群馬県立前橋高等学校

群馬県前橋市にある高等学校

群馬県立前橋高等学校(ぐんまけんりつまえばしこうとうがっこう)は、群馬県前橋市下沖町にある公立高等学校

群馬県立前橋高等学校
地図北緯36度23分50秒 東経139度5分45.1秒 / 北緯36.39722度 東経139.095861度 / 36.39722; 139.095861座標: 北緯36度23分50秒 東経139度5分45.1秒 / 北緯36.39722度 東経139.095861度 / 36.39722; 139.095861
過去の名称 第十七番中学利根川学校
群馬県中学校
群馬県尋常中学校
群馬県前橋中学校
群馬県立前橋中学校
群馬県立前橋高等学校
国公私立の別 公立学校
設置者 群馬県の旗群馬県
校訓 質実剛健
気宇雄大
設立年月日 1877年
共学・別学 男子校
課程 全日制課程
設置学科 普通科
学校コード D110210000013 ウィキデータを編集
高校コード 10101A
所在地 371-0011
外部リンク 公式ウェブサイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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概要 編集

通称は「前高」(マエタカ)。1877年(明治10年)の開校で、卒業生数は3万人超。現在は各学年とも7クラスで3学年合わせて21クラス、約840名の生徒(男子のみ)と約60人の職員(他に非常勤講師、学校医等)から成る。全日制で普通科設置。

校訓 編集

  • 質実剛健
  • 気宇雄大

教育目標 編集

  • 理想を追求し、未来を切り拓くために、着実に努力する姿勢を育む。
  • 知識を充実させ、思考力、判断力、表現力を伸ばす。
  • 個人の価値を自覚し、自然や文化を尊重する豊かな心を育む。
  • スポーツを愛好し、心身の健康の保持増進に努める姿勢を育む。
  • 個性や能力を伸ばすために、自らを律する生活態度を育む。

沿革 編集

略歴 編集

群馬県立前橋高等学校は、1877年(明治10年)9月、東群馬郡曲輪町(現・前橋市大手町)の旧前橋城内に設立された公立の第17番中学利根川学校をルーツとする。その後、1879年(明治12年)6月に利根川学校を閉鎖し師範学校内に群馬県中学校を開設する。その後さらに名称、設置場所などの幾多の変遷を経て、1901年(明治34年)4月に群馬県立前橋中学校となる。その当時は、校舎は東群馬郡紅雲分村(現・前橋市紅雲町)に所在していた。1912年(明治45年)には、生徒定員は600名であった。1934年(昭和9年)8月には、昭和天皇の行幸に合わせて校舎を前橋市天川原町(現・文京町)に新築・移転する。1939年(昭和14年)には、生徒定員1,000名となった。

1948年(昭和23年)、学制改革によって、群馬県立前橋中学校は群馬県立前橋高等学校と改称、改編。4年後の1952年(昭和27年)、失火により、校内建築物は講堂と体育館を除いて全焼したが、まもなく再建された。当時の校舎復興に尽力した生徒の母親達の組織が「前橋高校母の会」として残り、PTAとは別に現在も活動中である。

子供の数の増加に伴って、定員も1956年(昭和31年)には1,200人、1964年(昭和39年)には1,350人と増加していった。1979年(昭和54年)、天川地区の区画整理事業によって校地南側の道路が拡幅されることに伴い、校庭が道路用地として大きく削られることになったため、前橋市下沖町に新築移転した。下沖の校地は天川原の校地に比べ2倍近い広さがあり、野球場と1周400メートルのグランドを別に設置している。なお、移転の際、生徒達が前橋高校の校旗を先頭として、自分の使う机を担ぎながら、文京町から下沖町まで移動した。

