症候群にならないよう按摩の手配をし、夜には美濃部の提案で蛍狩りを肴に酒席を設けるなどの気遣いもあった[166][167]。出撃休息日となった芙蓉部隊に対して、陸海軍の爆撃機と義烈航空隊は、アメリカ軍の激烈な迎撃で多大な損害を被ることとなったが[168]、読谷飛行場で航空機38機を完全撃破もしくは大破、20名の死傷者、ガソリン70,000ガロン焼失、半日飛行場使用不能、嘉手納飛行場で一時使用不能、伊江島飛行場で60名の死傷者を出させるなど、沖縄戦での日本軍による飛行場攻撃で最大の戦果をあげている[169][170]

また、岩川には、練習機白菊で編成された西条海軍航空隊の特攻隊も進出してきた。岩川基地の庶務の管轄は九州海軍航空隊であったが、特攻の西条空に対して芙蓉部隊は、支給される食材の質に大きな差をつけられ、副食が昆布ひじきあらめといった海藻類ばかりになっていた[171]。美濃部らが藤枝にいた頃、基地主計課の竹田という下士官が、物資不足のなかで基地のありったけの砂糖を集めて汁粉作ったが、藤枝の食糧事情をよく認識していなかった美濃部は、出された汁粉が砂糖不足で甘くなかったので「こんなものが飲めるか」と怒鳴って突き返し、竹田を涙ぐませたことを悔いており[172]、美濃部は食事内容の格差の原因は芙蓉部隊が「特攻隊ではないから」から差別されていると考えて、管轄の九州海軍航空隊を飛び越えて、直に第5航空艦隊司令部に食事内容改善の要求を行っている[173]。第5航空艦隊は美濃部の要求を受けると佐世保鎮守府に調査を依頼、鎮守府の調査団が速やかに岩川に調査に来たが、手違いで岩川基地を整備していた海軍設営隊の3214施設隊と同じ食糧基準となったいたことが判明したため[174]、調査後ほどなく潜水艦乗組員用の最高級の食材を満載した貨物列車が岩川駅に到着した。そのなかには、コーヒーや紅茶といった嗜好品や、当時の日本では超贅沢品であったコンビーフも大量に入っていた。また、官給品の食糧の他にも自給自足を標榜していた芙蓉部隊には、周囲の農家から大量の鶏卵や農産品の差し入れがあり、牛が一頭差し入れられたときには、みんなの食事にステーキが出た[175]。フィリピンで戦っていた時は、豪勢な食事をとる司令官クラスに嫌悪感を抱き、唯一粗食に甘んじていた有馬を敬っていた美濃部であったが[176]、芙蓉部隊の食事は他の部隊はおろか、藤枝で訓練していた同じ芙蓉部隊隊員よりも豪勢なものとなり、4月5日に事故で火傷を負って藤枝で療養していた坪井晴隆飛曹長は、岩川に復帰すると食事の差に驚き「えらいごちそうが出るな」と同僚に話したと回想している[177]

芙蓉部隊の活躍を見ていた第五航空艦隊司令長官宇垣は、岩川基地を視察した1945年(昭和20年)7月23日(廿三日)の『戦藻録』に、美濃部について「芙蓉部隊長は水上機出身なるがよく統率して今日迄の活躍は目覚ましきものなり」と記述している[178]。 第五航空艦隊司令部は持病のマラリアで定期的に高熱で寝込んでいた美濃部の指揮能力を懸念しており、人事局に美濃部の交代要員を望み、座光寺一好少佐が第九〇一海軍航空隊から芙蓉部隊に異動してきたということがあったが[179]、美濃部は芙蓉部隊指揮官を更迭されることを拒否、司令長官である宇垣に引き続き芙蓉部隊の指揮をとることを直談判し、宇垣は美濃部からの要請を受け入れて「岩川基地指揮官を芙蓉部隊岩川派遣隊指揮官に指定す」(天航空部隊命令第45号)という、一部関係者にしか理解不能な辞令を発令、司令部の方針に反して、引き続き美濃部が岩川の芙蓉部隊の指揮官であることを保障し[180]、座光寺は美濃部の副官格として藤枝に異動させた[181]。岩川基地の視察のさいに宇垣は「この辺は米軍上陸の矢面となろう。この地は君に委ねる。多くの部下を抱えて大変だろうが、よろしく頼む。もう再び会うことはないかもしれんなぁ」と美濃部に親しげに語りかけている。美濃部は宇垣の思いやりで胸が熱くなり「ご心配をおかけします。未熟者ですが精いっぱいやります」と答えるのが精一杯であった[182]。美濃部は、宇垣を「芙蓉部隊作戦の理解と応援者」のひとりとして感謝している[183]。宇垣もこの視察はよほど満足したようで、かろうじて空の明るさが残る19時まで岩川に滞在し、暗くなる前にようやく鹿屋への帰路についている[184]

