メインメニューを開く

聖バーソロミュー病院

聖バーソロミュー病院(せいバーソロミューびょういん)は、ロンドンスミスフィールドに存在する病院である。正式名称は "The Royal Hospital of St Bartholomew"(王立聖バーソロミュー病院)。また略称の "Barts"(バーツ)の名でも知られている。

聖バーソロミュー病院
Barts Health NHS Trust英語版
Barts-main-entrance.jpg
バーツのヘンリー8世門は1702年に完成した
(qv. アーチ門上にある石像は、ロンドンで唯一のヘンリー8世の石像である)
聖バーソロミュー病院の位置(セントラル・ロンドン内)
聖バーソロミュー病院
所在地
所在地 英国ロンドンスミスフィールド
組織
医療組織 国民保健サービス
種類 診療、医療教育
大学 バーツおよびロンドン医科歯科学校英語版
医療
救急指定 なし
病床数 388
歴史
開院 1123年(895年前) (1123
リンク
ウェブサイト www.bartsandthelondon.org.uk

設立は1123年であり、ヨーロッパで最も古い病院とされる。

現在はバーツ・ヘルス・NHSトラスト英語版の一角を成している。

目次

歴史編集

初期編集

バーツは1123年に、ヘンリー1世の寵臣だった、ラーヘレ英語版によって設立された(彼は1144年に亡くなり、病院近くのセント・バーソロミュー・ザ・グレート教会に葬られている)。

ヘンリー8世の行った修道院解散は、バーツの病院経営には影響しなかったものの、収入が目減りしたことで、バーツを危機的立場に追い込んだ。バーツは、1546年12月に、シティ・オブ・ロンドン共同体英語版から認可を受ける合意に調印したことで、ヘンリー8世により再設立されることになる。この内容は、1547年1月に発行され、バーツが不動産や金銭の寄付を受けると定めた専売特許証でも、再確認されている。病院は法的に、『ヘンリー8世設立・シティ・オブ・ロンドン・ウエストスミスフィールド救貧院』(: House of the Poore in West Smithfield in the suburbs of the City of London of Henry VIII's Foundation)と命名されたが、この名称が一般に使われたことは無い。初代病院長は、ヘンリー8世の侍医(外科医)で、初期の解剖学者でもあったトーマス・ヴィカリー英語版が務めた[1]

この病院では、医学進歩に繋がる研究が多数行われた。例えば、17世紀に、ウィリアム・ハーヴィー血液循環説に関する研究をバーツで行っている。また、18世紀には、パーシヴァル・ポットジョン・アバーネシー英語版によって、近代外科学の重要原理が定められた。更に、19世紀には、バーツ所属のベッドフォード・フェンウィック夫人英語版が、看護職の発展に尽力している[2]

1839年から1872年にかけてのバーツの死亡率報告書によると、この時期の死因として最も多いのは、術中の外傷と、術後の感染である。これらの外傷性の死亡を除いた場合には、結核が死因のトップとなっている[3][注 1]

1948年国民保健サービスが設立されると、バーツは正式に『聖バーソロミュー病院』の名で知られるようになる。

建物編集

バーツは、英国で現在も医療提供している医療施設として最古のものであり、創建当時と同じ場所に建物がある。そのため現在では、長い歴史もさることながら、建築学的にも重要な価値を持っている。病院の『ヘンリー8世・エントランス』と呼ばれるエントランスは、現在でも一般に最も使われる入口である。また、ゲートハウス上に据えられたヘンリー8世の石像は、ロンドンに現存する彼の石像として唯一のものである。

バーツのメイン広場は、1730年代ジェームズ・ギブス英語版によって設計された。元々の4区画の内で現存しているのは、大広間を含む区画と、病院の建物を含む2つの区画の、合わせて3区画である。北ウィングは1732年に最も早く建設された部分で、大広間や、ウィリアム・ホガース壁画が存在する。1740年には南ウィング、1752年には西ウィングが建設され、最後に東ウィングが、1769年に建設された。1859年には、広場の中心に、噴水と小さな庭が設置されている[1]

画像外部リンク
  en:File:Bartshogarth-800.jpg
? ホガースの壁画『ベセスダのプール』

聖バーソロミュー病院は、12世紀の設立からずっと同じ場所に位置し、ロンドン大火ロンドン大空襲をくぐり抜けてきた。附属博物館では、創立当時からの医療の発展を示す展示や、病院の歴史を伝える展示が行われている(開館は毎週火曜から金曜)。展示室に繋がるドアは、病院のオフィシャル・エントランスホールに繋がっている。階段の壁には、ウィリアム・ホガース壁画が2枚飾られている(1736年の『ベセスダのプール』"The Pool of Bethesda" と1737年の『善きサマリア人』"The Good Samaritan" [注 2])。これらの壁画は閉鎖区域にあり、金曜午後にのみ見ることができる。ホガースは、病院がイタリア人画家の絵を買い求めたことに激怒し、イギリスの絵画作品も同格だと、無償でこれらの絵画を描かされたことへ抗議している[注 3]。『ベセスダのプール』は、キリストが病人を看護するシーンが描かれており、医療に深く関係する絵である。この絵に付けられた紹介書きには、絵画中で病人が苦しんでいる病気について、現代的な医学用語で注釈が付けられている。