年表 編集

  • 1877年(明治10年)9月 - 東群馬郡曲輪町(現・前橋市大手町)に、第17番中学利根川学校が設立される[1]
  • 1879年(明治12年)6月 - 利根川学校を閉鎖し師範学校内に群馬県中学校を開設する[1]
  • 1880年(明治13年)
    • 1月26日 - 開校式[1]
    • 4月 - ストライキ(同盟休校)。生徒らは龍海院に集まり楫取素彦県令に上申書を提出(4月8日付「群馬新聞」)。4月15日に県令の命令で解散[2]
    • 12月 - 旧利根川学校校舎に戻る[1]
  • 1882年(明治15年)1月 - 旧前橋城内から南勢多郡小暮村(現在の前橋市富士見町小暮)に移転[1]
  • 1883年(明治16年)6月 - ストライキ。鈴木孝雄を含む38人が退学処分[3]
  • 1886年(明治19年)
    • 2月 - 群馬県会が中学校予算支出を否決、有志の寄付と授業料で運営される[1]
    • 9月 - 中学校令発布により、群馬県尋常中学校となる[1]
  • 1887年(明治20年)
    • 4月 - 小暮から移り龍海院を校舎とする[4]
    • 11月 - 東群馬郡紅雲分村(現・前橋市紅雲町)に新築移転[1]
  • 1889年(明治22年) - 学生服の着用が定められる[5]
  • 1891年(明治24年)12月 - 群馬県会に校費を県費で支弁する決議案が木桧仙太郎(明治13年ストライキによる退学者)、萩原鐐太郎らにより提出され、採択される[6]
  • 1897年(明治30年)3月 - 群馬、甘楽、碓井、利根、新田、多野の6分校が置かれる[1]
  • 1899年(明治32年)4月 - 群馬県中学校となる[1]
  • 1900年(明治33年)
    • 2月 - 鈴木券太郎校長排斥のストライキ。鈴木校長は2月28日に退職。ストライキ首謀者は停学処分を受け、平井晩村は処分に憤慨し退学している[7]
    • 4月 - 高崎(群馬)、富岡(甘楽)、太田(新田)の3分校独立に伴い、本校を群馬県前橋中学校とする[1]
  • 1901年(明治34年)4月 - 群馬県立前橋中学校となる。安中(碓氷)、藤岡(多野)の2分校独立。
  • 1905年(明治38年)11月12日 - 制服への不満からストライキ。佐藤垢石内山岩太郎ら43名が退学処分[8]
  • 1912年(明治45年)4月 - 沼田(利根)分校独立。
  • 1916年大正5年)2月 - 校旗制定[1]
  • 1918年(大正7年)5月 - 校歌制定[1]
  • 1922年(大正11年)7月1日 - 野球部を偏重していた桜田広利校長の「庭球は女性的」という発言がきっかけでストライキ。桜田校長の「君等は自分に辞職を勧告する前になぜ自決せぬか」との発言で74名の生徒が退校届を出したが(7月4日付「上毛新聞」)、学校側の処分は無期停学後、情状により順次登校させるというものだった[9]
  • 1933年(昭和8年)8月 - 前橋市天川原町(現・文京町)に新築移転。
  • 1948年(昭和23年)
    • 4月 - 学制改革に伴い、群馬県立前橋高等学校となる。
    • 10月 - 定時制課程開設。
  • 1952年(昭和27年)12月22日 - 原因不明の火災により講堂、体育館を除いて校舎が全焼する[10]
  • 1969年(昭和44年)3月 - 定時制課程廃止。定時制課程は群馬県立前橋第二高等学校(現・群馬県立前橋清陵高等学校)に移管。
  • 1979年(昭和54年)6月9日 - 前橋市下沖町に新築移転。

基礎データ 編集

所在地 編集

  • 群馬県前橋市下沖町321-1

通学区域 編集

  • 群馬県全域(2007年(平成19年)以降)

アクセス 編集

象徴 編集

校章 編集

校章はアルファベットの「MAEBASHI」を図案化したものである。旧制中学校時代はその中央上に漢字の「中」を配置していたが、戦後新制の高等学校になってからは、「中」の文字を漢字の「高」に改めている。

校歌・応援歌・凱旋歌 編集

校歌は1917年(大正7年)に、生徒の発議によって作られることとなり、初め生徒から歌詞を募ったものの秀作はなく、かつて前橋中学校に在籍し、当時は小説の執筆や民謡の作詞等で名を知られた平井晩村に依頼することとなった。平井晩村は八方から依頼されている原稿をさしおいて作詞に専念し、作曲は平井晩村の紹介で、大須賀乙字を通して依頼された東京音楽学校中田章唱歌早春賦」の作曲で知られる。「夏の思い出」の作曲で知られる中田喜直の父)の手で為された。