決号作戦準備編集

美濃部は、沖縄での敗戦が明らかになった頃には軍高官らに「これ以上戦っても勝算がありません」と発言し、切腹して天皇にお詫びするべきだったと戦後語っている[185]。芙蓉部隊は沖縄作戦から終戦までの成績は、出撃回数81回、延べ786機が出撃、未帰還機43機、延べ機数に対する損失率は5.5%、搭乗員戦死者は89名、総戦死者103名[186]。あるいは未帰還機は零戦16機、彗星37機、計53機、搭乗員戦死者92名、整備員戦死者13名、総戦死者105名である[187]。敵をほとんど発見できなかった索敵任務を除き、飛行場攻撃や特攻機誘導などの戦闘任務だけを見れば、延べ341機の出撃で37機を喪失し損失率は10.9%になる[188]。芙蓉部隊の元整備兵慎田崇宏は、「全軍特攻」の世相の中で「夜間攻撃」を選択した美濃部の選択を正しかったが、多くの戦果を挙げた分だけ、他の部隊より多くの犠牲者を出してしまったと語っている[189]

芙蓉部隊があげた戦果報告の合計は、潜水艦1隻撃沈[190](アメリカ軍に該当の被害記録なし[191])、戦艦1隻撃破、巡洋艦1隻撃破、大型輸送船1隻撃破[192](戦艦撃破については芙蓉部隊の戦闘詳報に記録がなく[193]、アメリカ軍記録にも該当の被害記録なし。巡洋艦、大型輸送艦についても芙蓉部隊が撃破したと報告した4月6日にアメリカ軍に該当の被害記録なし[191])、敵機夜戦2機撃墜(うちP-61の1機は該当するアメリカ軍の損害記録なし[194])、飛行場大火災3回、飛行艇1機炎上、テント1個炎上を報告している[195]

美濃部は決号作戦本土決戦)で、あたためていた対機動部隊用の特攻戦術(詳細は「特攻」節を参照)を実践するため[196]、最終出撃に加わる24機分の編成表を作り上げた。芙蓉部隊は日本軍の他の部隊と異なり、出身別の軋轢や階級別のわだかまりも少なかったので、特攻出撃の搭乗員名簿は兵学校出身者、予備士官予科練出身者が分け隔てなく選抜されていた。美濃部は常に指揮官率先を主張しており、最後の特攻には自身も出撃するつもりであった[197]。残された整備員たちは、上陸してきたアメリカ軍戦車隊を志布志街道迎え撃ち、樹上に吊り下げた航空爆弾の投下と、山上から航空燃料のドラム缶に火をつけ戦車に向けて転がして攻撃し、最後はたこつぼ塹壕に潜んだ志願者が爆弾を抱えて戦車に自爆体当りをするという特攻戦術を実施する計画であった[198]

終戦編集
 
少佐時代の小園安名

1945年8月15日、昭和天皇の玉音放送があり、国内に終戦が知らされた。芙蓉部隊隊員は玉音放送を聞いた隊員と聞いていない隊員に分かれており、整列して聞いたと証言する隊員もおり[199]、川添普隊員のように「玉音放送は確かに聞きましたが、雑音が多くてよく聞き取れなかったのが実情です。ただ、負けたらしいということはすぐにわかりました」と具体的な証言をする隊員もいるなかで[200]、指揮官の美濃部は、芙蓉部隊にはラジオがなかったので、玉音放送は聞いていないと記憶している[201]。午後2時に通信科から玉音放送の内容を新聞電報で知らされると、「本当に陛下の言葉なのか?東京方面で一部が策動したのではあるまいか、信じがたい」と疑った[202]。徹底抗戦を掲げていた厚木海軍航空隊司令の小園は玉音放送後に全軍に向けて「日本は神国で、絶対不敗なのに、降伏の声明を発するのは、重臣閣僚が(昭和天皇の)聖明を覆った結果である。従ってこのような命令は聞けない、実施部隊としてあくまで戦う」と打電し[203]、それを信じた美濃部は「やはりそうだったか。ようしそれなら断固死突あるのみ」と思い込み、「302空に呼応し、芙蓉部隊も九州において起つ」という電文を全軍に向けて打たせた。勝ち目のない戦争と知りながら、軍の命令とは言え「いずれ後からいく、それまで待っていてくれ」と多数の部下を送り出し、その百余名を戦死させてしまったのに、今さら戦争中断とは酷い話だ」という美濃部の思いも、徹底抗戦という判断を後押しした[204]

美濃部は全搭乗員を集めると「座して神州が汚されるのを見るより、むしろ武人の節を全うして死のう。指揮官の意思に従う者はついてこい!」と訓示した[205]。第5航空艦隊司令部も混乱しており、芙蓉部隊に何の指示や命令もないなかで、美濃部は8月16日と17日に20機の彗星と零戦を戦闘準備させ、南九州沖に索敵攻撃に出撃を命じているが、両日ともにアメリカ軍との接触はなく全機無事に帰還している[206]。美濃部によれば、上級司令部からは何の指示もなく、指揮官である自分には部隊内に相談できる相手もいないため、降伏の方法が定められていない日本軍の戦陣訓などの伝統に縛られたせいであったというが[207]、徹底抗戦を部下に訓示する美濃部に対して、飛行隊長の徳倉正志大尉は「(抗戦は)止めた方がいいですよ、もうアカンでしょう。」と諫めたという[208]。ただし、このような訓示もなく、芙蓉部隊の隊員の多くは終戦の事実を知らなかったという証言もある[209]

