耶律 統古与(やりつ とうこよ、Yelü Tongguyu、? - 1217年)は、末に活躍した契丹人。後遼政権の君主の一人。

概要 編集

1213年3月、契丹人の耶律留哥モンゴル帝国の侵攻によって金朝の支配が緩むと遼東で自立して「遼(東遼)」を建国した。しかし、東遼政権の内部では皇帝号を称するべきであるとする耶律廝不とモンゴル帝国を宗主として尊重すべきとする耶律留哥の意見が対立し、やがて耶律留哥は密かにチンギス・カンの下を訪れて改めて忠誠を誓った。耶律留哥はチンギス・カンの下から耶律乞奴ら使者を派遣して反対派閥を従わせようとしたが、不利を悟った耶律廝不は耶律乞奴耶律金山・耶律青狗・耶律統古与らを味方に引き入れて東遼政権から自立し、独自に「遼」の皇帝を称した[1][2][3]。この政権は耶律留哥の遼(東遼)などと区別するために、一般に「後遼」と呼ばれる。

しかし、耶律廝不の即位から僅か数カ月にして耶律青狗が裏切って金に降り、耶律廝不は耶律青狗によって殺されてしまった。そこで、丞相の地位にあった耶律乞奴が監国として国政を預かったが、モンゴル軍の助けを得た耶律留哥と金朝軍の双方から攻撃を受けて高麗に逃れた。高麗領に入った後遼政権はなおも内部対立が続き、耶律乞奴を耶律金山が殺し、更に耶律統古与が耶律金山を殺して自立した[4]。そして、耶律統古与もまた間もなく耶律喊舎によって殺されてしまった。耶律統古与の治世は耶律喊舎とあわせて「2年近く」であったと伝えられている[5][6]

脚注 編集

  1. ^ 『元史』巻149列伝36耶律留哥伝,「留哥遣大夫乞奴・安撫禿哥与倶、且命詰可特哥曰『爾妻万奴之妻、悖法尤甚。其拘縶以来』。可特哥懼、与耶廝不等紿其衆曰『留哥已死』。遂以其衆叛、殺所遣三百人、惟三人逃帰。事聞、帝諭留哥曰『爾毋以失衆為憂、朕倍此数封汝無吝也。草青馬肥、資爾甲兵、往取家孥』」
  2. ^ 『元史』巻149列伝36耶律留哥伝,「丙子、乞奴・金山・青狗・統古与等推耶廝不僭帝号於澄州、国号遼、改元天威、以留哥兄独剌為平章、置百官」
  3. ^ 池内1943,568-569頁
  4. ^ 『元史』巻149列伝36耶律留哥伝,「乞奴走高麗、為金山所殺、金山又自称国王、改元天徳。統古与復殺金山而自立、喊舎又殺之、亦自立」
  5. ^ 『元史』巻149列伝36耶律留哥伝,「自乙亥歳留哥北覲、遼東反覆、耶廝不僭号七十餘日、金山二年、統古与・喊舎亦近二年、至己卯春、留哥復定之」
  6. ^ 池内1943,593頁

参考文献 編集

  • 元史』巻149列伝36耶律留哥伝
  • 池内宏「金末の満洲」『満鮮史研究 中世第一冊』荻原星文館、1943年
  • 蓮見節「『集史』左翼軍の構成と木華黎左翼軍の編制問題」『中央大学アジア史研究』第12号、1988年
  • ドーソン著、佐口透訳『モンゴル帝国史平凡社 / 東洋文庫