校歌も校章と同じく戦後の学制改革の際に4番(最終章)の「われ等が前橋中学校」の部分が「われ等が前橋高等学校」と改められた。

応援歌と凱旋歌は、1918年(大正8年)に野球部が甲子園出場を賭けて北関東大会に出場し、決勝まで進出した際、茨城県竜ヶ崎中学校(現在の茨城県立竜ヶ崎第一高等学校)との決勝戦が行われる龍ケ崎まで後輩の応援にやって来ていた前橋中学校野球部OBの屋代周二(当時東京帝国大学在学中)が、やはり応援に来ていた当時の桜田広利校長の依頼で一夜のうちに作詞したものである。メロディーは当時旧制高等学校や大学の応援団などで歌われていた応援歌等のメロディーを即席で拝借したものであると、「前橋高校百三年史」に寄せられた屋代の文にある。(この時の決勝戦では敗退して甲子園出場はならなかった)応援歌と凱旋歌の歌詞には「枚を銜みて」「優曇華」「鎧袖一触」「百錬」「降魔」「あはれ燕雀」(応援歌)「益荒男」「蛟龍遂に雨を得て」(凱旋歌)などの、和漢の古典を出典とする語が多用されているのも特徴である。なお、応援歌と凱旋歌は、制定以降長らく口承によって受け継がれてきたが、1978年(昭和53年)に硬式野球部が春の選抜高等学校野球大会に初出場した際に、曲は当時の音楽科教師であった永長信一によって採譜され、歌詞は鎧塚弘久ら、当時の国語科教師によって確定された。(「前橋高等学校百三年史」による)

校歌は1番より4番まであるが、野球応援の時などは1番と4番のみ歌われることが多い。式典時は全番歌われる。前中・前高同窓会総会の際は、4番の末尾の1回目は「我らが前橋中学校」、2回目は「我らが前橋高等学校」と歌われるのが習わしとなっている。新入生は、入学直後に応援団による校歌指導という伝統行事があり、校歌と応援歌、凱旋歌を覚える。当校のWEBページにて校歌(1番のみ)と応援歌、凱旋歌を試聴することができる。

制服 編集

男子校の伝統でもある金ボタン5個の黒詰襟学生服

教育 編集

1学年では、芸術(音楽・美術・書道から一つを選択)、格技(剣道・柔道のどちらかを選択)の選択の他は、全員が同じ教科・科目を履修する。2学年では文系と理系に分かれ、文系では地歴科で日本史または地理から1科目を選択する他は、全員が同じ教科・科目を履修する。理系では理科で物理または生物から1科目、及び地歴科において日本史または地理から1科目を選択する他は、全員が同じ教科・科目を履修する。3学年では、文系では地歴公民科の中から、日本史・世界史・倫理政経のうち二つを選択する。さらに、探求物理または探求化学または探求生物の中から2科目、あるいは探求リーディングのいずれか一方を選択する。理系では地歴科と理科で選択科目があり、2学年と同じ教科を基本的に選択するが、地歴科において、日本史及び地理の代わりに世界史を選択する者が例年数名おり、授業が開講されている。それ以外は全員が同じ科目を履修する(選択科目に関しての詳しいことは、前橋高校のHPを参照のこと)。

また、2019年度 - 2023年度の5年間、文部科学省からスーパーサイエンスハイスクール (SSH) の指定を受け、2019年度入学生から、独自の教育課程を編成し、実施している。SS物理基礎・SS物理、SS化学基礎・SS化学、SS生物基礎・SS生物、SS探求基礎、SS科学研究I、SS科学研究II、探求総合等の科目を、学校設定科目として設定している(SSHの教育課程や学校設定科目に関しての詳しいことは、前橋高校のHPを参照)。

この他、総合的な探求の時間もあり、1・2学年では、年間を通じて研究や調査を深め、研修旅行などの成果もふまえて、年度末に論文をまとめ、優秀な論文は論文発表会で発表されるとともに、論文集としてまとめられる。3学年では小論文執筆のための様々な学習を行う。各学年とも、自分の進路に密接に関わる調査・研究を通して学習を進めるのが特徴である。