徹底抗戦を命じた美濃部であったが、芙蓉部隊の隊員らに「現存する飛行機の装備品一切を取り外し、機体番号を削り取って消せ」という相反する命令も下している。命じられた隊員らは「裸の飛行機で突っ込めというのか!?」「どこかに機銃を隠しておこうか」などと不平不満を抱きつつ、整備員と搭乗員が協力してやすりこてを使って機体番号を削り取り、機銃などの装備品を撤去した[210]

8月17日に302空の戦闘機がばら撒いた「国民諸子二告グ」とする小園起草の決起を促す檄文ビラがあり[211]藤枝基地の芙蓉部隊でも隊員らに動揺が広がりつつあったが、その様子を見た指揮官の座光寺が士官らをガンルーム(士官次室)に招集し、天井に拳銃を拳銃を2~3発発射したのち「ともかく戦争に負けた。このさい軽挙妄動は禁物である。連合軍がどのような措置をとるかは分からないが、子孫にわれわれの精神を受け継がせよ。きさまたちが海軍の伝統をけがすような行動に出たら、即刻射殺するぞ!」と強い口調で訓示した。この座光寺の強い意志と訓示で、藤枝の不穏な空気は一掃されて、動揺する岩川の美濃部や芙蓉部隊隊員より先に復員作業を開始して、50機の所属機はそのまま藤枝基地に残された[212]

第5航空艦隊の司令官は前連合艦隊参謀長の草鹿となったが、草鹿は、第5航空艦隊参謀長の横井俊之少将から宇垣による特攻の一部始終を聞かされると、宇垣に続くものが多数出てくることを懸念した。草鹿は第5航空艦隊での自分の役割を、昭和天皇の終戦の意思をくみ、連合軍の進駐を無血裡に終わらせるため、不穏な動きを全て封殺することと考えて[213]、草鹿は横井に、東京の海軍省まで事情を聞きに行かせて、第5航空艦隊幕僚や現場指揮官に説明させることとし、8月18日正午に各航空隊指揮官を大分の第5航空艦隊司令部に招集した[214]。横井は招集した美濃部ら部隊指揮官や、呼ばれてもいないのに押しかけていた尉官達に、海軍省で聞いてきた詔勅が出たいきさつを説明した。草鹿は、横井が一通り説明を終わると「貴官らの気持ちはよくわかるが、今はただ、陛下の思し召しに副い、皇軍の潔さを米国軍民に示すべきではないか、私は5航艦の総力をもって終戦平和に努力する決意である。不都合と思う者があれば、この私をまず血祭りにあげてからにせよ」と身を挺して諭した。すると、室内に満ちていた呻きがやがてすすり泣きに変わり[215]、ある若手士官が「長官のお話によって、われわれはのぼせがすっかりさめました。私にも数十人の部下がおりますが、私がかならずまちがいのないように掌握いたしますから、その点どうか安心ください。」と申し出て、ほかの参加者も同意した。草鹿は会議参加者に酒をふるまい、全員で日本海軍軍人として最後の大元帥陛下万歳の乾杯をして、大きな混乱もなく会議は散会となった[216]

美濃部も草鹿と横井の説得で、他の指揮官同様ようやく抗戦を諦めて基地に帰ったが、美濃部に徹底抗戦と焚きつけられていた隊員たちは「なぜやめるんだ!これだけの飛行機があるじゃないか」と憤慨した。美濃部は部下を指揮所前に整列させると、「芙蓉部隊は陛下の部隊である。詔勅が出た以上、もはや私に部隊の指揮を取る資格はない。納得できなければ私を斬ってから出撃せよ」と草鹿が美濃部らを諭したときと同じように身を挺して隊員をなだめた[217]。隊員の説得を終えると、美濃部も張りつめていたものが切れて、疲労のあまり寝込んでしまった[218]

美濃部によれば、この第5航空艦隊の会議に参加していた勅使の軍事審議官井上成美大将から、会議後にひとりだけ呼ばれて、直々に「君の部隊はこれまでよく戦った。今になって降伏とは腹にすえかねよう。しかし、聖断が下った今、若い者が多く大変であろうが自重してもらいたい」と声をかけられたという[219]。しかし、井上は終戦直後の8月16日の昼から、米内光政の海軍大臣留任のために、軍事参議院で意見調整するなど奔走したのちも東京の海軍省におり[220]、8月21日には、緑十字機マニラに飛び、ダグラス・マッカーサー司令部と終戦事務処理の打ち合わせしてきた杉田主馬書記官から海軍省内で報告を受けており、大分で開催された第5航空艦隊の8月19日の会議に井上が参席していたという事実はない[221]。井上が九州入りしたのは、終戦事務を進めていた第5航空艦隊で一部混乱が生じていたことを懸念した海軍大臣米内が、井上に9月10日付官房第409号で第5航空艦隊の査閲を命じる訓令を出してからであり[222]、井上はこの訓令により9月14日から24日まで大分、松山美保を廻り、終戦事務の査閲を行っている[223]。査閲のさいに井上は各指揮官と面談し、統制ある終戦処理を推進して帝国海軍の有終の美を飾るよう説いている[224]

