耶律何魯掃古(やりつ かろそうこ、生没年不詳)は、(契丹)の軍人は烏古隣。

経歴 編集

孟父房の末裔。重熙末年、祗候郎君に補任された。清寧初年、安州団練使を加えられた。太康年間、懐徳軍節度使六部禿里太尉を歴任した。枢密官とともに東北辺境の行政を担当し、左護衛太保に転じた。道宗に近侍して、物言いは率直であり、他者の考えを忖度しなかったので、道宗に優遇された。

太安8年(1092年)、知西北路招討使事となった。耶睹刮らの侵攻があったため、何魯掃古は北阻卜の首長の磨古斯を誘って耶睹刮を攻撃し、多くの捕虜をえた。功績により左僕射の位を加えられた。再び耶睹刮らを討ったが、誤って磨古斯を攻撃したため、磨古斯は遼に反抗するようになった。太安9年(1093年)、都監の蕭張九を派遣して磨古斯を討たせたが勝利できず、2室韋と六院部・特満群牧・宮分などの軍が磨古斯に敗北した。何魯掃古は事実を報告しなかったことから、罪に問われて官を剥奪され、杖罰を受けた。

寿昌6年(1100年)、惕隠となった。侍中を兼ね、保節功臣の称号を賜った。乾統元年(1101年)、道宗が死去すると、宰相耶律儼とともに総山陵事をつとめた。乾統3年(1103年)、南院大王となった。致仕して、死去した。

伝記資料 編集