授業は1年次から大学受験を明確に意識したものとなっている。そのため授業(55分×6コマ)の進度は速くハイレベルである。国語・数学・英語の一部の授業では習熟度別授業も実施されている。宿題も数学などを中心にほとんど毎日課されており、週末にも週末課題と称して多くの課題が課されている。始業前や放課後には補習も行われている。さらに年間8回、土曜日に土曜登校学習と称して午前中3時間の補習が行われている。夏季休業中にも、1期、2期(3年生のみ)、3期にわたってそれぞれ5日間ずつ補習が行われる。冬季休業中、春季休業中にも、1・2年生対象にそれぞれ5日間の補習が行われる。なお、夏季休業中には、志賀高原方面において学習合宿が実施され(3年生が6泊7日、1, 2年生が合同で4泊5日)、多くの生徒が参加し、1日10時間以上の学習に取り組んでいる。また、冬季休業中を中心に、冬季集中学習会と称する自学自習を行う行事が3年生において行われ、毎年多数の3年生が受験直前の実力養成に励んでいる。

学校生活 編集

行事 編集

前橋高校における代表的な行事としては、文化祭・蛟龍(こうりょう)祭と、群馬県立高崎高等学校との対抗スポーツ大会である定期戦、音楽三部による定期公演・優曇華(うどんげ)が挙げられる。これらの行事は、生徒が組織する実行委員会によって企画・運営がなされている。他に、年に2回行われる校内競技大会、研修旅行、修学旅行、遠足、OB講演会なども開催されている。

  • 蛟龍祭(こうりょうさい)
    2年に1回、6月上旬の土日2日間で開催される文化祭である。文化部や各クラスによる展示や発表、公演の他、のど自慢、ミス・マエタカコンテスト(女装コンテスト)、ロックコンサート、仮装行列、模擬店、招待試合、バザーなどが2日間にわたって公開で行われ、近隣の他校の生徒や地域住民が多数訪れる。昭和24年(1949年)、第1回文化祭として開催され、昭和52年(1977年)より名称を「蛟龍祭」とした。また、第50回からは入場口前に巨大なモニュメントを制作するのが習わしとなっている。
  • 前高・高高定期戦 (まえたか・たかたかていきせん)
    毎年1回、9月末の金曜日に、1日がかりで高崎高校の生徒とさまざまなスポーツ種目の対抗戦を行い、その雌雄を決するもので、その始まりは戦後間もない頃まで遡る。両校の生徒達がしばしば利根川の両岸に対峙して石投げをしていたのを、もっと平和的な対決方法を模索する中で始まったものであるという説が有力である。第1回は昭和24年(1949年)11月8日、前橋高校庭で開催され引き分けた。例年両校の生徒がどちらか一方の高校に集まって開催され、ホーム・アウェーは一年ごとに交代する。競技は両校共に部活動として存在する種目の各部に所属する者同士による部対抗(硬式野球、軟式野球、陸上、バスケットボール、バレーボール、柔道、剣道、サッカー、ラグビー、テニス、ソフトテニス、空手道、卓球、弓道)とそれ以外の生徒が出場する一般対抗(水泳、駅伝、陸上、テニス、バレーボール、バスケットボール、卓球、ソフトボール、玉入れ、綱引き、長縄跳び)とオープン参加のドッジビがある。勝敗は両校の一般対抗と部対抗の総合得点によって決定する。現在は、高崎高校に7連敗している。
  • 優曇華 (うどんげ)
    毎年1回、7月中旬 - 下旬に前橋市民文化会館大ホール(2010・2013年度はベイシア文化ホール〈旧群馬県民会館〉大ホール)にて行われる吹奏楽部、ギター・マンドリン部、音楽部の3部による合同コンサートで、夕方から夜にかけて3時間ほどのプログラムで開催される。優曇華は公開で、例年多数の観客を集めている。かつては有料のイベントであったが、東日本大震災以降は無料での公開とし、観客から震災関連の募金を募っている。
  • 校内競技大会
    1学期の期末テスト後と、3学期の学年末テスト後に行われる、学年のクラス対抗による競技大会である。1学期末は夏季大会として、水泳、駅伝、バスケットボール、バレーボール、卓球、綱引き、玉入れ、ソフトテニス、陸上競技が行われる。この競技大会は、秋に行われる高崎高校との定期戦の選手選考も兼ねている。3学期末は春季大会として、サッカー、ソフトボール、硬式テニス、バレーボール、バドミントン、卓球が1, 2年生において行われる。成績は夏季大会のものと合算して決定される。
  • 研修旅行
    2006年(平成18年)度から修学旅行が実施されなくなり、その代替として東京方面にて1泊2日で実施された。旅行の内容は、大学の模擬授業の受講や、企業・研究所・博物館等を見学するものである。研修の成果は総合的な学習の時間におけるレポート作成に反映される。なお、2008年(平成20年)度からは、1年生で関西方面へ2泊3日で出かけ、2年生で東京方面へ日帰りで出かけるという形式に変更された。2014年(平成26年)度からは修学旅行が再開され、2013年(平成25年)度からは1年生が2学期に東京方面へ日帰りで出かけている。
  • 修学旅行
    2005年(平成17年度)までは、1年生の3学期に3泊4日で修学旅行を行い、関西方面や沖縄に出かけていた(さらに以前は1年生の3学期または2年生の2学期に、4泊5日で関西方面に出かけていた)。2014年(平成26年)度からは修学旅行が復活し、2年生の2学期に3泊4日で沖縄方面に出かける。
  • 遠足
    以前は5 - 6月に実施されてきたが、2009年(平成21年)から2013年(平成25年)は10月に実施された。2014年(平成26年)からは10月に実施されている。遠足と称しているが、実際は登山である。赤城山榛名山小野子山子持山など県内の山に、学年毎に別々に登る。以前は尾瀬湯ノ丸山荒船山野反湖平標山などに出かけたこともあった。雨天の際は、群馬県内の博物館の見学などに変更される。
  • 赤城新入生オリエンテーション
    毎年4月に行われる一年生が一泊二日で行われる合宿である。学校生活や生徒会活動、学校行事などに関するオリエンテーションの他、校歌指導、クラス対抗の綱引きなどが行われている。
  • OB講演会
    前橋高等学校OBによる講演会。例年10 - 11月に、開校記念式典とセットで行われている。ここ数年は安部一郎講道館柔道十段・創立130周年記念講演)、重原久美春(元OECD経済協力開発機構)副事務総長)、三村明夫(講演当時新日本製鐵社長)、高井健二(講演当時群馬県教育長)、宮川秀之(ジョルジェット・ジウジアーロとともにイタルデザイン社を設立)、斎藤公男日本建築学会会長・蛟龍館の設計者)、青木哲(前本田技研工業会長)、井野修日本野球機構審判長)らを講師として迎えている。