昭和天皇に拝謁するため東京に向かった草鹿に部隊の復員作業を一任された横井は[225]、急な敗戦で気が立っている特攻隊員と進駐軍の不測の衝突を避けるべきとの考えで、8月20日、各部隊に「24時間以内に基地から2km圏外に離脱し、隊員はすみやかに復員せよ」という急な命令をおこなった。公共交通機関は麻痺状態にあり、また「搭乗員は米軍に逮捕される」という噂も広まり隊員に動揺が見られたため、美濃部は早急な復員を実現すべく、隊員たちが部隊の飛行機を用いて復員することを許可した[226]。勝手に航空機を動かすことは後日問題となる可能性もあったが、美濃部は自分が責任を取ればいいと考えた[227]。部隊の飛行機による復員は、特攻機桜花などで特攻作戦を推進した第七二一海軍航空隊(通称神雷部隊)でも行われている[228]

8月21日の朝に鹿児島に進出以来初めてとなる合同慰霊祭を開催、慰霊祭が終わった後で美濃部が最後の訓示を述べた。「この戦争は敗れた。だが10年たてば、ふたたび国を立てなおす可能性が出てくるかも知れない。この間、自重し、屈辱に耐えてがんばってもらいたい。10年ののち、ここにもう一度集まろう」、訓示の後、正午に、日の丸や機体番号などが塗りつぶされ武装を取り外した零戦と彗星が引き出され発進準備を進めたが[229]、皆がなかなか出発しようとしないなか、美濃部や残留者が「早くいけ」と急き立てた[230]。離陸した各機は、別れのあいさつ代わりに翼を振ってから上昇していき、美濃部は各機が見えなくなるまで右手を振り続けたので、全機が出発するまで2時間を要した[231]

美濃部は復員の零戦と彗星を見送ったのちに、残務整理のため残した十数名と、高千穂山中にある豪農宅の離れ家に1年分の武器、弾薬、食料等を運び込んでいる[232]。美濃部は草鹿らの説得で一旦は抗戦は諦めたとしながらも、しばらくはこの離れ家で情勢を見極めながら、必要に応じてはここをアジトとして進駐軍に抵抗する計画であった。しかし、翌日に第五航空艦隊司令部が「第五航空艦隊幹部は原隊に復帰せよ」という命令を出したため、美濃部らはわずか1日でアジトを撤収させられ、進駐軍への抵抗を諦めて岩川に戻る羽目になった[233]。また、美濃部は復員の際に一部を除いて幹部士官まで復員させてしまっていたが、第五航空艦隊司令部が原隊復帰命令を連日ラジオ放送でも呼びかけたため、いったん故郷に帰った芙蓉部隊士官が慌てて岩川に引き返すこととなっている[234]

進駐軍による岩川基地の接収は後回しにされて終戦後3ヶ月も経過した11月15日になった。この頃、持病のマラリアのぶり返しに苦しみ、生きる目標がなくなり自棄になっていた美濃部は[235]、進駐軍への引渡目録に「当基地は不時着場にすぎざるところ、最近滑走路の一部をようやく転圧し、小型機の前進基地として一部使用を開始し、設備強化を準備中のところなり」「降着に際しては確認の上実施するを要す。なお大型機の降着は、めり込む恐れあり」と「使えるものなら使ってみろ」というケンカをふっかけるような説明文を和文、英文両方で添付したものを準備し[236]、軍用機を隊員らの復員に使用したことを進駐軍に咎められたら、接収係官に斬りかかったのち自分も自決しようと考えて、白装束のつもりで、官給品のパラシュートを材料に使用して、岩川市内の洋服店で白無地の下着からワイシャツまでを仕立ててもらい、腰には軍刀を下げてアメリカ軍大尉の接収係官に応対した[237]。しかし、戦争中の詳細な航空偵察写真で、岩川基地がすでに鹿屋などほかの海軍航空隊基地と同様に「符号a/f(完成した飛行場、airfieldの略)」[238]かつ「Medium bomber airfield(中型爆撃機飛行場)」[239]と詳細に概要を把握していたアメリカ軍による接収はあっさりと終わり、美濃部は拍子抜けしたまま、岩川基地の軍用機、兵器、機械・備品一式と腰に下げていた軍刀を差し出している[240]

戦後編集

 
美濃部が航空自衛隊退官後に就職した日本電装学園(現デンソー工業学園)の母体株式会社デンソー本社

戦後は海軍を引き継いだ第二復員省の斡旋で、名古屋地方人事部(愛知県庁)で戦没者の遺族対策をしていた。その間、朝日新聞に就職活動し内定までもらっていたが、GHQによる公職追放で旧軍人の美濃部はマスコミへの就職を断念せざるを得ず、持病のカリエスの悪化により、名古屋地方人事部も退職した[241]。その後は、他の多くの旧軍人と同様に、保険の外交員、電球の行商、喫茶店の経営など様々な職に就いたが、長続きせず安定した収入が確保できなかった[242]。仕方なく美濃部は実家の太田家を頼ることとしたが、実父の生前は生活に困窮しながらも広大な農地を手放すことはなかった太田家も、GHQによる農地改革で大半の農地を手放しており、美濃部はわずかに残った太田家の農地の一部と、賃借した農地をあわせて農業を始めた。しかし借地を含めても最低採算が確保できる面積の半分にも満たず、農作業も美濃部と元々海軍将官の令嬢で野良仕事の経験など皆無であった妻篤子の2名でおこなったので、美濃部が慣れない篤子に「もっと早くできんのか」と怒声を浴びせることもしばしばで[243]、農家ながら配給の小麦粉[244]、近所の逢妻川で魚とりして食いつなぐといった赤貧生活であった[245]