階段を抜けた先の病院の大広間は、バロック様式の吹き抜けの部屋である。大広間内部には数点の絵画しか無いが、ほとんど全てが可動式のスタンドに据えられている。壁そのものは、非常に沢山の、大きくて彩色されたプラーク(飾り板)で埋め尽くされており、それらには、病院の後援者が寄付した金額が詳細に記録されている。£sd(ポンド=シリング=ペンス)で記録された寄付の中には奇妙な金額のものがあるが、これは遺産相続完了後に、余りとして残った財産が寄付されたもの、もしくはギニーでキリ良く寄付されたものを、£sd表記に直したもの[注 4]である。

ヘンリー8世による修道院解散の後、かつて修道院だった病院の敷地は、英国国教会小教区として再編され、聖バーソロミュー・ザ・レス教会英語版教区教会となった。これは英国内各病院の創立史を見ても、特異的な例である。聖バーソロミュー・ザ・レス教会は、病院の敷地内に建てられた教会として、唯一現存する教会である(同様の教会は他に4つ存在したが、全て改築の際に消滅している)。この教会には、15世紀に建てられた塔と教区総会所が存在する。病院とこの教会とのつながりは、20世紀初頭にワーシップフル・カンパニー・オブ・グレイザーズ英語版(英: Worshipful Company of Glaziers)から送られた看護師ステンドグラス窓や、内装として飾られた記念プラークに見ることができる[5]

19世紀を通して、ハードウィック家はバーツの主要な後援者であり続けた。トーマス・ハードウィック・ジュニア英語版1752年1825年)、フィリップ・ハードウィック英語版1792年1870年)、フィリップ・チャールズ・ハードウィック英語版1822年1892年)は、いずれもバーツを手掛けた建築士・測量士であった。フィリップ・ハードウィックは、王立芸術院出身で、1823年の聖バーソロミュー・ザ・レス教会改築を手掛けただけでなく、病院中庭の噴水を寄付した人物でもある。

1872年までには、バーツは676床を有する病院になっていた。毎年、約6000人の入院患者と、101,000人近くの通院患者を抱える大病院であった。病院の平均収入はおよそ4万ポンド(主に使用料と固定資産によるもの)で、理事の数は300人を優に超えていた[1]

閉鎖の危機編集

 
19世紀初頭のバーツの中庭
 
バーツの大広間

1993年にロンドンの病院に関するトムリンソン・レビュー (Tomlinson Review of London hospitalsが発行され、ロンドン中心部は病院過多である、と結論付けられた(このレビューには賛否両論が存在する)。このレビューでは、居住地域のなるべく近くで医療サービスを受けることが推奨されていた。バーツは、通院区域に人口が少ない[注 5]病院とされ、閉鎖の危機に遭っている[6]。病院を存続させるため、病院スタッフや地域住民、国会議員そしてシティ・オブ・ロンドン・コーポレーション英語版などが支援した『Save Barts Campaign』が、シティの30万人以上に上る日雇い労働者たちに医療提供するため、総合病院がこの場所に必要であることを訴えてキャンペーンを展開した。

ほとんどの部門は廃止の危機を免れたものの、事故・救急救命部 (the accident and emergency department) は1995年に閉鎖され[7]王立ロンドン病院英語版の救命部と統合された(王立ロンドン病院はバーツと同じトラストグループに所属しているが、数マイル離れたホワイトチャペルに位置する)。バーツには、軽症患者を処置できる軽傷処置部が設けられたが(救急医療の大部分は軽症患者である)、緊急や重症の患者は、別の病院へ搬送する必要がある[7]2001年アメリカ同時多発テロ事件2005年ロンドン同時爆破事件に際しては、シティが未だテロの重要標的であるとして、地域医療サービスの不足に対する不安が巻き起こった。

バーツを循環器治療がん治療の拠点センターとして発展させる案が練られたこともある。この発展計画は、2006年PFI資金に関するレビューが出された時に再び頓挫の危機に瀕している。このレビューは、"Save Barts Campaign" 再展開の引き金を引いている[8]。この問題は解決され、現在バーツはがんケア治療部[9]と新・バーツ心臓治療センター[10]を附設している。更に王立ロンドン病院に新しい一般病棟[11]が設置された。バーツは、チャーターハウス・スクエア英語版に位置する付属医学学校での優れた研究・教育で、長い間評価されている。