過去に約8kmのコースを走る全校マラソン大会が行われていたが、ベイシア前橋モール店が学校東隣にオープンし、周辺の交通量が激増したことで安全面の問題から2000年(平成12年)度を最後に実施されなくなった。また、1997年(平成9年)まで、毎年1月に予餞会が行われてきた。これは、群馬県民会館(現在はベイシア文化ホール)、後に前橋市民文化会館で実施され、かつては芸能人を招いてのコンサート、後にはお笑い芸人等を招いてショーやコントを鑑賞する会であった。これは開校記念式典とセットで行われていたが、1998年(平成10年)より実施されなくなった(なお、開校記念式典は毎年秋に時期を移し、OB講演会とセットで体育館で実施されている)。

部活動 編集

2002年春の硬式野球部の甲子園センバツ)出場をはじめとして、剣道部、卓球部、陸上部、軟式野球部、弓道部、山岳部などが県内で好成績を挙げており、群馬県高校総体の男子総合成績では、2007年度の総合2位を筆頭に、ここ数年は総合成績で3位以内にランクイン、2017年度には総合初優勝を果たしている。また、全国大会に出場する部も毎年複数ある。

また1978年春のセンバツ出場時には、対比叡山高校戦において松本稔投手が完全試合を達成した(春夏を通じ甲子園大会史上初)。このことは高校野球ファンのみならず全国的に有名であり、『四番、ピッチャー、背番号1』(横尾弘一著)では、松本のその後の歩みが取り上げられている。なお、松本は2007年度まで前橋高校で体育教師・野球部監督を務め、前述のとおり本校を24年ぶりの甲子園に導いた(2008年度に群馬県立中央中等教育学校に異動)。