その後始めた養鶏業もうまくいかなかったので、1953年に旧海軍の伝手を頼って海上警備隊に入隊、1954年に発足したばかりの航空自衛隊に転籍した。始めは、パイロットを目指して飛行学生となったが、航空自衛隊発足当初の飛行教官はアメリカ空軍の士官であり、英語も達者ではなかった美濃部は教官と衝突し飛行学生をクビになってしまった[246]。その苦い経験でパイロット育成のための英語教育が不可欠と痛感し、1955年に再度操縦訓練を再開、教官過程も無事終了し、9月には第2操縦学校の初代訓練課長となった。部下の教官の中には芙蓉部隊の隊員であり、のちの航空自衛隊幹部学校校長藤澤保雄1尉もいた[247]。その後も空幕運用課長、統幕学校教育課長、第12飛行教育団司令などの要職を歴任したが、1959年の春に胃がんにより胃を切除する手術を受けることとなり、一命はとりとめたが、この後体調不良に悩まされ3回も手術を受けることとなる[248]。美濃部は、ガンの疲労や中央の激務に耐えられないことを理由に栄達を望まず、気楽な配置を希望したという[249]。1966年7月16日輸送航空団司令兼美保基地司令。1969年4月1日航空自衛隊幹部候補生学校長。航空自衛隊最高位の空将まで昇進したのち、1970年6月30日に55歳の誕生日を前にして依願退職した[250]

退職後は、防衛産業各社からの再就職の誘いがあり、その中で退職自衛官を積極的に雇用していた日本電装株式会社(現デンソー)運営の訓練学校日本電装学園(現デンソー工業学園)の学園長を選択して再就職し[251]、今に続くデンソー工業学園の基礎を作り上げて、61歳となる1976年に退職した[252]

戦後33年経過した1978年に、岩川基地跡地に戦没者を慰霊する「芙蓉之塔」が建立され、美濃部ら元隊員や関係者・遺族100名以上が集まって式典が開催された[253]

日本電装学園退職後は家庭菜園などをして悠々自適な生活を送っていたが、1985年にがんが再発し9時間にも及ぶ大手術をうけており、このころから体力が急激に衰え始めた[254]。元号が昭和から平成に改まった頃に、戦死した部下らへの鎮魂と、21世紀を生きる子供や孫の世代への教訓を残したいという目的で、自分の人生を振り返る手記『大正っ子の太平洋戦記』を執筆を開始した。美濃部はその本で、多くの旧日本海軍の高級軍人らを名指しで激しく非難、太平洋戦争を「太平洋戦争の悲劇は日本民族全員の罪であり反省すべきものである」「日本民族が自国中心の国家体制を最善と考え、アジア諸国に強要した独善性の過ち」と糾弾し[255]、平成の日本人に対し「グルメあさりに浮かれる日本人が、世界は仲良くしようと訴えるだけで通ると思うのか」「平成の若者よ。心から平和安定を願うなら、日本人の生活を50%切り下げよ。そのお金で飢餓民族を支援せよ。今の日本人にその覚悟と実行力なくして世界平和を唱える資格はない」と苦言を呈している[256]。『大正っ子の太平洋戦記』を8年かけて執筆を終えたころには、体重が40kgをきるほど衰弱していたが、延命治療を断り、死亡確認された際は、自分の遺体を献体とするよう覚書をしたためている[257]。1997年6月9日時点では口がきけないほど衰弱していたが、訪ねてきた孫とひ孫に筆談で意思表示すると、3日後の6月12日に81歳と11か月でこの世を去った[258]。美濃部が三女に遺したたった一つの遺言は「二度とあのばかな戦争を繰り返してはいけない」であった[259]