クイーン・メアリー・ウィングは現在取り壊されているが、ジョージ5世棟のファサードは病院の新棟に保存されている。入院用の病室は、1部屋4床である。新しいメイン・エントランスは、キング・エドワード街に面している。ギブス・スクエアは改装される予定で、この区画から駐車場が取り去られた[12]

バーツは、王立ロンドン病院英語版ロンドン・チェスト病院英語版と共に、バーツ・ヘルス・NHSトラスト (Barts Health NHS Trustの一角を成している。病床数は、バーツが388床、王立ロンドン病院が675床、ロンドン・チェスト病院が109床である。この3病院は、2012年3月1日に、ウィップス・クロス病院(: Whipps Cross hospital)・ニューアム病院(英: Newham hospital)と『合併』する形で、「バーツ・ヘルス・NHSトラスト」(: "Barts Health NHS Trust")を形成した。

医学教育編集

聖バーソロミュー病院メディカル・カレッジは、19世紀初頭にジョン・アバーネシー英語版によって創設されたと考えられていた(病院はこの時、彼の講義のために講堂を設置している)[注 6]。しかし、医師の育成機関として実際にこのカレッジが創設されたのは、1843年のことである。
1995年には、王立ロンドン病院のカレッジと合併し、クイーン・メアリー・ユニバーシティ・オブ・ロンドン英語版を形成したが、今日に至るまで2つのカレッジは明確な独立性を保っている。現在このカレッジは、バーツおよびロンドン医科歯科学校英語版として知られている。校舎は、チャーターハウス・スクエア英語版に程近い、スミスフィールド地区のバーツ敷地内に存在する。医学部の主要な臨床前教育を行う部門は、ホワイトチャペルブリザード・ビルディング英語版に入っている(この建物は建築賞を受賞している)。

現在の、看護・助産学部は、1994年に、聖バーソロミュー病院・王立ロンドン病院英語版それぞれの付属学校が合併する形で、聖バーソロミュー病院付属看護・助産学部(英: St Bartholomew School of Nursing & Midwifery)として設立された。1995年には、シティ大学ロンドンへ編入されている。どちらの学部も、120年以上前に遡ることのできる堅固で立派な歴史を持ち、多くのナース・リーダーや教育者を輩出している。この学部は、シティ大学ロンドンの健康科学部(英: The School of Health Sciences, City University)として編入されている。

著名な卒業生編集

 
ウエストスミスフィールドに臨む聖バーソロミュー病院、2007年

以下、名字のABC順で整列。

架空の人物編集

ホスピタル・ミュージアム編集

 
バーツの北壁に設置された記念銘板。第一次世界大戦中に5406名の兵士が入院したことが記されている

バーツ博物館では、病院の歴史と、病院での傷病人治療について展示が行われている。博物館のコレクションには、歴史的な外科器具や、彫刻作品、中世の古文書、そしてウィリアム・ホガースの絵を含む絵画コレクションなどが存在する。博物館は北ウィングのアーチ道下に位置し、火曜日から金曜日の10時から16時まで開館している。入館料は無料だが、寄付は歓迎されている。

この博物館は、ロンドン・ミュージアムズ・オブ・ヘルス・アンド・メディスン英語版: The London Museums of Health & Medicine)の一員である。

シャーロック・ホームズとワトスン医師編集

バーツの化学実験室は、シャーロック・ホームズワトスン医師が、アーサー・コナン・ドイル1887年の小説『緋色の研究』で初めて会った場所である[14]。バーツはワトスンの出身校であった。この架空の設定は、1990年代に "the Save Barts Campaign"が巻き起こった際に、日本のホームジアンたち[注 7]がキャンペーンへ寄付をするきっかけとなっている[15]

因みに、バーツには『ホームズとワトスンが初めて会った場所』としてプラークが設置されているが、研究室の中にあるため、一般の観光客が訪れることはできない。

BBCが制作したTVドラマ『SHERLOCK』では、バーツが幾度となく登場している。登場人物の一人で法医学者のモリー・フーパーは、バーツのモルグに勤めている。また、ドイルの原作通り、シャーロックとジョンは、バーツのラボで初対面する。2012年に放送された第2シリーズ第3話『ライヘンバッハ・ヒーロー』でも舞台として言及されているほか[注 8]2014年に放送された第3シリーズ第1話『空の霊柩車』でも、前回に引き続きバーツが登場している。

脚注編集

[ヘルプ]