また、文化部の活動も盛んで、吹奏楽部をはじめ、全国の高校でも数少ない男声合唱に取り組んでいる音楽部、百人一首かるた部、書道部、美術部、演劇部、囲碁部、将棋部、鉄道研究部、マンドリンに親しんでいたことで知られるOBの萩原朔太郎にちなんで結成された歴史を持つギター・マンドリン部、テレビ番組でもその活動ぶりが紹介された、全国的にも珍しい大道芸部などがある。クイズ研究同好会や、家庭科同好会などの同好会も存在する。

坂東太郎 編集

校友会誌。明治23年(1890年)、通学倶楽部から出された『文藻』を源流とする。明治27年(1894年)、11号まで発行された『文藻』を改題し、『学友会雑誌』第1号として発行。明治34年(1901年)30号となるのを機に『坂東太郎』と改題。昭和14年(1939年)第92号を「戦線慰問号」として発行、次年度より紙不足により中止。昭和23年(1948年)新制高校発足に伴い第93号を終刊号として発行。昭和34年(1959年)第94号を創立80周年記念号として復刊。

寄稿した当時の生徒には平井晩村、萩原朔太郎らがいる。

高校関係者と組織 編集

高校関係者組織 編集

  • 同窓会
    同窓会組織として「群馬県立前橋中学校・前橋高等学校同窓会」(略称:前中・前高同窓会、明治44年(1911年)設立)があり、同窓会本部のほか、居住地域別支部および卒業年次別の同期会が組織されている。

著名な出身者 編集

政治家
官僚・国際機関関係者
軍人・自衛隊関係者
社会運動家・革命家
企業家
文化・芸術関連
スポーツ関連
学術関係
宗教家
アナウンサー
その他の著名な出身者

著名な教職員 編集

施設 編集

校舎 編集

2007年(平成19年)に、県内の県立高校の中でも最も早く、教室棟の全普通教室にエアコン設備が設置された。当初は補習や模擬試験の際に運転されていたが、現在では授業時間中も運転されている。

記念館 編集

校内の西、正門を入って右手に位置する建物。1979年(昭和54年)の前橋市天川原町(現在は文京町)から現在の下沖町への校舎移転(後述)の際、天川原町の旧校地にあった第二体育館を移築したものである。なお、この第二体育館は、1934年(昭和9年)に校舎が紅雲町から天川原町に移転した際に建てられた生徒控所(朝礼などが行われた)で、1952年(昭和27年)に校舎が全焼した際も焼け残り、新校舎の完成までは仮教室として使用されていた。下沖町に移築後の現在では記念館と呼ばれ、卓球部の活動場所としての他、体育の授業や学年単位の集会等に使用されている。

蛟龍館 編集

校舎の東に設置されている。1980年に下沖町移転に伴って、同窓生の寄付金を元に新築された(設計は同窓生の斎藤公男)。1階が学生食堂、2階が会議室兼自習室(学期中の平日は基本的に20時半まで利用できる)、3階が各種文化部の活動室と部活動などの合宿のための宿泊施設として使われている。

文化財 編集

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 前橋市史編さん委員会 編『前橋市史 第四巻』前橋市、1978年、494-495頁。 
  2. ^ 上毛新聞社 1982, pp. 16–18.
  3. ^ 上毛新聞社 1982, pp. 23–24.
  4. ^ 富士見村誌編纂委員会 編『富士見村誌』富士見村役場、1954年、467頁。 
  5. ^ 上毛新聞社 1982, p. 36.
  6. ^ 上毛新聞社 1982, pp. 38–39.
  7. ^ 上毛新聞社 1982, pp. 53–54.
  8. ^ 上毛新聞社 1982, pp. 68–69.
  9. ^ 上毛新聞社 1982, pp. 94–99.
  10. ^ 上毛新聞社 1982, p. 178.

参考文献 編集

  • 上毛新聞社『〈学園物語〉前橋高校』上毛新聞社、1982年。 
  • 前橋高等学校校史編纂委員会編 『前橋高校百三年史』 前橋高等学校、1983年。

関連項目 編集

外部リンク 編集