特攻編集

考案編集

美濃部は対敵機動部隊の戦術として特攻を考案している。日本軍が特攻を実施する前であるマリアナ沖海戦前の戦闘316飛行隊長だった時から準備を進めていた。「敵の戦闘機隊が十分な行動ができない未明に、まず芙蓉部隊機が敵空母甲板上の敵機を銃撃ロケット弾で攻撃し、発艦前に打撃を与え雷爆特攻機をもって撃滅戦を行い、最後に黎明銃爆特攻隊で搭乗員諸共敵空母甲板上に特攻し、敵空母甲板上の艦載機を一掃する」という方針である[260]。特攻は硫黄島戦の1945年2月17日に実行されたが、敵を発見できずに帰還している[261]。芙蓉部隊による機動部隊への攻撃は対象を発見できず、全て空振りに終わっている[262]。特攻には本人の志願という建前があったが[263]、美濃部に特攻を命じられた河原少尉によれば、指揮所に行くと志願をしてもないのに自分の名前が出撃者名簿の中にあり、「機動部隊を見つけたら、そのままぶち当たれ」と命じられたという[264]。また、岩川基地からの初出撃となった1945年5月27日にも、敵機動部隊の索敵と攻撃のために彗星15機と零戦4機が屋久島南方200マイルに出撃しているが[265]、出撃する隊員の前にはぼたもちの他に、硫黄島の戦いで美濃部が特攻を命じた時と同じように別杯が並んでいた。美濃部は別杯を前にした搭乗員らに「攻撃はすべて命令した通り、諸君らの健闘を祈る。」と発破をかけたが[266]、実質的な特攻出撃を命じられた初陣の搭乗員らは、出されたぼたもちに手を付ける気になれず出撃した。しかし、この日も敵を発見できず帰還している[267]

決号作戦本土決戦)における芙蓉部隊の作戦計画『芙蓉部隊決号作戦計画』においては、美濃部が指名した部下熟練搭乗員と共に、自らが先頭に立って敵機動部隊に特攻し、残される整備兵などの地上要員に対しては、一兵たりとも後退を禁じて、敵上陸軍を道連れに周辺住民もろ共、地雷や航空爆弾で自爆攻撃を命じる計画を立てている[268]。終戦時は「降伏なき皇軍には、今や最後の指揮官先頭、全力決戦死闘して天皇及び国民にお詫びするとき」が来たと考えて、部下だけ送り出して自分らは出撃しない特攻隊の指揮官らとは違い、最後は自ら特攻で戦死すると決めたという[269]

芙蓉部隊報告書で、美濃部は「不幸にも決号作戦が実施されなかったせいで考案していた特攻戦術を行う機会が終戦まで恵まれず、これまでの研究錬成が葬られた。恨むべくは戦闘316飛行隊を司令が防空に使い、実施できなかったことがあ号作戦敗戦の一因」と指摘している[270]。また、「特攻は戦機に乗じ臨機必死隊を出すべきものにして常用するは戦闘の邪道なり」ともしていた[271]。美濃部は訓練中に、「貴様ら、うまくやれないと、特攻隊に入れるぞ」と隊員を脅すこともあった[272]。戦後、美濃部は「戦後よく特攻戦法を批判する人がいるが、それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎない。当時の軍籍に身を置いた者にとって負けてよい戦法は論外である。不可能を可能とすべき代案なきかぎり特攻もまたやむをえないと今でも思う。戦いの厳しさはヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではない」と語っている[273]。芙蓉部隊隊員の元戦闘機搭乗員渋谷一男も「美濃部さんは特攻自体を完全否定していたわけではない。代案がなければ『やむなし』と思っていた。」と証言している[274]

特攻を命じたことのある美濃部であるが[275]、特攻を命じたことがないと主張したり、他者の特攻命令に対する批判を行っている。戦後のインタビューでは「ああいう愚かな作戦をなぜあみだしたか、私は今もそれを考えている(中略)あの愚かな作戦と、しかしあの作戦によって死んだパイロットとはまったく次元が違うことも理解しなければならない」「私は、若い搭乗員に特攻作戦の命令を下すことはできなかった。それを下した瞬間に、私は何の権利もなしに彼らの人生を終わらせてしまうからだ。」と語っている[276]。遺稿でも特攻は本人の意思で行うことがあっても他から命令するのは冷酷、非情な軍隊指揮で死刑宣告に等しい人格否定で自分には出来ないと語っている[277]。遺稿では硫黄島戦などで特攻を命じたことについては書かれていない[278]。また、特攻隊員に同情するような記述をする一方で、特攻兵器桜花を運用していた神雷部隊は、桜花特攻隊員の鈴木英男大尉によれば、桜花隊員は他の特攻隊員と異なり純粋な志願者ばかりだったので士気も高く、訓練や座学に勤しみ、余暇にはスポーツを楽しむなど全体的に落ち着いていたという証言があるが[279]、美濃部は遺稿で、桜花特攻隊員の士気維持のために「密かに女を抱かせて気を紛らわせていたと聞く」などという、美濃部自身も真偽を確認していない風聞のような記述で特攻隊員を誹謗している[280]

美濃部は日本海軍伝統の「一族決死」「指揮官先頭」の楠公精神を重視していたが、戦争が進むにつれその精神が掛け声だけになったと嘆き[281]、「芙蓉部隊が特攻に反対せし根本理由は若い搭乗員で特攻隊を編成し、司令、飛行長、隊長を編成から除く点にあり」と述べているが[282]、美濃部が硫黄島戦で編成した特攻隊も当時飛行隊長だった自分を除いている[283]