注釈編集

  1. ^ この時代には、医師の手を介して感染症が蔓延することは茶飯事であった。また、現在のように、医療器具の滅菌・使い捨てが行われていなかった。産褥熱による死者が多かったのも同様の理由である[4]
  2. ^ どちらもキリスト教にまつわるイコンである。詳しくは『ベセスダのプール英語版』、『善きサマリア人のたとえ』参照のこと。
  3. ^ 英国は、ホガースの登場までは絵画史における不毛地帯だった(海外出身者を除く)。
  4. ^ 1ポンドは20シリング、1ギニーは21シリングに相当する。例えば50ギニー(=1050シリング)を£sd表記に直すと、52ポンド10シリングとなって半端が出る。
  5. ^ シティの人口は世紀の変わり目頃から減少し続けており、1991年までには、6000人を切るまでになった[要出典]。主に、バービカン・エステート英語版の住人と、オフィスの管理人が減少している。なお、バーツはイズリントン区カムデン区南部も受け持っている。
  6. ^ バーツはロンドン・バーカーズ1831年に行った犯罪に関係している。外科医の解剖実習のため、『身元不明の遺体』を受け入れた病院の一つである。
  7. ^ 原文『the Tokyo "Sherlock Holmes Appreciation Society"』、直訳すれば「東京のホームジアングループ」[15]ガーディアン紙の記事からは、この団体の日本での正式名称などは分からない。なお、ホームジアン協会のひとつ・日本シャーロック・ホームズ・クラブ(JSHC)には、公式・組織的に寄付をした記録は無い。一方で、1994年に、ロンドンホームズ協会主催で開かれた"Back to the Baker Street"にて、JSHCのメンバーが個人的に寄付をした記録はある(小林司東山あかね夫妻ほか)[16]。その他のホームジアン協会については詳細不明である。
  8. ^ シャーロックが飛び降りをする場所”. Googleマップ. 2016年2月17日閲覧。

出典編集

  1. ^ a b c St Bartholomew's Hospital”. 2009年1月30日閲覧。(Old and New London: Volume 2 (1878年), pp. 359-363)
  2. ^ James O. Robinson, "The Royal and Ancient Hospital of St Bartholomew (Founded 1123)," Journal of Medical Biography (1993年) 1#1 pp 23-30
  3. ^ Thomas R. Forbes, "Mortality at St. Bartholomew's Hospital, London, 1839–72," Journal of the History of Medicine and Allied Sciences (1983年) 38#4 pp 432–449
  4. ^ 茨木保『まんが 医学の歴史』2008年医学書院茨木保. “茨木保公式サイト・まんが 医学の歴史”. 2016年2月16日閲覧。
  5. ^ AIM25. “St Bartholomew the Less parish”. 2009年1月30日閲覧。
  6. ^ Bernard Tomlinson’s Report of the Inquiry into the London Health Service (HMSO 1993年)
  7. ^ a b Major to minor: the closure of Bart's A&E department has overshadowed a parallel development at the London hospital - the opening of a nurse-led minor injuries unit by Cassidy, Jane Nursing Times英語版 (1995年)
  8. ^ Nigel Hawes (2006年1月16日). “Billion-pound hospitals plan faces collapse”. タイムズ. 2009年1月30日閲覧。
  9. ^ Barts Cancer Centre”. 2016年2月17日閲覧。
  10. ^ the Barts Heart Centre”. 2016年2月17日閲覧。
  11. ^ The Royal London Hospital”. 2016年2月17日閲覧。
  12. ^ Proposals for Barts”. Barts and The London. 2009年2月3日閲覧。
  13. ^ www.classicalsource.com”. 2016年2月17日閲覧。
  14. ^ アーサー・コナン・ドイル (1887年). “A Study in Scarlet/Part1/Chapter1”. Wikisource. 2016年2月17日閲覧。
  15. ^ a b Mike Gould (2006年12月13日). Campaign for Bart's still has a bite. ガーディアン. http://www.guardian.co.uk/society/2006/dec/13/guardiansocietysupplement4 2016年2月17日閲覧。 
  16. ^ JSHC東京例会 (2016年2月19日). “1990年代のバーツ閉鎖回避のための寄付の件、日本シャーロック・ホームズ・クラブとしては行っていません。1994年のロンドンホームズ協会主催”Back to the Baker Street”にて、個人的に寄付をした方は、主宰者の小林司・東山あかねご夫妻始め何人かいるようです。”. 2016年2月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月19日閲覧。

参考文献編集

  • Dainton, Courtney. "Bart's Hospital," History Today (1978) 28#12 pp810–16, popular overview; online
  • Robinson, James O. "The Royal and Ancient Hospital of St Bartholomew (Founded 1123)," Journal of Medical Biography (1993) 1#1 pp 23–30
  • Waddington, Keir. Medical Education at St Bartholomew's Hospital 1123-1995 (2003) 464pp.
  • Waddington, Keir. "Mayhem and Medical Students: Image, Conduct, and Control in the Victorian and Edwardian London Teaching Hospital," Social History of Medicine (2002) 15#1 pp 45–64.

外部リンク編集