美濃部は指揮官先頭を常に意識しており、出撃する芙蓉部隊員に「いずれ後からいく、それまで待っていてくれ」と最後は戦死した百余名の部下の後を追うと約束していたが[284]、終戦後の草鹿や横井の説得で、美濃部から徹底抗戦を焚きつけられていた芙蓉部隊隊員から見れば「コロッ」と態度が一変したかのごとく翻意し[285]、1997年に81歳の天寿をまっとうしている[286]。終戦時に自決した指揮官は、特攻出撃した宇垣や自刃した大西のほかにも、練習機白菊特攻を指揮した高知空司令の加藤秀吉大佐は、副官らが自決しないよう軍刀や拳銃を取り上げたにも関わらず、井戸に飛び込んで自決した[287]。ほかにも、飛行教官として多数の特攻隊員を訓練し、軍令部参謀として大西と一緒になって特攻主体の本土決戦を準備していた国定謙男少佐は、妻女と子供2名の一家4名で拳銃により心中している[288]。特攻に関わった悔恨や謝罪の情で自決した将官・士官も多数存在する[289]。自決した指揮官に対しては、自決した大西と部下とともに私兵特攻で死亡した宇垣について「自らの判断、行動を正当化する自己満足ではなかったか」と批判し、特攻兵器桜花神雷部隊司令岡村基春大佐が戦後自殺したことに対しては、岡村が美濃部の義父と家族ぐるみの付き合いがあったとしながら「哀れを留めた」「やや思慮に欠けるが」「苦しい中に世間の風も冷たかった」「桜花特攻推進強行は天も恐れざる所業ではなかったか」と批判している[290]。岡村の自殺は遺書もないことから動機は不明であるが、美濃部と同様に、出撃する神雷部隊隊員に「お前たちだけを行かせやしない。俺も必ず行く」と言って送り出しており[291]、第一回目の桜花の出撃で、指揮官の野中五郎少佐の代わりに自分が出撃しようとしたが野中に拒否された結果、野中ら桜花隊は全滅し自分が死に損なったことを終生悔やんでいたこと[292]復員庁勤務時に自費で神雷部隊基地であった鹿屋や、船を借りて南海の島を特攻隊員の慰霊巡りしていたことが、死後に判明している[293]

戦後、美濃部は部隊の使命として「特攻に依らず若年パイロットに対しても夜襲攻撃能力を急速錬成して敵戦闘機、防御火力の弱い夜間に戦果の活路を求める」にあったと語っている[294]。美濃部は特攻を採用しなかった指揮官として紹介されることもある。多数の未帰還機を出しながら任務を継続したのは、指揮官の美濃部が特攻を拒否して通常攻撃任務を通したため、美濃部は隊員らに常に戦果を求めていたからとする意見もある[295]。ただし、美濃部は決して冷酷な人物ではなく、訓練や任務のときには極めて厳しかったが、そうでないときは、部下隊員たちと気さくに接し、美濃部を知るもののなかでは「話の上手な楽しい人だった」「場を明るくする人だった」「口は悪いけど面白い人だった」という肯定的な印象を抱くもののほうが多かったという意見もある[296]

拒否編集

 
特攻に関して美濃部と論争した「黒岩」の可能性が指摘される神重徳[297]

戦後、美濃部は次のような証言をしている。1945年2月下旬、連合艦隊主催の作戦会議[298]もしくは三航艦司令部があった木更津基地における沖縄戦の研究会が実施された。軍令部の方針で練習機の投入などが決まっており、三航艦は特攻を主体とするという説明があった。司令代行として参加した美濃部は、劣速の練習機を投入しても敵戦闘機の多重の防御陣を突破することは不可能であると反論した。意外な反論を受けたある参謀は「必死尽忠の士が空を覆って進撃するとき、何者がこれをさえぎるか!第一線の少壮士官が何を言うか!」と怒鳴りつけたが、美濃部は「現場の兵士は誰も死を恐れていません。ただ、指揮官には死に場所に相応しい戦果を与える義務があります。練習機で特攻しても十重二十重と待ち受けるグラマンに撃墜され、戦果をあげることが出来ないのは明白です。白菊や練習機による特攻を推進なさるなら、ここにいらっしゃる方々が、それに乗って攻撃してみるといいでしょう。私が零戦一機で全部、撃ち落として見せます」と反論したという[299][300][301]

美濃部の遺稿によれば、美濃部に怒鳴ったという参謀は連合艦隊主席参謀黒岩少将という名前の人物で、美濃部は黒岩が主張する「戦場も知らぬ狂人参謀の殺人戦法」に怒りを覚えたと強く批判している[302][303]。しかし、連合艦隊参謀に黒岩という人物は存在せず、美濃部が黒岩少将は終戦時に事故死したことを述べているので、当時連合艦隊首席参謀で終戦時に事故死した神重徳大佐(事故死で少将に特進)の偽名とする意見もある[304]。ただし、美濃部の遺稿では殺人凶器発案者として大田正一少尉桜花の発案者)を挙げ、推進者が羅列される中に軍令部第一部長黒岩少将とあるが[305]、桜花が軍令部に提案された際の第一部長は中沢佑少将である[306]。中沢は1945年2月には台湾海軍航空隊司令官として台湾で、終戦時に事故死したということはない[307]。美濃部の遺稿では海軍将官や高級士官が実名で批判されており、黒岩のみ偽名を使った理由は不明とする意見もある[308]

なお、美濃部に取材経験のある戦史作家豊田穣[309]、美濃部の生前に出版した記述によると、第一航空艦隊司令長官・大西中将が出席していたとして、美濃部の意見を聞いた大西が「美濃部少佐、君はここにいる指揮官のなかでは一番若いように思われるが、その若い指揮官が特攻を忌避する態度を示すようでは、皇国の前途は案じられるがどうかね?」と訊ねたのに対し[310]、美濃部が「いや、長官。私は特攻を拒否すると言っているのではありません。特攻の命令が下ればいつでも部下を出します、しかし、現在わが芙蓉部隊の現況をみるに、古い搭乗員は着艦訓練もとっくに終わり、夜間航法、夜間攻撃も可能です。しかし、若い搭乗員は、鹿児島から沖縄へゆく航法もろくに出来ない程度です。指揮官としては、ベテラン搭乗員は予定通り、夜間の進攻制圧と特攻の直援に使用し、若い搭乗員は今しばらく腕を磨かせたいと思うのです。」と要望し、その要望に対し連合艦隊参謀長の草鹿龍之介は納得したが、すでに部下を特攻に出していた航空隊指揮官らの反感のあるなかで、直属の上司となる三航艦司令長官寺岡も美濃部を支持したという[311]。芙蓉部隊員河原正則少尉の戦後の手記でも美濃部は豊田の著書と同様に「わたしは特攻の命令が下ればいつでも部下をだします、しかし、現在の芙蓉部隊の搭乗員は、夜間攻撃において十分戦果をあげうる技量を持っています。計画通り夜間の進攻制圧と特攻直掩に使用させていただきたいと思うのです」と特攻を強く拒否する主張をしたわけではないとしている[312]

さらに、戦後の出版物には以下の根拠不明の主張もある。第五航空艦隊司令長官宇垣纏中将が会議後に美濃部の肩を叩いて、「お前のやり方でやれ」と美濃部を支持したという主張もあるが[313]、宇垣の戦時日誌には2月下旬に木更津の会議に出席したという記述はない[314]。連合艦隊主席参謀ではなく参謀長の草鹿が「貴様は何を言うか。必死尽忠の士が空をおおって進撃するとき、これを阻むものがあるか」と怒鳴りつけたという主張もある[315]

一方、美濃部が終戦直後にまとめた芙蓉部隊の報告書『芙蓉部隊天号作戦々史 自昭和20年2月1日至昭和20年8月末日』では、1945年2月に行われた第三航空艦隊による「研究会」で、美濃部は、敵攻撃により地上で撃破される作戦機が多かったことから、作戦機の秘匿について「この(作戦機の)秘匿に対して不眠不休の熱意と責任感があるのか?如何なる妙戦法も机上だけでは成立しない」という自説を主張したが、居並ぶ三航艦の司令や飛行長は悠然と煙草をくわえて特に反応もなかったので、美濃部は三航艦幕僚や各指揮官らに対して「我は航空の権威者なりと自負せし不忠者ばかりなり」という非難を心に秘めたと述べられ、特攻に関する記述はない[316]。芙蓉部隊から戦後の航空自衛隊まで美濃部の下で働いた海兵第73期で航空自衛隊幹部学校の元校長藤澤保雄は「自分たちが特攻隊ではないと線引きされた記憶はないし、そんなこと当時公言したら大変なことでしたよ」と美濃部が特攻を拒否したとされる事実も、芙蓉部隊が特攻から除外された記憶もないと回想し、他に芙蓉部隊隊員であった小田正彰、平松光雄らは口々に「自分たちは特攻隊だと思って毎日過ごしていた」と当時を振り返っている[317]。実際に、芙蓉部隊では連合艦隊司令長官名で全軍に布告する感状が6名の戦死者に授与されているが、そのうち4名までが特攻で戦死したとして賞されたものであった[318]

また、美濃部は意見具申の結果、九三式中間練習機の沖縄への特攻出撃は見送られ、本土決戦のため拘置されたとも主張しているが[319]、7月28日に宮古島から沖縄に九三式中間練習機で編成された神風特攻隊「第3龍虎隊」が出撃し、駆逐艦キャラハン を撃沈、カシンヤング(駆逐艦) 英語版を大破させる戦果を挙げている[320]

芙蓉部隊が異例の判断で特攻から除外されたという主張もある[321][322]。連合艦隊や三航艦司令部などに芙蓉部隊の訓練の様子を視察させるなどの美濃部の努力により[323]、芙蓉部隊は美濃部の希望通り、特攻に参加せず、通常航空作戦に従事することとなったという意見もある[324]。しかし、沖縄戦では特攻機より通常攻撃機のほうが多く、沖縄戦における海軍航空隊出撃機の延べ機数は、特攻機1,868機に対し、制空戦闘機3,118機、偵察機1,013機、通常攻撃機3,747機、通常作戦機合計7,878機(含芙蓉部隊)[325]。芙蓉部隊も出撃した4月27日(零戦8機 彗星20機 合計28機出撃)でも、芙蓉部隊以外の通常航空作戦機として、芙蓉部隊と同じ飛行場攻撃に天山艦上攻撃機4機、陸軍重爆撃機5機、艦船攻撃26機、偵察・哨戒3機、合計38機(除偵察機35機)が出撃している[326]

著書編集

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